タダ働き始めてみました。
湯気を帯びたカップが、俺の前に置かれた。
コーヒーの表面に移る俺は間抜け面をしていて、すぐに飲み干してしまおうと口をつけた。
「熱っっっ!!!]
コーヒーは一気に口内を高熱で満たし、俺の表情は苦悶そのものだろう。
「大丈夫ですか⁉」
店員さんは俺の元に駆け寄り、少し屈んで心配してくれる。
「だ、大丈夫です。ちょっと熱かっただけですから」
近づいた店員さんの顔に動揺して、口内の熱が顔に伝播した気がする。
手を横に振って大丈夫だと伝えるが、それでも店員さんはぐいっと顔を近づけて心配してくれる。
「本当ですね? 火傷とかしてませんか?」
「本当に大丈夫ですから。心配しないでください」
そう言うと、店員さんは安堵したのか胸に手を当てて息を吐いた。
よほど本気で心配してくれたのか店員さんの頬は紅潮している、きっと俺よりも。
「お水です。さっきは、ごめんなさい」
カウンターの向こう側に戻った店員さんは水を差しだしてくれた。
すると――、
「――いつもこうなんですよね、私。毎回お客さんに迷惑かけちゃって……」
「そんな、迷惑だなんて。さっきのは熱さとか気にしなかった俺が悪いんです」
「いいえ。私が悪いんです。だって、私の代でお店がこんな有様に……」
「えっ?」
店員さんは一つため息をついて、尋ねてきた。
「少し、私の話聞いてもらっていいですか」
俺は頷いて、少し畏まってみる。
背筋を伸ばした俺にくすっと笑う店員さんは、ちょっとした昔話を始めた。
「このお店は、私の祖父が開いたものでもう60年ほど続いているんです。でも、去年の暮れに祖父が亡くなって、父はもともと継ぐ気がなかったので私がこうしてお店を預かっているんです」
確かに、店の外観も内装も決して開店直後には見えない。
60年も続いていると言われれば納得だ。
「だけど、私がお店を切り盛りするようになってからは常連さんもこなくなって、たまに来るお客さんにはさっきみたいに迷惑かけちゃうし……」
同じく納得した。
店員さんが言うように、本当にこの人は毎回のように客になにかしでかしているのだ。
「そうは言っても、俺みたいに客に非があることがほとんどなんですよね?」
「いえ……お客さんにコーヒーかけちゃったり、お代の桁を一つ間違えちゃったり、ケーキの材料の砂糖を塩と間違えたり……ぅぅ」
自分で言ってしくしく泣き始めた店員さん。
まだまだ出てきそうな失敗談を聞いてみたい気持ちもあるが、今はやめておこう。
「だ、大丈夫ですよ。それくらいの失敗どのお店でも――」
「しませんよね?」
「……はい」
慰めようと試みたが失敗に終わった。
店員さんはおもむろに落ち込んだ表情を見せる。
肩はこれ以上にないほどになで肩になり、その首はもう落ちかけている。
長く綺麗な黒髪が前方に垂れ、その姿はお店の外から見たら絶叫確実だ。
なんでそう思うかって?
それは――、
「あの、ずっと気になってたんですけど」
「はい?」
「なんでこのお店電気ついてないんですか?」
「節電です」
「節電?」
「はい! 経営厳しいので!」
我ながら、呆れてしまった。
「一言、言わせてもらってもいいですか?」
「なんでしょう」
俺は一つ深呼吸して、
『あんた馬鹿か⁉ どのお店も昼間から明かりは灯っているしこれだけ暗かったらお店がやっているかもすぐには分からない! おまけに店員がポンコツ! 砂糖と塩を間違えるってなに? お代の桁を間違えるってどういうこと? さっきは誤ったけどあのコーヒーは熱すぎですよ⁉ あんなの誰が飲んでも火傷するわ!』
という本音は飲み込んだ。
「……電気は、つけた方がいいですよ」
「……どうして、ですか?」
なんでいきなり言い方を真似してきたんだこの人。
さっきから思ってたけど、ちょっとなれなれしくなってないか。
「外からお店がやっているのが一目で分かるからです。店表の苔だらけの看板じゃ誰の目も引きません」
俺がそう言うと、店員さんは黙って俺をみつめる。
「天才ですか⁉ さてはお客さん天才ですね⁉」
ガっとカウンターから身を乗り出し、俺の手を握る店員さん。
顔が近い、顔が近いって。
「そこまで助言してくださる方は初めてです! よかったらうちで働きませんか?」
「……へ?」
唐突の申し出に困惑した。
だがこれはいわば仕事のスカウト。悪い気はしない。
「ちなみに、給料は」
「お金は出せません!」
何言ってんだこの人。
お金は出せない? 俺にタダ働きしろってか。
「話になりません。コーヒーいくらですか、帰ります」
「コーヒーは3000円になります」
「はい……ってんなわけあるかぁ!!!」
思わず、ツッコミを口に出してしまった。
店員さんは満面の笑みで、「なにか?」と言ってくる。
「コーヒーが一杯3000円て、いまどきス〇ーバックスでももっと安いですよ⁉」
「でもうちの経営が厳しいから、値段を上げないと……」
呆れるのを通り越して軽蔑まである。
この店、いや、ぼったくりカフェは直につぶれてしまうだろう。
でも、そう考えたらなぜかやるせない気持ちになった。
経営者として致命的、そしてお金にはシビア。
それでも、きっとこの人は純粋にお店のことを考えている。
きっと真面目で、素直なこの人を俺は放っていくのか。
答えは否だ。
「分かりました。でもちゃんと給料――」
「ありがとうございます!」
「給――」
「ありがとうございます!!!」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
こうして、俺の労働ライフは幕を開けたのだった。
俺の中二的正義感がそうさせたのかもしれない。
つぶれかけの店主の頼みを聞く俺カッケェみたいな陶酔に浸っているのかもしれない。
何でもいいから、この人の手助けをしたい。
だって、この人めちゃくちゃタイプ。
俺、最低だな。
でも人の原動力なんて、そんなものだろ?




