5話 いつかその先へ
「何かお礼をしないといけないわね……ルクシオ、私にしてほしいことはない?」
「結婚」
「以外で」
夜の公園の池の周りを散歩しながら、ユーミアからの問いにルクシオがすかさず答える。すかさず却下されたが。
「質問を変えるわ。何か欲しい物はない?物よ、物にして。質量がある物ね」
「インクは物に含まれますか?」
「書く先を限定しないならいいわ」
ならばと出した代案も即躱されてしまった。暗くて文字まではよく見えないはずなのに、取り出した紙が婚姻誓約書であることはあっさり見破られたようである。
「限定はしないです。他にも違う紙はあるのでどれかにサインしていただければ」
「抜け道を探そうとしないで」
続けて取り出した別の紙もやっぱり様式が同じことはあっさり見破られたようである。
「うちに来た時も持ってたわよねそれ……持ち歩くようなものじゃないと思うのだけど」
「もし貴女の気が変わってすぐに結婚したいと思ってくれたとして、その時この一枚がないせいでチャンスを逃したらと思うと死んでも死に切れなく」
「そんな機会は無いから持ち歩くのはやめなさい」
ユーミアの苦笑混じりの言葉に、ルクシオが持つ誓約書にピシリと線が入った。
「で、でも、世の中には万が一ということが」
「万が一でも無いわよ」
思わず歩みも止まる。そんな機会は万が一にも無いと、そこまで迷いなく言い切れるということは、つまり。
「それは……貴女から俺と結婚したいと思うことは、万が一にも無いということですか……?」
「え?」
間違った。完全に間違った。何を自惚れていたのだろう、ユーミアはルクシオを好きで結婚してくれるわけではない。
この仮婚約はその面倒見の良さに全力で付け込んでもぎ取ったもの。わかっていたはずなのにいつの間にか忘れていた。
ユーミアも少しくらいは特別な好意を持ってくれているはずだと、勘違いを。
「な、なんでもないです、忘れてください」
片腕に添えられたユーミアの左手の薬指からさっと目を逸らす。ついさっきまであんなに輝いていた指輪が陰って見えた。
もしかしてこれも、本当は迷惑だったりは。
「あ……ち、違うわ、違うのよルクシオ」
ルクシオの動揺を察したのだろう。ユーミアが慌てた様子で腕を掴む力を強めた。
「違わない。違わないでしょう……」
思ったよりずっと低い声が出て、ルクシオは驚いて自身の口を押さえた。
「あ、いや、貴女を責めてるわけじゃあないです、俺が勝手に勘違いしていただけだ」
同情でも構わないと決めたではないか。持てる武器は全て使って手に入れると決意したはずじゃあないか。
何を落ち込んでいるんだ、これ以上この優しい人を困らせるわけにはいかない。そう己を叱咤するも震えた声は中々元に戻らない。
「……ユーミア嬢は」
ガンガンと頭に警鐘が響く。
聞いてはいけない、これを聞いてしまったらお終いである。
「俺が余所見をしなかったら、困りますか……?」
「!」
縋ってくる子供の手を振り払えなかった、ただそれだけで。巣立てないようなら最後まで面倒を見る気ではあるけども、なるべくなら自立してほしい、とか。
「俺が他の女性のところに行くまで、ずっと肩の荷がおりないと」
「違う!」
ユーミアにとってルクシオと結婚する未来は、やむにやまれずな、出来る限り避けたい最悪のパターンだったり。
「違うわルクシオ、重荷だなんて思ってない!ただ私は貴方にもっと視野を広くして、一番幸せな未来を得てほしくて」
「俺の幸せは貴女以外に無い!」
「だから!もっと視野を広くしてって言ってるじゃない!」
ルクシオの幸せな未来はユーミアと共にあること以外に無い。しかしそれがユーミアにとっては不幸だと言うなら。
「貴方は外の世界に出るようになって、まだ半年も経っていないのよ。たまたま最初に声をかけたのが私だっただけで、これからきっとたくさん出会いがあるわ」
ユーミアの手のひらがそっとルクシオの頬に触れる。その優しい手つきからは、嫌悪などは全く感じられない。
「他に何も見ないうちにすぐに決めてしまって、貴方が後悔することになるのが嫌なのよ。……ただでさえ私は貴方よりずっと年上なんだから」
嫌われてはいない、それは分かる。純粋にルクシオの幸せを願ってくれているのも本当だろう。
しかし。
「……俺が、せめてあと5年早く産まれていたら、男として見てくれましたか」
「え?」
どんなに相手の幸せを願ったところでそれを恋とは呼べない。むしろ対極にあると言ってもいい。
恋とはそれを叶えようとした時点で、己の幸せを一番に考えた自分勝手なものなのだ。
「他の女性のところへ行っても何とも思わないどころか、喜ばしくさえ思うような……ただの弟じゃなくて……少しは惜しいと思ってくれますか。苦しんでくれますか」
この恋をしてから一度としてルクシオはユーミアに“幸せになってほしい”など思ったことがない。
勿論“幸せにしたい”とは心の底から思っている。自分の手でユーミアを幸せにできるならそれ以上の喜びはない。
「それは……」
しかし、他の男の手で幸せになるユーミアは死んでも見たくない。
そうなろうものなら泣き落としだろうが土下座だろうが何だってして追い縋るし、その男が絶世の美男子だろうが大富豪だろうが粗を探しまくるし、結婚式の招待状が来ようものなら一片も残さず灰にする。いっそ式場を灰にしたい。
「俺は……俺は貴女が他の男のところに行くのを見送るなら死んだ方がマシなのに、貴女はほんの少しも辛くないんだ……」
この仮婚約を結ぶ前、もしロレッタと結婚したら祝ってくれるかと聞いて、勿論だと迷いなく答えたユーミアを思い出す。
「……そんなことないわ」
「あるからそんなことが言える」
「ないったら!」
「あるでしょう!だって!」
他の人と幸せになんて口が裂けても言えない。一秒でも早く結婚したい。そんなルクシオと比べて、ユーミアは正反対のことばかり言う。
「貴女から男扱いされたことなんて、今まで一度も無い……!」
弟扱いでもまだマシな方。完全に子供扱いだった時もある。
「ルクシオ……」
「でも約束は約束です、俺は絶対に余所見はしないしそうすれば貴女は俺と結婚するんだ、そうですよねユーミア嬢!?」
だが身を引くなんて絶対にしない。まだ背は伸びる。顔つきももっと大人になる。幼さは年々抜けていっている。
「ええ、そうね。その時が来たら、喜んで」
今は無理でも、結婚してからでも、男として意識してもらえる日がいつか。
「貴女が好きです、ユーミア嬢。貴女に好きになってもらえるなら何だってします。今はまだまだ男としては見れなかったとしても、あと5年、いや3年あれば俺ももっと……!」
「ルクシオ、ちょっとだけ目を閉じててくれないかしら?」
「え?あ、はい」
告白を唐突に遮られ、ルクシオは一瞬固まった。ユーミアの意図がわからない。
しかし逆らう理由もないので大人しく言う通りに……。
「あっ、まさか目を閉じた隙に逃げるつもりじゃなっ……」
言いかけた言葉は、最後まで続かなかった。
「……貴方を、子供としか思ってないわけじゃないわ」
右の頬に触れた柔らかい感触。耳を掠めた長い髪。一瞬で離れたけれど、確かに全身で感じた自分以外の者の体温。
「え……」
特に右の頬に触れたそれは、たとえるなら指を二本くっつけて、ほんの少しだけ水気を持たせたような……いやたとえるまでもなく人体の一部にそのドンピシャな部分が。
「全く意識してないと言ったら嘘になるもの。私だって、貴方のことを……ルクシオ?あら?ルクシオ?」
硬直したまま一言も発しないルクシオを怪訝に思ったのだろう。ユーミアがその名を繰り返し呼んだ。しかし。
「えっ待って嘘、ルクシオー!?」
ルクシオがそれに答えることはないまま、ユーミアの前から姿を消した。
正確に言うと棒立ちの姿勢のまま背後に倒れた。
更に正確に言うと、背後にあった池に背中から豪快に落ちた。
妄想と現実でははるかに破壊力が違うのだと、惚けた頭で考えながら。
五秒後這い上がります。
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