2話 血は争えない
ユーミア・ゴールディングはいくつなのだろうか。口ぶりからして20は超えているだろうが、その年代の貴族女性未婚率はどのくらいだったか。
「ルクシオ?おーい、ルクシオー」
結局最後まで夫らしき人物は現れなかった。多少歳が離れてるとはいえ、妻が他の男にかかりきりでは不快に思ってもおかしくない。いやしかしルクシオを完全に子供だと思って警戒してなかった可能性もある。
「あの、無理矢理ダンスパーティーに行かせて悪かったから……あの……ルクシオ……」
というか参加してなかっただけではないか?何らかの理由で妻だけ出席させたとか。あれ程魅力的な女性で、おそらく20代前半でまだ未婚であるなどあまりに希望的観測である。
「ユーミア・ゴールディング伯爵令嬢のことだけど……」
「えっ!?」
たった今思い浮かべていた女性の名を挙げられ、ルクシオは持っていた絵筆を取り落とした。赤い絵の具を含ませた筆が床の一部を染める。
「父さん、彼女を知ってるのか!?」
「いや、知ってるというか知ったというか……うう、それより五日ぶりに口を利いてくれたなルクシオ……」
「え?五日?」
ダンスパーティーが終わって帰ってから、ルクシオはずっと自室に引き篭もって絵を描いていた。途中何だか雑音が聞こえた気がしたが、集中していたので後で返事しようと放置してしまっていたけども。
「いやそんなことより父さん、今ユーミア・ゴールディング伯爵『令嬢』って!」
伯爵夫人か、伯爵令嬢か。いつのまにかダンスパーティーから五日も経っていたことより何より重要なことである。
「ああ、ゴールディング伯爵夫人は母さんの友人だったからな。その絵を見てすぐわかっ」
「夫人!?令嬢!?どっちだよ!」
「母さんの友達が夫人!ユーミア・ゴールディングは令嬢!未婚!」
未婚。ユーミア・ゴールディングが未婚。奇跡だ。奇跡である。
「お前だったら、夫人の『顔』は覚えてるだろ?昔母さんにお茶会に連れてかれたことがあるみたいじゃないか」
「ああ……ユーミア・ゴールディングには会わなかったけど」
「ゴールディング伯爵夫人は、7年前に亡くなられてな。当時17歳だったユーミア嬢が父である当主を支えながら、三人の妹達の嫁ぎ先探しに奔走したようだ」
「そうだったのか……」
あまり喜ぶべきじゃなかった事情に、ついさっき盛大に喜んでしまった自分を反省するルクシオ。少し考えればわかりそうなものである。あれ程魅力的な女性が未婚なのだ、相当な事情があって当然。
「去年末の妹が結婚し、家と爵位は妹夫妻に継がせる予定だそうだ。そしてユーミア嬢も遅まきながら結婚相手を探していて」
「見つかったのか!?」
盲点であった。未婚だからと言ってイコールフリーなわけではない。既に婚約者がいると考えた方が自然だろう。去年から相手探しをしているということは、もうとっくに婚約者の一人や二人。
「見つかってない。ユーミア嬢は正真正銘フリーだ」
「……!」
「まあ、全部母さんからの情報だけどな。お前が全然口利いてくれないから……彼女の情報なら食いつくかと思って……」
いい年してアンブラー家現当主がいじけだしたが、ルクシオにそれに構ってる暇はなかった。
今度こそ奇跡である。結婚相手を探していながら、ユーミア・ゴールディングがいまだフリー。世の男が皆見る目がなかったとしか言えない。
「あれ、でも何で俺が彼女の情報を欲しがってるって……」
ダンスパーティから帰ってから、誰かと口を聞いた記憶が殆どない。さすがに五日は初めてだが、こういう状態になるのは珍しくなかったので普段は家族も無理に話しかけようとはしないはず。
「目は口程にものを言う、だな。いやお前の場合は手は口程にものを言うか?」
「へ?」
アンブラー家現当主——父が投げかけた視線の先を追い、ルクシオが自身の右手を見つめる。先程まで絵筆を握っていた、絵の具で汚れた右手を。
「というかこれでバレないと思ってた方がおかしいからなお前。言葉以外でめちゃくちゃ主張してるからな」
続いて父がぐるりと見渡したルクシオの自室。壁という壁が、ルクシオが描いたユーミア・ゴールディングの肖像画で埋め尽くされていた。
「ところで新作ができたなら買いたいってオファーが来てるが」
「売らない。我が身が滅びようとあれだけは売らない」
「お前……すっかりアンブラー家の男じゃん……ルクシオだけは突然変異かなとか思ってたのに」
とりあえず風呂に入って汚れた服を着替え、人間としての生活に戻ったルクシオが、人間の暮らす状態じゃない自室から離れた書斎にて改めて父と向き合う。
「新作なら近いうち適当に描くから、それでいいだろ」
「またお前はそう世の芸術家が聞いたら泣きそうな台詞を」
ルクシオには絵の才能がある。
もっと正確に言えば、一度見た景色を正確に再現できる才能がある。
そのまるで世界を切り取ったかのような絵は芸術好きの金持ち達に大人気で、毎回高値で売れていた。そしてそれがルクシオが今まで引き篭もり生活を許されていた理由でもある。
「まあさすがに真正面からのアップだったらユーミア嬢だとバレバレだしな。勝手に売るのも失礼だろう。でももし許可を取れたら……」
「そんなことしたら!彼女の魅力に気付いた金持ち共から結婚の申し込みが殺到するだろ!馬鹿じゃないか!」
「いいぞーそれでこそ立派なアンブラー家の男だ父さん嬉しいぞ」
末息子の成長を喜ぶように、若干わざとらしく涙ぐむ父。
「あの海底のワカメのようだったルクシオがたった五日でマングローブ並に成長を……」
「わかりづれぇよ」
「ワカメのように暗闇の底で根を張ってたお前が自ら外界へ足を踏み出して……植物としての殻を破りその根を大気へと晒したマングローブのように」
「ワカメとマングローブから離れろ」
いい加減嘘泣きが鬱陶しくなり、ルクシオが冷たく言い捨てる。そんなことよりさっさと本題に入りたい。
「次のパーティはいつだ?ユーミア嬢が参加する可能性のあるところはしらみつぶしに行く」
「行きの馬車でもう帰りたいって言ってた奴の台詞とは思えないよこれ。別人が乗っ取ってたりしない?」
思えばユーミア・ゴールディングが未婚か否かで悩み、五日も無駄にしてしまった。もしかしたらその五日で他の男の手が伸びてるかもしれないのに。
「まあ、茶化してしまったが父さんも母さんも応援してるんだ。ほら、これユーミア嬢も参加するであろうパーティの招待状」
「父さん……!」
「お前にそんな輝いた目向けられたの父さん初めてだぞ」
生まれて初めて偉大に見えた父親に、ルクシオがすかさず片膝をつく。今までのハゲ化の呪いは全て取り消しである。
「反対は……しないんだな、父さん」
年の差もある。身分差もある。ライバルはきっとルクシオよりずっと大人で余裕を持った強敵ばかりだろう。
「反対なんてするわけないだろ?だって」
普通の親であれば、その先の苦労を考えて息子を諫めていただろう。でも。
「恋……しちゃってるじゃん?」
恋で身を立て恋で身を滅ぼすと名高いアンブラー家の現当主は、そんなの愚問だとばかりに胸を張り、パチンとウィンクをした。
「ハゲればいいのに」
「この流れで!?」
「いや……すげぇ寒かったから……」
ただのウザい父親から偉大なる父親へと昇格したばかりであったが。やはり指差しつきウィンクだけは受け入れ難かった。
一週間後。
再び訪れた夜会にて、ルクシオはまたもや壁のシミへと化していた。
「あら、今日はちゃんと最初から背筋を伸ばしてるのね。偉いわ、やればできるじゃない」
「……ユッ……ユー、ミ、ア嬢」
「正解よ。うろ覚えでも光栄ですわ、ルクシオ様」
「あ、いや、うろ覚えだったわけでは……っ」
緊張で息が詰まったせいで、うろ覚えの名前を頑張って思い出したみたいになってしまった。何だユ・ユー・ミ・ア嬢て。ぶつ切りにも程がある。
「立ち方もダンスも覚えたのだから、次は女の子の誘い方ね。前回教えたことは覚えてる?」
「あ……ええと……」
またユーミアに会えたら何と言うか。何度もシミュレーションしていたはずが、いざとなると全く出てこない。
「シャ、シャンデリアに照らされた貴女は一段と美しい、です」
「そう、それを噛まないで言うことね」
結果、前回の軟派男が言っていた台詞をそのまま復唱する。
「勿論いきなり言っても駄目よ、ある程度距離を詰めてからでないと」
「こ、今夜は月が綺麗だ……月光に照らされた貴女も見たい」
「え?私に言ってる?」
これを素面で流れるように言ってのけた軟派男は大物である。肩を抱くなど以ての外。ガチガチにぎこちなく手を差し出すのが精一杯だったルクシオに、ユーミアはきょとんと首を傾げた。
「仕方ないわね。付き合ってあげてもよくってよ」
まるで一秒が千秒にも感じられる静寂の後。
「エスコートしてくださる?可愛い王子様」
つり気味の黄金の目を微笑ましげに細めて、ユーミアがルクシオの手を取った。
「貴女が好きです結婚してください」
「早いわよ。やり直し」
誘うまでは及第点だったのにと、すっかり呆れた顔でユーミアが言う。
「これで頷く女の子がいるとでも?もうちょっと考えなさいよ」
「え、あ、ごめんなさい……」
ユーミアを連れバルコニーに出たまでは良かった。しかし月光に照らされたユーミアに見惚れ、溢れ出した気持ちがそのまま声に出てしまった。
「それにしても、そんなに結婚に焦っていたの?貴方まだ15、6くらいでしょう?」
「16歳6ヵ月です。つまり四捨五入して17になります」
「16歳ね」
母からの情報によればユーミアは24歳になったばかり。ルクシオが今年誕生日を迎えれば年の差は7歳である。
「兄二人が婿に出てしまって……俺が家を継がないとならなく」
「それにしたってそこまで急ぐ必要はないじゃない」
「い、急がないと!他の男に取られてしまうでしょう!」
「ああ、いい女はすぐに売れていくって?まあそうよね」
余裕たっぷりなユーミアに、ルクシオがぐっと言葉に詰まる。いい女はすぐに売れていく。その通りだ。きっとユーミアは既に多くのプロポーズを受けていて、誰の手を取るか物色中なのだろう。
つい先程もルクシオの拙いプロポーズを「やり直し」とあっさりあしらったくらいだ。とても場慣れしている。
「ならこんなところで時間潰してないで早く戻りましょう。大丈夫、誘い方だけは及第点だから」
「え?待っ……」
しかしここからどう挽回すればいいかと考えてる間に、無情にもユーミアが身を翻した。出てきたばかりの会場へ戻ろうとしている。
「初めまして美しい方、僕と踊っていただけますかって言えばいいわ。今度は噛まないことね」
「!」
てっきり見捨てられたと思いきや、そうではなかった。与えられた挽回のチャンスにルクシオがパッと顔を輝かせた。
会場内では曲の終わりに合わせ、次々とカップルが入れ替わっているところであった。壁の花でいる女性にも、それぞれ誘いの手が差し伸べられている。
「さあ、貴方もさっき教えたように……」
「……初めまして美しい方。俺と踊っていただけますか」
振り向いたユーミアに向かいすかさず膝をつき、言われた通りの誘い文句を復唱する。今度はきちんと噛まないで言えた。
「え?また私に言ってる?初めましてじゃないわよ」
噛まないで言えた、が。甘かった。ユーミアの反応が悪い。少しは自分で捻ろという意味だったようだ、馬鹿正直にそのまま言ってしまった。
「まあいいわ、乗り掛かった船よ。練習くらいいくらでも付き合ってあげる」
「ユーミア嬢……!」
それでも何とか及第点は貰えたようで、ユーミアが再び手を取ってくれた。
「でも、次こそはちゃんとしなさいよ?」
「勿論です、次こそは!」
しかも次の約束まで取り付けてもらえた。この曲が終わって次の曲ではきちんと誘えということだろう。
「ユ、ユーミア嬢、俺がリードしますから」
「あらごめんあそばせ。つい癖で」
ともすればリードを奪われそうなダンス中、ルクシオは二度目のスマートな誘い文句について一心不乱に考えていた。