1話 繰り返す歴史
懐かれているとは思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。
きっと雛の刷り込みのようなものだろう。今はあまり周りが見えていないだけで、もう少し育てば外の世界へ巣立っていくはず。
ただ、もしその時にそれでも自分がいいと、言ってくれたとしたら……。
「馬車までお送りします」
「ええ、ありがとう」
ダンスパーティ終了後。差し出されたルクシオの腕に、ユーミアは自身の手を添えた。
会場を出て馬車を停めてある場所まで並んで歩く。ピシリと背筋を伸ばして最後までエスコートしようと張り切るルクシオの姿は微笑ましく、あまり身長差がないことも相まって、すぐ近くに見える横顔が可愛らしく思えた。
「早く同じ家に帰れるようになりたいです」
可愛らしく思えた。
まるで姉を慕う弟のように無邪気な。
「そう遠くない未来に、俺は貴女を連れて帰れるようになるんですね」
「え、ええ、そうね」
柔らかく微笑んだルクシオと目が合う。その目は本当に嬉しそうで、夢を見るように熱っぽく、子供らしく無邪気な……無邪気……無邪気だろうか……?
「ユーミア嬢」
「何かしら」
不意に名を呼ばれ、ユーミアの肩が強張った。いや、いやおかしい、何を緊張することがあるのだ。こんなに可愛らしい弟を前にして。
「髪に糸クズが」
「あ、あら本当?いつの間についたのかしら」
「そこじゃあないです。動かないでください」
ユーミアが慌てて頭に手を伸ばすと、それを遮るようにして髪にルクシオの手が添えられた。そこからこめかみ、耳の裏、頭の横側、後頭部をゆっくりと節だった手が這っていく。
糸クズ一つ取るのにそんなに触れる必要はないんじゃないかとか、後頭部を抱くのは完全に意図が違うのではないかとか、そんな当たり前の疑問もこの時は浮かばなかった。ただ、平静を装うことに必死で。
「……取れました」
「あ……ありがとう……」
礼を言おうとして初めて己がそれまで息を止めていたことに気づく。
「すみません、本当は最初に触れた時に取れていました」
「え?」
「でもあんまり触り心地が良かったのでつい」
「も、もう、ふざけないで!」
急激に頬に熱が集まる。緊張した。とても緊張したのだ、その『つい』とかいう行動のせいで!
「すみません、きちんと言うべきでした。糸クズは取れましたがもう少し触れていていいですかと」
「そういう問題じゃないわ!」
「駄目ですか?」
「だ、駄目というか……」
まるで予想外の返答をくらったかのように目を瞬かせるルクシオに、ユーミアも調子が崩れる。
「駄目というか……必要ないでしょう……」
「俺は触れたい。駄目ですか?」
「……っ!?」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
いや、ルクシオの声でそんなことを言われるなんて思っていなかった。
「わかっています、まだ俺は婚約……約者止まりで、それだって今日約束したばかりで、触れ合うにしても節度を保つべきだと」
「触れっ……」
何を。何を言っているのだろうか。だってこの少年はまだまだ子供で、実の妹達よりも年下で、ユーミアを純粋に慕ってくれている可愛い弟のような。
「もし、もしユーミア嬢が、結婚まで指一本触れないことを望むならその通りにします。ただその場合は何卒結婚までの期間を短くしていただきたく……お互いの妥協点を探していければ……いややっぱり指一本もは厳しい……いや結婚さえ……結婚さえすれば……」
「ル、ルクシオ……?」
触れたい、指一本も触れないのは厳しい、結婚さえすれば。とても弟が姉に言う言葉ではない。
勿論ユーミアとて、ルクシオが己を完全に姉として見ているわけではないことはわかっていた。もしそうならさすがにプロポーズまではしないだろう。
「そうだ結婚さえすれば……何だって……」
ただ、好意は好意でも憧れと信頼の入り混じった子供らしい好意だと、ついさっきまで思っていた。
「やっぱり今すぐ結婚してくださいユーミア嬢!」
「待ちなさい貴方一体何を想像したのよ!?」
ルクシオの行動は早かった。ぶつぶつと呟きながらカッと目を見開いたかと思いきや、次の瞬間躊躇いもなく地べたに土下座したのだ。
「それに貴方が他にも目を向けてみてからってさっき言ったでしょう!」
「見ません!絶対に見ません!一生のお願いですちょっと誓約書にサインしてくれるだけでいいんです名前だけ!名前だけ書いてくれれば!」
「下手な詐欺師みたいなこと言わないの!」
無邪気で可愛い弟などではなかった。ユーミアだってここまで言われてルクシオの期待していることが何もわからないわけがない。
指一本触れる以上のこと、髪を梳く以上のことを想像したのだ。今地面に伏している彼は。そして早くそれを実現したくてなりふり構っていられなくなっている。
「えっ……何でしょうかアレ……」
「ああ、アレだよあのアンブラー家の……」
「成る程歴史は繰り返すのねぇ」
ふわふわとしたおままごとのような結婚生活を思い描いてるのだと勝手に思っていた。というか自分自身がそう思っていたから、ルクシオだってそうだと勝手に。
けれど……けれど、たった今ルクシオが想像しているそれはそんなものじゃあないだろう。
「あの、あのアンブラーってどういう意味でしょうか?」
「知らない?土下座事件のアンブラーって有名な話があってね」
「そうね貴女はまだこういう話は知らなかったわね」
そしてハタと気付いた。先程からこちらを見てヒソヒソと囁く人達の声が、段々大きくなっていることに。
「は、早く立ちなさいルクシオもういいから!」
「結婚してくれますか!?」
「それはいいからとにかく立って!」
ガバリと顔を上げたルクシオが目を輝かせて言う。いいからの意味を良い方向に解釈した気がしてならない。
「何度も言うけど私は貴方の選択肢を狭めたくないのよ、お願いだからわかって」
「俺も何度だって言います俺の選択肢は貴女しかない!」
せっかく立ち上がりかけたルクシオがユーミアが了承してないと悟るや否や再び地に伏せようとする。それを慌てて押しとどめるユーミアで膠着状態に。
「止めないでくださいユーミア嬢、男にはやらねばならない時があるんです!」
「間違いなくそれは今でも土下座でもないわよ!」
周囲の囁き声は消えない。むしろどんどん大きくなってくる。
このままではルクシオが他に目を向けるようになったとして、最早どんな女性にも見向きもされない事態になるのでは?
「わ、私、プライドのない男性は御免だわ……っ」
「っ!?」
それは駄目だ。あんまりである。
苦肉の策で叫んだユーミアの言葉に、ルクシオはようやく地面に向かう動きを止めた。
「はぁ……」
自室のベッドで朝日を浴びながら、ユーミアがぼんやりと手で髪を整える。思い出すのは昨日のパーティ会場外でのルクシオとのやりとり。
「手遅れだったかしら……」
もっと早く止めさせればよかった。いやそもそも土下座に踏み切る前に止めるべきだった。見ていた令嬢達は勿論、伝え聞いた子達も引いてしまうことだろう。二十年前の土下座事件再びと、面白おかしく噂が広められるのは想像に難くない。
もしこれで本当にルクシオが適齢期の女の子達から見向きもされなくなったら。
「おはようユーミア姉様、もう起きてる?」
「タバサ?どうしたの急に」
「ちょっと気になってたことがあって」
そう悶々としながらユーミアが手で髪を梳いていると、コンコン、と控えめにドアをノックする音がした。
「今大丈夫?」
「大丈夫よ。入ってらっしゃい」
ノックの主はユーミアの末の妹であるタバサであった。入るようにと声をかければ、そろそろとタバサがドアの隙間から顔を出す。
「どうしたのタバサ。何か困ったことでもあった?」
「その……ロレッタのことで、聞きたいことがあって」
しずしずとしかし素早く足を動かし、部屋に入ってきたタバサがちょこんとベッドに腰をかける。
「昨日、ロレッタとルクシオさんのフォローをする予定だったんだよね?ほら、デートでルクシオさんがロレッタを見送らないでユーミア姉様のとこに行っちゃったから。どうなったのかと思って」
「ああ、そのこと……」
ユーミアは昔からロレッタを可愛がっていたが、妹達にとってもロレッタは可愛い従姉妹である。特にタバサは一番ロレッタと年が近く、同じく昔から仲良くしていた。
そのロレッタに婚約者ができそうだと聞いてずっと気になっていたのだろう。
「実はね、失敗しちゃったのよ。というか最初から私が間違ってたの」
「……へぇ?」
「……ルクシオが言ってたわ。ルクシオは私が好きで、それをロレッタに見透かされたんだって。馬鹿だったわ私、お節介じゃあ到底済まないことしてたみたいで……ルクシオにもロレッタにも悪いことを」
「ううん仕方ないよ姉様はルクシオさんが姉様を好きだって知らなかったんだしロレッタがルクシオさんを気に入ったきっかけだってルクシオさんがユーミア姉様を好きでやったことを見てのことなんだからユーミア姉様を好きじゃないルクシオさんをロレッタは好きにならなかったよ、だからロレッタは失恋したというより好きな人を好きな人のまま留めただけで」
「そ、そう?」
どちらかと言うと口数の少ない方であるタバサの急な饒舌ぶりにユーミアが驚く。まるで用意してきたかのように怒涛の勢いだ。
「ルクシオさんがロレッタを好きになってもそれはロレッタが望む王子様じゃなかったよ。そうなったら結局上手くいかなかっただろうしあの二人はそれで良かったの。ロレッタのことは私がフォローしておくから姉様は気にしなくていいからね」
「え、ええ……」
「それに……姉様が思ってるほど子供じゃないよ、ロレッタは。だから大丈夫。ユーミア姉様が『私のせいで』なんて悩んだら、それこそロレッタに失礼だからね?」
タバサの言う通りである。胸の内にあった、可愛い子供のせっかくの初恋を邪魔してしまったという罪悪感を見透かされた気がして、ユーミアは髪を梳いてた手をぎゅっと握った。
「言いたかったのはこれだけ!じゃあ私行くね。姉様は昨日遅かったんだし寝直していいよ」
「タバサ!」
そう矢継ぎ早に言ってタバサがベッドから飛び降りる。
「……ありがとう」
ドアへ駆けていくその背中を見送りながら、ユーミアは気付かせてくれたことに感謝の言葉を送った。
こんな罪悪感を持っていては、確かにロレッタに失礼なことであった。
「私は思ったことを言っただけだよ」
背を向けたままタバサが言う。
しかしそのまま部屋を出ようとして、不意に振り返った。
「ところで姉様、今日はずっと髪を触ってるけどどうしたの?」
「え?」
振り向きざまにそう問われ、ユーミアがはたと手を止める。言われて初めて気づいた。自分が朝起きてからずっと、こめかみから耳の裏、後頭部にかけての髪を手で梳いていたことに。
「……どうして左側だけ?」
聞くだけ聞いて答えは求めてなかったのか、タバサはそのまま部屋を出て行ってしまった。呆然とするユーミアを残して。
「……っ」
ドアが閉じられてから数秒後。
思い当たった理由に顔中が火がついたように赤くなる。
『俺は触れたい。駄目ですか?』
なぞっていたのだ。昨夜ルクシオに触れられたところをずっと。
「あああああ……!」
何がわざわざ触る必要はないだ。何が弟のようだ。自分だって触れられて嬉しかったんじゃないか。異性として見てたんじゃないか。あんなに年の離れた少年を。
「違うわ、違うったら!」
土下座でむしろ良かった。あれでもしもっと真面目にされていたら。例えば両手を取って目を見てもう一度プロポーズなどされていたら、もしかして自分は一も二もなく頷いてしまってたのではないかと、ユーミアは今更ながら火照る顔を両手で押さえ、ベッドの上で身を縮こませたのだった。
ルクシオはめっちゃ惜しいことをしました。




