8話 暗闇の中でも
それは突然の出来事だった。館内の壁や天井に設置され、煌々と輝いていた照明が、一瞬にして全て光を失ったのだ。
「発電室を確認しろ!」
「非常用の灯りはどこだ!」
「それが、故障したままだったのをそのままにしていて……」
はるか下の階から職員達の慌ただしい声と、ドタバタドタンバタンと駆け回りながら何人かが互いにぶつかって倒れる音が微かに聞こえてくる。
「ル、ルクシオ様!ルクシオ様!いますか!?」
「さっきから一歩も動いてないが」
どうやらこの建物の照明の動力源に異常があったらしい。一箇所に何かがあっただけで全てが止まるとは、まるで心臓のようだ。
「すみません、ルクシオ様、手を、手を握っていていただけますか……っ」
「え?」
逆に言えばたった一箇所で館内全ての灯りの管理を担っていた。面白いシステムがあったものだなあと感心していたところで、ルクシオはようやくロレッタの様子がおかしいことに気づいた。
「な、何も見えなくて……なのにまだ、あの骸骨は近くにいるまま動いてないと思うと……っ」
「そりゃあ……展示物が勝手に動いた方が怖いからな」
その声が、縋り付いてきた手が、ガタガタと小刻みに震えている。まるでとても恐ろしい化け物でも見たかのように。
「そんなに怖いなら移動するか?骨の展示がなかった場所に」
「そ、そんなことして!何かに、あ、あの骸骨達にぶつかったら大変です!」
何も見えないのに何を怖がることがあるのか。ルクシオにとって暗闇は心地良いもので、それを怖がるという感覚は理解できなかった。
ただ、人は、特に女性はそれに恐怖するものだと一応常識として知ってはいるが。
「う、ううぅ……っ」
「……」
骸骨の展示だけでもロレッタは怖がっていた。それに突然の暗闇も加わってパニックになっているのだろう。こんな、人前で泣き出してしまうくらいに。暗くて涙は見えないが泣いてることくらいは声でわかる。
「……じっとしてろよ」
「え?」
そんなに嫌ならさっさとこの博物館を出ればいい。外に出れば骸骨もいないし、月明かりと街灯で真っ暗闇ではないのだから。
「ル、ルクシオ様!?危険です、降ろしてください!」
泣き続けるロレッタを抱き上げ、ルクシオは出口を目指して歩き出した。
「ここに居たくないんだろ。どうせもう観賞どころじゃない」
「ですが何かにぶつかったら……それに階段も……!」
「誰に向かって言ってる」
すぐ隣の頭蓋骨のショーケースにロレッタの足がぶつからぬよう引き寄せ、四歩先にある古代国王のミイラを避け、展示室と展示室を繋ぐ八歩分程度の短い通路を渡り、階段のあるスペースまで進む。
「一度通った道だ。俺は覚えてる」
「……!」
どこに何があるか、どこをどう行けば出口か。一度見た景色である。目を瞑ったって脳内に鮮やかに蘇る。見たものは忘れないのだ、どんな細かいことだって。
「わかったら、せいぜい落ちないように腕を回しておけ」
「は、はいっ」
幸い他の客もあまりいなく、いたとして皆展示物の近くか壁際で動かず留まっている。わざわざ通路の真ん中に躍り出ている者はいない。
「あ、あの、ありがとうございます……」
階段はまず13段。踊り場で折り返してもう13段。二階の宝飾品展は大ホールになっており、台の上のガラスケースに納められた宝石や宝飾品が一見無造作に並んでいる。
その細長い台と台の合間を抜い、1階へと続く階段へと向かう。サンセットサファイアのティアラが飾られていた台も通り過ぎた。
「別に。君を泣かせたとなったら、ユーミア嬢に言い訳できない」
1階まで降りれば、出入り口から射し込む外の灯りでうっすらと館内が見渡せた。後はもうその扉をくぐるだけである。
「迎えの馬車は来てるか?」
「あっ、もうすぐ来るかと……あ、あれです!」
博物館を出て、ロレッタを地面に降しながらルクシオが問う。ロレッタが指をさした先を見れば、丁度大通りをカラカラと走ってくる馬車が見えた。
「じゃあ、俺はこれで」
「え、ルクシオ様!待ってください、どこへ……っ」
迎えが来たならもういいだろう。そう思って踵を返したルクシオの背にロレッタが呼びかける。
「……まだ残ってる人がいる」
「え……」
真っ暗闇の博物館へともう一度足を踏み入れながら、顔だけ振り返ってルクシオが答えた。
「ユーミア嬢」
二度通った道をもう一度辿り、先程のスタート地点とは少し逸れたところで膝をつく。
「迎えに上がりました。こんなところでずっと座っていては身体を冷やします」
「ル、ルクシオ……!?どうして」
3階の展示室。壁際に蹲っていた、白い帽子を被った女性。暗闇の中でもその白はよく映えた。
「気づいていました。博物館に入った時から、視界の隅に貴女がいることに」
「そんな……私、一度も帽子とサングラスは外してなかったわよ」
「その程度で貴女の美しさが隠れるとでも?」
「こんな時にふざけないで頂戴!」
ふざけてなどいない。至って本気である。しかし冗談だと取られてしまうのは、己がユーミアにとってまだまだ子供だと思われているからだ。
「早く出ましょう。俺に掴まって」
「えっと……」
「さあ」
戸惑うユーミアの手を取って己の腕に絡ませれば、ユーミアもそれ以上抵抗しようとはしてこなかった。ユーミアとてこれ以上いつ灯りがつくかわからない暗闇の中にいたくないだろう。
「なるべく俺にくっついて歩いてください。階段の前まで来たら知らせます」
「え、ええ……」
抱き上げて運ぶことができればもっと格好がついたが、頭一つ分以上小さいロレッタならともかく、殆ど身長差のないユーミアではそれは無理だった。勿論ルクシオの方が少しは高いけども……少し……いやもう少し……せめてあと3センチ……今後の成長を加味すればもっと身長差がつく予定だけども!
しかし少なくとも今は、今この瞬間はそこまで差がないのは確かである(あくまで現時点という話であるが)。格好つけて途中で転んでは元も子もない。
「その、ロレッタは?」
「迎えの馬車が来たので、先に帰ってもらいました」
「それは……ちゃんと見送ったの?」
「……すみません。彼女を外まで送り届けてすぐこっちに戻ったので……」
「駄目じゃない!」
デートの相手をさっさと帰らせて、他の女の元へ駆けたのだ。怒られるかなと思ったら案の定怒られた。
しかしその怒った様子のユーミアが、次の瞬間には力なく頭を垂れた。
「……いえ、ごめんなさい。私のせいね。私が後をつけてたりなんかしたから」
「いいえ。俺が勝手に来ただけです」
この先が階段になることを伝えれば、心なしかユーミアのルクシオの腕を掴む手の力が強まった。こんな些細なことで心臓が跳ね上がる程嬉しい。
しかし、そんなルクシオとは反対にユーミアは悲しげなままだ。
「貴方達がちゃんと上手くいくか心配で……陰から見守ろうと思って……なのに逆に邪魔しちゃって、申し訳ないわ」
ルクシオとロレッタのデートを中断させてしまったと、心から悔いてるようである。
「……ユーミア嬢は」
跳ね上がった心臓がペシャリと地面に着地する。こんなに近くにいるのにあまりに遠い。
「ユーミア嬢は、俺がロックハ……ロレッタ嬢と上手くいけば、嬉しいですか」
「それは勿論……!二人のことは本当の弟と妹みたいに思っているもの。二人が幸せになるなら嬉しいわ」
「結婚式には来てくれますか?祝ってくれますか?」
「勿論よ」
迷いなく言いきる言葉にきっと嘘はない。きっとユーミアはその通り結婚式に来て、祝ってくれるだろう。その美しい笑顔で。
そんなに伝わってなかったのだろうか。今までのルクシオのアプローチは何一つ、何一つ心に擦りもしてなかったのだろうか。
「ありがとうルクシオ、助かったわ」
そうこうしているうちに博物館の外に辿り着き、ユーミアがルクシオの腕から手を離す。
「馬車のあるところまで送ります」
「え?もう大丈夫よ、暗いけれど周りが見えないことはないもの」
「送ります」
そのするりと抜けていく手を掴んだのはただの意地だった。こんなことをしても何の意識もされないことはわかっているのに。
「……じゃあ、お願いするわ」
ルクシオが手を離す気がないと悟ったのか、ユーミアは困ったように笑った。
ああもう手に取るようにわかる。そういうことは自分にじゃなくロレッタするべきだったのにと、ルクシオの不手際を残念に思っているのだ。
「次の夜会にロレッタも連れてくるから、ちゃんと謝るのよ?」
「……はい」
そしてそんな手のかかる弟のために、好感度回復の機会を与えようとする。
わかっている。己がロレッタ・ロックハートに対して望んでいることと同じだ。どうにか他の誰かと結ばれてくれないかと、ロレッタの気持ちをわかってて願っている。
どうしてこんなに好きなのに振り向いてくれないのかなんて、ルクシオが言えることではない。
「ああ、着いたわ。この馬車よ」
「わかりました。それではユーミア嬢、また夜会で」
馬車が停まっている場所は博物館のすぐ近くだ。あっという間に着いた。
ルクシオの腕から、ユーミアの手が今度こそ離れていく。それを止めるすべはもうない。
「……先程ユーミア嬢は、俺の結婚を祝ってくれると言いましたね」
「ええ、当たり前じゃない」
そのままユーミアが馬車に乗り込むのを見守って、閉められた扉越しにルクシオが言う。ユーミアも窓に顔を近づけて答えてくれた。
「ありがとうございます。でもすみません。俺は貴女の結婚は祝えそうにない」
「え?何を……」
「今離れます、出発してください」
少しだけ声を潜めてそう言って、聞き返されたのは聞こえないフリをして御者に声をかけた。
聞こえただろうか。聞こえたとして意味はわかってくれただろうか。意味をわかったとして、意識してもらえるだろうか。
いざとなったらお互いに「言ってない」「聞こえてない」、「そんなつもりはない」「よくわからなかった」で通せる。三重四重に保険を張った情けない告白をして、ルクシオは馬車から離れた。
馬車が完全に夜の闇に消えて見えなくなっても、ずっとその場を動けずに。




