5話 幸か不幸か
「ルクシオ、ユーミア嬢からお前に手紙だ」
「ユーミア嬢から!?」
父親からの突然の知らせに、ルクシオは持っていた絵筆とパレットを取り落とし立ち上がった拍子に勢い余って目の前のキャンパスも蹴り飛ばした。
「ほら、確認してみなさい」
完成間近で無残に散ったキャンパス。いつも通り売れば結構な金になったであろうそれを気にする者はこの場にはいない。そんなものより何より愛する人からの手紙の方が何十倍も重いのがアンブラー家の常識である。
「ユーミア・ゴールディング……スペル違いじゃない……見間違いでもない……」
一通の封を開けていない手紙を手に、その裏面の署名を確認してルクシオがわなわなと震える。
薄いピンク色の封筒に薔薇の封蝋。なんとも女性らしい美しく可愛らしい封筒。どんな内容だって嬉しい。ユーミアから手紙が来たという事実のみで天にも上る心地である。できることなら保存用と観賞用と読む用で同じものを3通複製したい。
というかこれは無闇に開けていいものなのだろうか?このまま家宝にするべきではないか?
「これを使えルクシオ」
感動に浸るルクシオに、父が右手に手紙を開けるためのペーパーナイフ、左手に蝋で閉じられた封筒の束を差し出した。
「練習が必要だろう?」
「父さん!恩に着る!」
ペーパーナイフで封を切る時に万が一でも封筒に傷をつけたら大変である。複製が無理ならこの1通だけでも完璧な状態で手元に残したい。絶対に失敗できない。
ルクシオがそう思うことを見越して父は蝋で留めた空の封筒を大量に用意してくれていたのだ。
ユーミアからの手紙を大事に大事に胸ポケットに仕舞い込み、ルクシオは恭しくペーパーナイフと練習用空封筒を受け取った。
父が去ってから数十分後。
「さて……」
充分練習はした。手紙を永久保管する箱も用意した。額縁で飾るのと迷ったが、落ちたり誰かがぶつかったりという危険性を考えてやめた。
仕上げに目を閉じ深呼吸、しばらく精神統一して開眼。ペーパーナイフを掲げ、一息に差し込む。そうして開いた封筒は、傷一つなく綺麗に元の形を保っていた。成功である。
震える手で中の便箋を取り出し、ゆっくりと開き……。
『親愛なるルクシオ様』
冒頭の一行でテーブルに頭を打ちつけた。若干血が出たが手紙は無事である。血が垂れて手紙に落ちては大変なので大急ぎでハンカチで止血を試みた。
親愛なる。親愛なる。親愛なるである。勿論手紙では決まりきった文言であるがそれでも嬉しい。だってユーミアが手ずから書いたのだ、『親愛なる』にルクシオの名を繋げて!
とりあえず血が止まってから続きを読むことにする。
「……誰か包帯持ってきてくれ!」
この日ルクシオは、頭部の出血は中々止まらないということを身を持って学んだ。
「貴方最近怪我が多いわね……何か危ないこととかしてないわよね?」
「た、たまたまです。うっかり足が滑って家具にぶつかるのが続いて」
一週間後。
アンブラー家応接室にて、ユーミア・ゴールディングが心配げに言った。目の前に座るアンブラー家三男がまたもや身体に包帯を巻いていたからだろう。しかも今回は額に。
「寝不足じゃあないでしょうね?夜はちゃんと寝るのよ?」
「はい勿論!」
まるで子供を諭すような言い方に、ルクシオが食い気味に答える。
先日ケーキ屋に出掛けた際もルクシオは足首に包帯を巻いていたのだ。兄弟喧嘩で負った傷だが「テーブルにぶつかって」と誤魔化して。
まあ嘘ではない。正確に言えばヒートアップした兄二人がテーブルを叩きつけなんやかんやあってルクシオの方に倒れてきただけだ。
「貴方の『勿論』はあまり信用できないのよねぇ」
「ではこの命を賭けても」
「そこまでのプレッシャーはいらないわ」
何はともあれ夢みたいである。手紙ではなく今度は本人がアンブラー家を訪ねてきたのだ。
一週間前の手紙には、ダンスパーティでロレッタの相手役を務めたこと、美味しいケーキ屋を紹介してくれたことでお礼がしたいと記されていた。一週間後、お礼の品を届けにアンブラー家を訪ねていいかと。
それを読み終えたルクシオが再びテーブルに頭を打ちつけたのは避けようのない必然の事故であった。
「ほら、ロレッタも黙ってないでお喋りしましょう?そのために来たんじゃない」
「す、すみません……ルクシオ様のお家だと思ったら緊張してしまって」
そう、たとえ『ロレッタも同伴で』と、おそらくルクシオとロレッタの仲を取り持つ一手であると推測できたとしても。好きな相手が家に来るという事実は変わらない。
「ええと、その……ダンスパーティでも、ケーキ屋さんでも、ありがとうございました。私、すっごく楽しかったです」
エントランスから応接室までユーミアを案内する間も夢のようだった。もし婚約者になれたらこんなふうに何でもない日に訪ねてきてくれたり、結婚したら当たり前に毎日この家にユーミアがいるのだろうと簡単に想像できた。
「礼を言われる程のことはしてないが……」
「いいえ!とてもとても嬉しかったのです、是非お礼がしたくて!」
今晩は今目に焼きつけた屋敷内にいるユーミアを描く。描くったら描く。脳内だけに残しておくのは勿体ない。
「あの、ところでルクシオ様は絵を描くのが趣味なんですよね?」
「ああ、そうだけど」
この機会をくれたロレッタには感謝せねばならない。ただあまり好意的に接するわけにはいかないし、かといってユーミアの前で冷たく接するわけにもいかず、どうしたものかと悩んでいたところで。
「私、見てみたいです!ルクシオ様のお部屋にお邪魔してもいいでしょうか……!?」
「え」
ロレッタがとんでもない爆弾を落とした。
「あ、あー……今は少し……散らかってるから……」
やばい。やばいやばいやばい。これはやばい。まさかこんな展開になるとは思っていなかった。ここで頷けばユーミアだけ置いていくのは不自然だろう。そりゃあいつか応接室でなく自分の部屋にユーミアを呼べたらと妄想はしていたが、少なくとも今ではない。今ではないのだ。
「え、絵の具とか、キャンパスとか、散乱してて……」
「踏まないように気をつけます、ちょっと見るだけでいいんです!」
ちょっと見るだけでも駄目だ。ちょっと見るだけでアウトなのだ。何故なら数ヶ月前から現在にかけてルクシオの部屋は。
「本当に人に見せられる状態じゃなく……」
壁という壁がユーミアの肖像画で埋め尽くされているのである!
「多少散らかってるくらい、むしろ芸術家らしくて良いと思いますっ」
更に言うなら胸元の空いたドレスを着ていた時のユーミアのアップや、バルコニーで風を受けてドレスの裾がふわりと靡いた瞬間まである。
ティーカップを持つ手がガックガク震えるくらいには、それを見られたら終わりであるとルクシオもわかっていた。
「少しだけ欲を言わせてもらえるなら、ルクシオ様が絵を描いているところとか見れたらなって……」
少しの欲どころか欲望展覧会だ。やばい。本当にやばい。ついさっきまであったロレッタへの感謝や罪悪感が塵と消える。もうこの少女が断頭台へと追い立ててくる執行人にしか見えない。
「そんなに散らかってるから足を滑らせるんじゃなくって?駄目じゃないルクシオ」
「えっ!?いえ全然!全然散らかってません大丈夫です!」
「わあ、それなら見ても大丈夫ですね!」
「あっ……」
そしてその断頭台へ続く階段の最後の一段は、ルクシオ自ら踏み抜いた。
「……ここが俺の部屋です」
「あら?本当に散らかってなかったのね」
「わあ、ここがルクシオ様の!」
元々青白い顔を更に青くして、ルクシオが自身の部屋のドアを開ける。
後ろをついてきた二人の女性がそれを覗き込み、感嘆の声を上げた。
「まあ、綺麗ね……凄いじゃないルクシオ。これ全部貴方が描いたの?」
「ええ、その、はい」
「凄いです!本当に凄いです!」
ユーミアとロレッタが目を輝かせて見つめる先。
そこには壁という壁を……風景画で埋め尽くした、それはそれは美しい光景があった。
どうしてこうなったか、時は五分程前に遡る。
「状況は分かってる」
「へ?」
部屋を見に行くことが決定事項になってしまい、最低限の片付けをしてくるからとルクシオが応接室を飛び出すと。廊下を曲がったところにアンブラー家当主が大真面目な顔で佇んでいた。
「お前の絵を飾ってる部屋を見たいと言われた。そうだな?」
「ど、どうしてそれを……」
「ユーミア嬢がいるのにそんな血相を変えて応接室を飛び出して、お前の部屋がある方向へ駆けてこうとしてるんだ。わかるさ」
チッチッチ、と指を立てて名探偵ぶる父。しかしそんなものに構っている暇はない。
「そして今お前の部屋はユーミア嬢に見せられる状況じゃない」
「っ、ああそうだよ分かってるなら止めるなよ時間がない!」
「急ぐ必要はないぞ」
「は!?」
一刻も早く全ての絵を片付けなければと再び駆け出すルクシオを父が止める。
「あれを見てみろ」
「えっ……」
苛立ったルクシオが振り返ったところで視界の隅に映った侍女の姿。二人がかりで額縁に入った大きな絵を運んでいる。だいぶ前にルクシオが描いた風景画を。
「……何してんだ?」
「私の指示だ。ユーミア嬢の絵を片付けて、代わりに書斎や食堂に飾ってたお前の絵を運ぶようにと」
「父さん……!」
普段頼りにならない父から後光が差して見える。予想もしていなかった救いの手にルクシオはうっかり泣きそうになった。
「無いとは思ってたが、万が一と思ってな……嫌な予感がしたのだ……いいかルクシオ。惚れた女が家に来る時は細心の注意を払え。後ろめたいものは絶対に目につかない場所に隠せ。無論白い布で覆うなど分かりやすい隠し方じゃ駄目だ。死ぬ気で隠し通せ……!」
「……父さん?」
なんだかやけに具体的である。まるで経験談のような。訝しげに首を傾げるルクシオの前で、父はふっと小さく笑い、哀愁を漂わせ背中を向けた。
「昔何か……あったのか……?」
「ふっ……男にはな、言えない過去の一つや二つあるものだ」
アンブラー家現当主、ジェイミー・アンブラー。
かつて当時付き合ってもいなかった現在の妻マリエ・アンブラーの似顔絵を裸婦画に貼り付ける暴挙を犯し、その数日後近辺で馬車の車輪が壊れたからと助けを求めマリエが訪ねてくるという幸運に恵まれたにも関わらず、おざなりに白布で隠したそれがズレて露わになり……それはもう大変なことになったという、悲しい過去を持っていた。




