1話 アンブラー家の男
「いいかルクシオ。我らアンブラー家の行末はお前の双肩にかかっている……二、三人、いや一人でもいい。未婚のお嬢さんと踊って来い」
「……無茶言うなよ父さん」
カラカラと軽やかに夜道を滑る馬車の中、重い空気を纏った一組の親子。
「俺が女性受けするような見た目に見えるかよ……」
父親の期待を込めた視線を受け流し、少年が疲れたように答える。少年の名はルクシオ・アンブラー、十六歳。アンブラー男爵家の三男で、優秀な兄が二人おり、つい一年前までは跡取り問題なんて全く気にしなくていいぬるま湯に居た。
「大丈夫だルクシオ。お前は若い。社交界デビューしたばかりのお嬢さん達と同じくらい若い。若者同士気が合うかもしれんし、同年代の方が打ち解けやすいだろうし、大人の男の頼り甲斐は無理でも十代の初々しさを出していけ」
「それが受けるのは女の子だけだろ」
男が初々しくて誰が受けてくれるのだと、ルクシオがぐったりと背もたれに身体を倒していじける。
慣れない衣装、慣れない重圧。生まれつきうっすら青白い肌に、暗く淀んだ灰色の目。いくら櫛を通しても纏まらずうねる濃紺の髪は、諦めてそのままうねらせている。
人付き合いが苦手で、人混みが苦手で、というか最早外と光が苦手で殆ど屋敷に引き籠っていたルクシオである。幸いとある一芸に秀でていたので、将来もこのまま引き篭もっていける算段だったのだが。
「帰りたい……何で俺が……」
「仕方ないだろう。エミーディオもディオルクも大恋愛の末婿に行ってしまったんだから」
「あの恋愛脳馬鹿兄共……」
ルクシオの脳内に、一人の女性の手を取って「アンブラー家の跡継ぎの座はディオルクに譲ります」と高らかに宣言した長男の姿が蘇る。続いて「いや僕も彼女のとこに婿入りする予定だからルクシオに譲ります」とパスしてきた次男の姿も蘇る。
「あのままうち継いでれば何の苦労もなかったのに、何でエミ兄もディオ兄もわざわざ針の筵に婿入りなんて」
長男エミーディオの相手は没落寸前の子爵家の一人娘、次男ディオルクの相手はとある商会の会長のこれまた一人娘だった。
子爵家の方は財政的には没落寸前であるものの歴史は長く、祖父の代からの成り上がり男爵家であるエミーディオを快く思ってなかった。
商会の方は「お貴族様に商売のことが分かるもんか」とディオルクを敵視していた。
そんな針の筵の中に、ただただ惚れた女のために飛び込んで行ったのである。エミーディオもディオルクも。
「それが……恋ってもんだからな」
「気持ち悪い」
パチンとウィンクした父親を、ルクシオが冷めた目でバッサリ切り捨てる。
「まあ、アンブラー家の男は恋で身を立て恋で身を滅ぼすって話はお前にも昔から言ってるだろ?」
「どこぞのいいとこの坊ちゃんだったひい爺ちゃんがひい婆ちゃんと駆け落ちして平民になって、平民の爺ちゃんが貴族に憧れる婆ちゃんと結婚するために戦争で手柄立てて、父さんが母さんへのアプローチで衆目の中土下座で求愛を繰り返してアンブラー家の名を地に落とし同情で結婚してもらえた話だろ?身を立てたの爺ちゃんだけじゃねーか」
幼い頃から耳にタコができる程聞かされるアンブラー家の男の歴史。一言で言うと全員恋愛脳。終了。
「いやいや!恋が成就した男はみんな成功してるって話だからな!?身を滅ぼしてるのは失恋した組!身を滅ぼしたのはお前の叔父とか大叔父!」
「え?そういやずっと会ってないと思ったら叔父さんいつの間に滅びてたんだよ。訃報聞いてねーよ」
「失恋のショックで三年前から引き篭もってる。遅過ぎた春だった……ってタイトルで出版もしてるぞ」
「去年のベストセラーじゃん……」
恋で身を滅ぼすどころか生計立ててる。殆ど会ってなかったとはいえそれなりに良くしてくれた叔父が無事生きてるとわかり、ルクシオは少しほっとした。
「言っとくが、アンブラーの血を引いてるお前もああなる可能性はまだあるからな」
「ない。絶対にない。それはない」
「エミーディオもディオルクも、この一年でようやく婿入り先にも受け入れられて上手くやってるようだし」
「しなくていい苦労をわざわざする理由がない。揃いも揃って馬鹿じゃないのかうちの男共は」
そんな馬鹿共のせいで、人と明るいところが苦手なルクシオにとって嫌な場所No.1と言っていいダンスパーティに出なくてはいけないのである。アンブラー家に、ルクシオに嫁いで来てくれる、懐の深いお嫁さんを探すために。
「無理だろ……どう考えても無理だろ……」
「大丈夫だルクシオ、男は顔じゃない。金でもない。中身……もまあ……悪いわけじゃないのは父さんわかってるからな」
「フォローになってない」
慣れないプレッシャーに馬車酔いも相まって人生最大に顔色を悪くしたルクシオを乗せ、馬車は今夜の夜会会場へと進んで行った。
ダンスパーティーであぶれて壁から動かない女性のことは壁の花と呼ぶが、男性の場合は壁のシミと言うらしい。
「男女差別だ……」
パーティ開始から一時間。一秒足りとも壁から動けずにいたルクシオが投げやりに呟く。
多い。人が多い。息が詰まる。そこら中で男が女を、女が男を物色する視線が飛び交って落ち着かない。
しかし帰りたくとも馬車は父と共に帰ってしまった。パーティが終わる頃にまた迎えに来るという。無理矢理にでも帰らせない気である。ハゲればいいのに。
「ちょっと、そこの貴方」
と、頭の中で父への呪詛を吐き出していると。
「シミならシミで、せめて張り付いてないと格好つかなくってよ。その猫背くらいは何とかなさい」
「……は?」
目の前に、一人の女性が立っていた。
燃えるような赤い髪に、つり目がちな金色の瞳。深紅のドレスを纏った見るからに気の強そうな女性。年はおそらく20代前半くらい。どこぞの夫人だろうか、しかし全く見覚えはない。
「えっと、どちら様……」
「あら、失礼致しました。私はユーミア・ゴールディング。貴方のお名前をお聞きしてもよろしくて?」
「……ルクシオ・アンブラー……です」
女性の目がああ、あのアンブラーかと納得するのを見て、ルクシオも思い出した。赤毛でゴールディングと言えば、ゴールディング伯爵の家の出だろう。幼い頃に母に連れられたお茶会で、ゴールディング伯爵夫人の顔は見たことがある。言われてみれば、当時の夫人と顔立ちが少し似ている。
「土下……去年ベストセラーの本を書かれた方がいらっしゃる、アンブラー家ね」
「土下座事件のアンブラーです」
二十年以上経っても面白おかしく語り継がれる消えない醜聞。ルクシオ自身は家の名誉などあまり興味は無いので気にならなかったが、わざとぶっきらぼうに言った。
「では、俺はこれで」
「待ちなさい。猫背を直しなさいって言ったでしょう?」
これで赤毛の女性が、ユーミア・ゴールディングが口を滑らせたことを気にして引いてくれればよかったのだが、そうは問屋は卸さなかった。
「シミにもなれずに縮こまってる男に誰が声をかけると言うの」
「貴女に声はかけられましたけど……」
「適齢期の女の子からよ!それじゃあ相手にされないわ」
「……」
別に声なんてかけられなくてもと言おうとして、出会いの場であるダンスパーティーに出ておいて、そんなことを言ってはただの負け惜しみにしか聞こえないのでやめる。
「いい?女の子は自信を持った男性に惹かれるの。見てご覧なさい」
「はあ」
それにしても押しの強い女性である。自らを適齢期でないと言うことはやはり見た目通り20は超えているのだろうが、偉そうに言ってる自分は結婚しているのか。見たところ周囲に夫らしき人物の姿はない。
それでもその強さに負け、ルクシオがユーミアの指し示した先を見る。
「やあ、エリー嬢。また会ったね。太陽の下で笑う君も可愛らしいけど、シャンデリアに照らされた君は一段と美しい」
「まぁ、ジーク様ったら。お上手ですわ」
そこには近い距離で語らう一組の男女がいた。男はユーミアと同年代で、女はルクシオと同じくらいの年に見える。そしてあれよあれよと男が女の肩を抱き、バルコニーへと消えていった。「月の光に照らされる君も見たい」とか言って。
「随分光が好きな男ですね」
「定番の口説き文句よ。覚えておくといいわ」
「すみません俺この世の『光』と名のつくものことごとく苦手なんで……」
「ヴァンパイアか何かかしら?」
ふいと視線を逸らして言うルクシオに、ユーミアが呆れたように腰に手を当てた。
「貴方、それでどうやって女の子を口説こうと思ってたの?」
「同じ趣味の方がいれば」
「墓地で探した方が早いわよ」
無茶を言わないでほしい。そもそもダンスパーティーに一人で出たことだけでもルクシオにとっては良くやった方なのだ。女の子を口説くなど夢のまた夢である。
「同じく壁の花になってる子もいるんだから、一人くらい声をかけられるでしょう?ご両親だってそのつもりで送り出してくれたはずよ」
「そりゃあ……最低一人とは踊ってこいと言われましたけど……」
父とて本気でルクシオが今日嫁候補を捕まえられるとは思ってないだろう。
ただ、三男であることにかまけて引きこもってばかりだった息子に、少々荒療治で人付き合いを克服させたいだけで。ともすれば幽霊のような見た目のせいで怖がられることが多く、すっかり殻にこもりがちになってしまったルクシオが、せめて最低限の人付き合いができるようにと。
「もう少しで曲が終わるわ。ほら、今がチャンスよ。背筋を伸ばして女の子を誘いに行きなさい」
言わば今日はただの場慣れのためのパーティ。たとえ誰とも踊れなくとも、最後まで会場にいただけで父は満足してくれるだろう。帰りの馬車で「ルクシオには男女の駆け引きは早かったな」と、あの気持ち悪いウィンクをして。
ハゲればいいのに。
「……踊れないんです」
「どうして?あんなの特別な技術は必要なくてよ」
「踊れないんです」
ただ、ルクシオには、女の子を誘えないという以前に……もっと重大な踊れない理由があった。
「踊れないんです……女性パートしか」
「は?」
ずっとキリッと整っていたユーミアの眉と目つきが初めて崩れる。光が苦手だと言った時より拍子抜けした顔。
「兄と一緒にダンスは習いました。兄達は熱心に習っていて、教師が帰った後もしっかり練習し、その練習に俺も付き合わされていたので、父は俺がダンスは踊れると疑いもしてません」
「え、ええ……それはそうでしょうね」
「ですが。俺は兄のダンス練習に付き合ってたんです。兄が男性パートで、俺が女性パートでした」
将来運命の女性とパーティで出会った時に備えて、熱心にダンス練習をしていた兄達。それで兄達のどちらかがその運命の女性と家を継いでくれるならと、ルクシオも渋々ながら協力していた。
「そこは……お母様に付き合ってもらうとか、たまにはパート交換するとか」
「年頃の男で母親にそれを頼める猛者はいません。あと俺も男として踊れるようになりたいとは微塵も思ってなかったのでこのザマです」
しかしあんなに協力したというのに、二人の兄はルクシオに後継の座を押しつけ運命の女性に婿入りする始末。残ったのはルクシオの女性パートのダンスの腕前だけ。
二人共若ハゲに悩まされればいいのに。
「……偶然ね。実は私も、男性パートの方が得意なのよ」
「え?」
ユーミアが黙ったままなので、さすがに返す言葉もないのかと思っていると。
「妹達の練習に散々付き合っていたから、男性パートの方が板についちゃって。男性と踊る時もうっかりリードしそうになって大変だわ」
思いの外優しい言葉が返ってきて、ルクシオは逆にたじろいでしまった。てっきり呆れられるか馬鹿にされると思ったのに。
「ついて来なさい。私が男性パートの踊り方教えてあげるわ」
「え、や、ちょっと」
不意に腕を取られ、ユーミアに引っ張られるようにして壁から剥がれる。向かった先はいくつかあるバルコニーのうち、まだ誰もいないところ。
「はい背筋伸ばして、ってこれ言うの今日何回目よ。ほら早く」
「は、はい」
「よろしい。まずは基本の立ち方からよ。右腕をこっちに回して、足をもう少し開けて」
強引とはいえ女性の力である。振り払おうと思えば払えたが、何故かそんな気は起きなかった。
「そう、その調子。上手いじゃない」
窓越しに微かに聞こえてくる音楽に合わせてターンを踏む。今更だがダンスを教えてもらうということは、一緒に踊ることに他ならない。
「そうやってしっかり背筋を伸ばしていたら、ちゃんと格好いいわよ。その髪と目の色も、夜明けの空みたいで素敵だわ」
「え……」
髪が青みがかった夜空で、目はそこにかかる雲のようだとユーミアが言う。
「もっと自信を持ちなさい。そうすればすぐに良い相手が見つかるはずよ」
そう言って笑う彼女の赤い髪と金色の瞳は、まるで夕焼け空を表してるかのように美しかった。