1.生きなければいけないので
母は死んだ。言いつけを破って白薔薇を摘むため庭へ出た、妹と私を守るために。
振り上げられた丸太のような腕に、鋭く鈍く痛む頬。
夕日の中、庭で一番きれいに咲いていた白薔薇は、執拗に踏みつけられすっかり亡骸となってしまった。
私たちをかばい覆いかぶさる母の上で、バケツ一杯の雨水がひっくりかえされた。
拭くものも与えず、家の主人は扉を閉ざす。
徐々に徐々に、この世の何よりもあたたかだった母を、春の夜は奪っていった。
父親は悪魔だった。
大きな声に、いつとんでくるかわからない手足。
乳飲み子の方がまだましだと思える最悪の癇癪持ち。
何か少しでも彼の気に食わないことをすれば、相手を気が済むまでいたぶりつくした。
あの日を境に決定的に体調を崩した母に、父親はまともな治療を受けさせなかった。そして冷たくなった母に、一回も会いに来なかった。さっさと始末しろと使用人に命令し、泣きじゃくる妹を煩わしそうに見る男。
それが私の父親だ。
母が死んだあと、父は傾きかけていた経営する会社を立て直すため、縁もゆかりもない金持ちに私を売った。私の見目に金持ちは価格をつけ、父は相当な額の資金援助を得たのだ。
私は母の遺品が入ったカバンを手に、妹を連れて養子に出た。
右手に食い込むカバンの重さと、小さな左手のぬくもりだけが、私に残されたすべてだった。
ねーね、そう私を呼び不安そうに瞳を揺らしている妹に、微笑みかける。
大丈夫。あなただけは何があっても絶対に守ってみせる。
きっと誰も私たちを守ってはくれない。気に留めてはくれない。
戦わなければ奪われるばかりなのだと、奪われたら取り返すことはできないのだと、私は悟った。
でもこの子にそんなことは気づかせたくない。暖かく優しい場所で、大人の手は頬を包むものだと盲目に信じて生きてほしい。
そうできるのは私だけ。私がやらやらなければ、誰がこの子を愛すのだ。
泣くのを必死にこらえる妹をきつく抱きしめる。
大丈夫。きっと大丈夫。
そう何度も囁いて、小さな背中を撫で続けた。
母が死んで、わずか2週間後のできごと。
この時私は5歳、妹は3歳だった。