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魚の娘

作者: 川中健人

雲一つない晴れの日には,あぜ道を歩いていると,哀しくなります。

左右には田んぼの緑,頭上には空の青が広がっているから,どこまでも行ける気がするからかもしれません。

どこまでも行きたいからなのかもしれません。


あぜ道と交差して通る車道沿いには,スーパーが一軒あります。

店番のおばあさんは,呼吸をしているのか不安になるほど,微動だにしません。

私が,一週間遅れで届く雑誌を立ち読みしても,おばあさんは黙ったままです。

雑誌を読むと,他に町があって,たくさんの人がいて,たくさんのお店があって,新しいことが次々に起きていることがわかります。

この町には,少ししか人がいませんし,私の他には子供はいませんし,同じ日がずっと続いていくだけです。


人が住まなくなった家が,窓も玄関も取り払われて,朽ちていくのを見ると,哀しくなります。

廃屋の中の黒が深く,何も見えないから,いつかこの町が滅んでしまう気がするからかもしれません。

滅んでほしいのかもしれません。


廃屋のそばに蹲って子供が泣いているのを見つけたことがあります。

子供という,小さい人は,雑誌で見たことがありましたが,初めて子供と話したので,その日の出来事をよく覚えています。

ドキドキしながら,どこから来たの?と聞くと,小山に茂る竹林の中を迷っていたら,お化けと出会って,逃げて来た,とその子供は言いました。

よほど怖かったのでしょう。私の手を掴んで離そうとしませんでした。

そのうち,お姉さんも逃げなきゃ,と私の手を引いてあぜ道へと駆け出しました。

田んぼが黄金に染まり,私たちの斜め後ろに影が長く伸びていました。

夕日を背に立つ人影を見つける度に,その子は,助けて,助けて,と何度も叫びました。

でも,人影は,ただ黙って私たちを見送るだけです。

私は,道端に立つ見知った人影を見つけて,お母さん,と声をかけました。

その子は,はじめにお母さんを,次に私に見た,のだと思います。

私の影の中に立っていたその子の顔は,暗くてよく見えなかったのです。

その子は,私の手を離すと,助けて,助けて,と叫びながら,一人で道を駆けていきました。


あぜ道の果てにかかっている注連縄が,遠くちらちらと白くはためいているのを見ると,怖くなります。

あの注連縄を越えたら,もうこの町には戻って来られない,とお姉さんは私にそう言って,その言葉通り,戻って来ることはありませんでした。


数年に一度くらいでしょうか。

私たちの町から,誰かが出ていって,その代わりに,男の人がやって来るのは。

男たちはみな,変わっていました。

女たちと違って,手足がなかったり,目や耳がなかったり,鼻と口がくっついて,顔に大きな穴がある人もいました。

そのくせ,彼らは私たちを見て,大層怯えるのです。

男たちは,家の中で息を潜めて暮らしています。

私のお父さんですら,私とお母さんを,怯えた目で見ているような気がします。

私たち女にあって,彼ら男にないものが,男たちを怯えさせるんだよ,とお母さんは教えてくれました。


田んぼの水路を眺めていて,大きな魚が泳いでいるのを見ると,怖くなります。

一瞬,女の人が溺れているのではないかと思ってしまうからかもしれません。

シャワーを浴びている時,鏡を見ると,湯煙の向こうに大きな魚がいる,と思ってしまうように。


子供の頃,お母さんに抱っこされると,私はよく泣いたそうです。

お母さんの肌は,硬く,冷たく,子供の私は,お父さんの肌の方が,柔らかく,温かくて,好きだったのだと思います。

お父さんは,決して私を抱っこしようとはしなかったそうですが。

お父さんが私を抱っこしようとしないのは,私の肌が,お母さんと同じように,硬く,冷たいからではないようです。

いつか,お父さんに聞いてみたことがあります。

どうして私を抱っこしなかったの?と聞くと,お前らは何を考えているかわからない,魚のような眼で俺を見るのはよしてくれ,とお父さんは答えました。


いつの日か,もしこの町を出たとして,私を抱きしめてくれる人に,出会えるのでしょうか。

もし,この町の女たち以外,私の肌に触れる人がいないとしたら。

もし,この町の男たちのように,誰も私の肌に触れようとしないとしたら。

その時私はきっと,溺れる魚になるに違いありません。


注連縄の向こうに行ってはいけないと,町の人に言われているから,私はこの町を出ることができないわけじゃ,なかったのです。

私はただただ,田んぼの水路で溺れ死ぬことが怖かった。

硬く,冷たい女たちの肌に,ずっと,いつまでも,抱かれていたかった。

身体の欠けた男と,いつか自分の娘をこの手に抱きしめたかった。


たとえ,どこにも行けなくても。

滅んでほしいと呪っても。

私は,この町で,同じ日を生きることしか,できなかったのです。

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