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苦手な方はご注意ください。

『sensational rhapsody』

作者: バカ柳勇

「あの…」

一週間しかないわずかな命の中で、せめてもの爪痕を残そうとする蝉の必死の鳴き声を遮って、後輩は話しかけてくる。

「なんだ?」

「空っていいっすよね」

「はぁ?どうした、急にそんなこと言い出して」

「いや、なんか、ずっと見ていられるなって」

「そうか?俺は飽きちゃうな。ましてや今は夏だから、暑くて仕方がないよ」

「そういうのじゃないんっすよ...」


いつもの様に二人して、スーツをだらしなく着て帰る姿が見える。その上には夏のどこまでも広がる青空が、ドームのように覆いかぶさっていた。


〈第I主観〉

俺には変わった後輩がいる。俺が入社8年目に対して、彼は3年半経ったところだ。彼には決まった口癖がある。それが「そういうのじゃないんっすよ」だ。もう俺は聞き慣れたが、初対面の人はだいたい眉間に皺を寄せる。なんせ、彼には独特の感性がある。その感覚を物差しに、この世界の全てを測り、判定するらしい。俺からしたら、後輩は完全に変なやつだ。だが、そんなやつだからこそ産み出せるものがあると確信を持っている。


「先輩って好きな人いるんっすか?」

「何言ってんの?俺は結婚して、奥さんまでいるだろ」

「あれ、そうでしたっけ?」

以前この下りは一回やっているはずなのに、後輩は嘘をついている小学生のように惚ける。

「そうだよ。最近は仕事で忙しいから、あまり口数を聞いていないけどな」

「へぇ~羨ましいっす」

「あれ、お前って彼女いたんじゃなかったっけ?」

後輩には確か2歳年下の彼女がいる。会ったことはないが、彼が言うにはとても可愛いらしい。

「そうなんっすけど、この前喧嘩しちゃって、別れちゃいました。僕的には完全向こうが悪いんっすけどね」

「そうか…そりゃあ残念だな」


梅雨の時期なのに珍しく雨は降っていなく、月光に導かれたかのように、多くの人が外に出てきている。喧騒な街に似合わない男二人が飲み屋の灯りに照らされ、その虚しい影だけがアスファルトに落ちる。夏の夜は長いようであっという間である。


〈第II主観〉

「あなたの感覚ってやつに散々翻弄されてきた。私はただ、普通の生活が送りたかっただけなの。ごめんね」

彼女の最後の言葉を思い出す。僕にとって、彼女と別れたという事実は受け入れるのには大きすぎた。


その日は突然やってきた。何もない平和な土曜日。いつも通り夕飯を終え、彼女と二人してシンクの前で横に並び、僕が洗った皿を彼女がタオルで優しく拭う。そんな繰り返されるありふれた日常の中に、次第に幸せを見つけられなくなった僕は、側でThe Beatlesの「a day in the life」を軽快な鼻歌を歌う彼女に尋ねてみた。

「ねぇねぇ、今まで生きて来て恥をかいたことってある?」

いきなり尋ねたせいか、彼女は戸惑いと疑問と少しの怒りを交えた表情で直視してくる。

「そりゃ誰だってあることじゃないの?」

「そうだよね。じゃあ、恥をかいてはそれを笑い過ごし、また恥をかくような人間ってどう思う?」

「同じ過ちを繰り返してるわけだから、とてもじゃないけど、愚直に感じるわ」

壁掛けタオルで手を拭き終わり、電気のついてないリビングに彼女が行こうとする。

「ふーん。君って愚直ではないけど、まさにそのタイプの人間だと思うよ」

「あ?」

今度は怒りだけが充満した瞳を向けてくる。

「いや、その…挑発的な意味じゃなくて、単純にそう思っただけ。あと、とても純粋で心から笑っているんだろうけど、その気持ちが顔に浮かんだ時の笑顔が汚い」

「意味がわからない。なんでそんなこと急に言い出すの?今まで一切そういう類のグチ言わなかったじゃん」

思ったより彼女が本気で怒っていた。僕はそれに半分恐怖を感じ、もう半分は今まで見せてこなかった"本当の彼女"が見れるチャンスかもしれないと勝手に思い込んでた。なぜか後者に対する興味が恐怖心を抑え込もうとする。

「愚痴とかじゃなくて、僕はただ本当の君を見たいんだ。ほら、僕らもう付き合って3年くらい経つし、同棲までしている。なのに喧嘩をほとんどしたことないから、いつも見てる君が本当の君なのかわからないんだ」

自分でも驚くほど自然と言葉が口から出てくる。

「喧嘩をしない生活の何がダメなの?私は常に本当の自分で過ごしてるつもりだわ。逆にそんなことを流暢に言えるあなたの方が疑わしいくらい」

確かに。途端、さっきまでの探究心が消え失せ、僕の中には彼女の怒りに対する恐怖と、どうやって機嫌をとるかという必死な抗いしか残らなかった。


「あなたの感覚ってやつに散々翻弄されてきた。私はただ、普通の生活が送りたかっただけなの。ごめんね」


最後にごめんねと謝って来たところに十分すぎる彼女らしさを感じた。だが、今思い返せば、謝るべきなのは僕の方だった。先輩には見栄えを張っていたが、正直今の僕には彼女に対する未練しか残ってない。


どうも他の人からして、僕は少し変わっているらしい。先輩と喋っている時も、家族と話す時も、彼女と"いた"時も…自分では普通だと思い込んでいる事も、他人の目、神経、脳、言葉を通すと全て異質なものに変換されて僕に跳ね返ってくる。相手がいい人で無理して相槌をうってくれても「そういうのじゃない」とついつい言ってしまう。僕は完全に変なやつだ。誰かの傀儡というわけでもないし、意思疎通が下手なわけでもない。でも何かが僕と他人の間に線引きをする。それを知る事なく、僕は人生を終えるのだろう。

デスクに置いてある淹れたてのコーヒーに僕の顔が映る。そこから湯気が出てはまた消えて行くのをじっと見つめた。


〈第I主観〉

約一日かかった会議がやっと終わり、疲れと開放感が入り混ざった声で後輩は話しかけてくる。

「先輩やっぱ凄いっす。あんなアイディア僕には思いつきませんよ」

「そうでもないだろ。よくある商売法の一つだよ。そこらへんに売ってる本とかにも書いてある」

正直のところ凄いと思ったのは俺の方だった。後輩が期待通りとんでもない案を出していた。しかし、発想力の乏しい上司により、それは一瞬にして却下された。

「お前の方が…凄かったよ」

「なんすかそれ!やめてくださいよ、ツンデレとかいうやつ」

「いや、本当にそう思ってる。実はな、お前に期待しているんだ。確かに一般ウケしないようなものしか考えつかないかもしれないけど、俺にはそれらが輝いて見えるんだ」

どれもが斬新で、今までの常識を覆す。そんな後輩の発想力を羨ましく思える。

「先輩、僕がしたいのはそういうのじゃないんっすよ。僕はただ、普通の仕事をして、平凡な日々を暮らしたいだけなんっす」

そう言ってる後輩の顔にはどこか寂しそうな表情が伺えた。彼なりの葛藤があるのかもしれない。会議室にはもう誰もいなくなり、静寂とやり場のない気まずさだけが残っていた。

「お前、今夜空いてるか?」

「はい。なんっすか?」

「随分お前と飲んでないなと今思ったところでさ。どう?」

「もちろんっす!いや~前は夜遅くまで飲んで、色々愚痴を聞いたり吐いたりしてましたね」

にやけている後輩に合図をしてから、少し身軽になった体で立ち上がり、その場を去った。


夏の湿った空気に嫌気を感じながらも、歩き続けてたどり着いた居酒屋はとても古く、首振り扇風機一台だけが店内の蒸し暑さやら加齢臭やらをかき回している。後輩は入り口に一番近い隅っこの席を選び、椅子を引いてくれる。頭上には蜘蛛の巣とそれに引っかかった埃が扇風機に吹かれてゆらゆら動いている。

「さっき先輩がおっしゃってた輝いて見えるってのは、具体的にどんなところですか?」

「あぁ…お前いつも客観的でなく、自分の世界観で物事を捉えてるんだろ?」

「はい。やっぱいけないんですかねぇ…」

「いや、俺はお前のその感覚に興味を持ってるんだ」

運ばれてから少し経ってしまったぬるいビールを喉に流し込んでから続けた。

「お前は捨てられた落花生の話を知っているか?」

「なんすか、それ」

「落花生って皮剥いたら二、三個くらい入ってるだろ?」

後輩は少し上を向いて話を聞いていた。何かそれに当てはまるものを想像しているのだろう。

「そんで、たまにハズレというか、サイズが一回り小さいやつあるだろ?」

「はい…」

「ある日、一人の老人が落花生を食べていて、ハズレを引いちゃうわけだ。彼はその時イラついていたらしくて、そのハズレの落花生を地面に投げつけて踏んづけたらしい」

「はぁ…」

後輩のポカーンとした口がますます大きく開く。

「何ヶ月か経って老人は再び落花生をその場所で食べていたら、前にはなかった植物が生えていたんだ。もうわかってると思うけど、それは老人が当時投げつけたハズレの落花生だったんだ」

「どういう意味ですか?」

「つまりな、人間とは必ずしもその時の評価が重要なわけじゃないんだ。ゴッホも宮沢賢治も亡くなった後に有名になった。だからお前はいまの上司の評価に翻弄されずに、お前らしく生きてみろ」

「先輩…」

後輩の目にはいまでもこぼれ落ちそうなくらい涙が溜まっていた。そのせいか自分までも何か熱いものが湧いてくるのを感じる。


二人の男はそれぞれの生きる世界を支え合って生きている。それぞれのグラスにビールを注ぐ。それぞれの話に涙を流し、それぞれの酔い潰れた顔を大声で笑った。瓶ビールは次々と空き、男たちが抱え込んでいた重たいものも次第になくなっていった。


男たちは覚束ない足取りで、夜の街をどこまでも歩いていった。


〈第II主観〉

先輩との会話で少し気持ちが楽になった。先輩は僕にそのままでいいと言ってきた。それが仕事においてなのか、人間としてなのかはわからない。ともかく、その言葉をプラスに捉えることにした。僕自身ができる最大のことをすればいいんだと思えるようになった。

しかし僕をこんなに大切にしてくれる先輩がいてとても嬉しい。そして彼の業績が羨ましい。とても、とても、羨ましい…

「いつか超えたい。」僕は思っている事を言葉にして発しているのに気づいて、慌てて周りを見た。そこは自分の部屋だった。すっかり秋色に染まった窓の外から夕焼けが差し込み、見慣れた部屋を橙に染める。直視すると眩しいくらいのその光は、何かの到来を示すかのように、輝かしく、部屋に似合っていない。

「そっか、家にいたんだ。」安堵の意を込めて、自分に言い聞かせる。最近の僕は変だ。知らぬまに言葉を発していることが多い。何かをしていない時はとにかく落ち着かない。まるで何かを消さない限り、自分が成り立たないみたいに思えてくる。


秋といってももう冬みたいなもんだった。去年のクリスマスは彼女とこの部屋で静かに過ごした。今年はこの部屋はもっと広く、もっと静かになるのだろう。少なからず、そこに幸せは感じられなさそうだ。

僕は眩しすぎる夕日を遮るために、カーテンを閉めた。瞳孔が一気に開き、あたりが次第に明るくなるのを感じられる。

「闇の中でも人は光を掴もうとするんだな」そう思ってなるがままに身体をベッドに委ねた。


〈第I主観〉

「おはようございます...」

後輩はクマが酷い目を開ける気なく、活気ない声で話しかけてくる。

「どうしたんだ、それ。随分疲れてるように見えるけど。何かあったのか?」

今日は休日で、後輩をラーメンに誘ってみたものの、こんな顔されると流石に心配になる。

「あ、大丈夫です。早く寝ちゃったもんで、3:00に起きちゃったんですよ」

そう言いながら、後輩は申し訳なさそうな顔をしてみせた。本当かよと心の中でツッコミを入れて、早速ラーメン屋に入った。そこは長年通ってる立ち食い式の店で、後輩とも何回か来たことがある。外観はこの前の飲み屋よりかは新しく、換気扇から繋がれた鉄パイプは油汚れと錆で、先端に近づくにつれ黝む。そこからはファンの騒音と油の匂いが出ている。扉に手をかけ、開けてみると湯気なのか熱気なのかよくわからない白い靄が怒涛の勢いで溢れ出てくる。

「へい、いらっしゃい!」

野太く芯のある声で店長が入店を歓迎する。

「お、久し振りじゃないか。しばらく来てなかったから少し心配してたけど、相変わらず仕事ができる男って感じだな」

店長の褒め言葉はおそらく心の底からのものだろう。

「それはどうも。今日は後輩も一緒なんだ」

「お、これまた久し振りだな!なんだか元気ないぞ、どうしたんだ?」

店長の熱心さに負けてようやく後輩は口を開いた。先ほど自分に説明したのとほとんど変わらない内容を彼は店長に伝える。

「そうかそうか。そいつはドンマイだな。はっはっはっはっは」

店長の笑い声は何時もに増してうるさく感じる。

「注文は何にする?」

俺と後輩はそれぞれ味噌ラーメンと塩ラーメン、生を二杯注文する。

「はいよっ!」


しばらくして麺が運ばれてきた。器にもられた麺は見ただけでもその歯ごたえの良さが伝わってくる。そこに並々の汁が満たされる。割り箸を気をつけて割ってから麺を一口分つまむ。箸から汁の中に垂れ下がる麺からは湯気と濃厚の味噌の味が湧き出る。箸でつまんだところだけを口に入れて残りを啜る。汁とよく絡まった面は勢いよく口の中に飛び込む。味噌の旨味と麺の弾力、小刻みにされたネギの刺激と自分で振りかけた胡麻の香り…素材それぞれの味が見事に一体となって完璧なハーモニーを口の中で奏でる。

「やっぱうまいっすね」

そう話しかけてくる後輩の表情は何か大発見をした少年のように明るくなった気がする。

「あぁ」

簡単に応えて心の中で思う。もう少しの辛抱だ。お前は絶対に成功する、いや、俺が成功させる。


〈第II主観〉

ラーメン屋の店主も先輩を褒めてた。やはり先輩はすごい。そう思ったと同時に一つの考えが浮かんだ。


数週間後



「ピンポーン」

インターホンが鳴る。


……


「ピンポーン、ピンポーン」

一回鳴らしてから少しして、ドアの外の人がもう二回鳴らす。

「…はい」

寝起きのガサガサな声で答える。まだ頭が鮮明としない。ドアのロックを外し、少しだけ隙間を作る。

「宅配便です」

若い茶髪の男が馴れ馴れしい声で言う。

「あ、はい…」

書類にサインをし、宅配物を受け取る。渡されたものの軽さが異常に軽いことで、その中身が自分の思いついたアイディアのための物だと気づき、一瞬にして目が覚めた。

「本当に買えちゃうんだ」

思わず声に出てしまった。

「どうしました?」

宅配の男は元気よく言う。

「あ、いえ、そういうのじゃないんっすよ。独り言です」

「そうですか。では失礼します」

男は特別興味なさそうな顔で少し強目にドアを閉め、さっさと次の配達場所へ向かった。急いで部屋に戻り、ハサミを取り出し乱暴目に箱を開けてみると、中には白い粉の入った小さな密封式ビニール袋と細い鉄ワイヤーが入っていた。僕はその正体がわかっている。明日の仕事が楽しみになって、閉まり切ったドアに対してニヤついて見せた。


〈第I主観〉

朝、出勤したら珍しく後輩が先に会社についていた。元気な挨拶と一緒にコーヒーをデスクに置いてくれる。やけに清々しいので、少し不安になってきた。絶対にないとは思うが、もしかしたらこのコーヒーの中に何か入れられたかもしれない。鎌をかけてみることにした。

「今日俺腹くだしちゃってて、コーヒーよりかはお湯が望ましいんだけど…」

「そうっすか?顔色はそんなに悪く見えないんですけど」

後輩は少し眉をひそめた。

「そんなに先輩が言うんでしたら持ってきますよ」

「あぁ、すまんな」

あの表情は明らかにおかしい。しかしお湯を持ってきてくれるということは、このコーヒーには何も入っていないのか?いったい彼は何を考えている…

「これくらいで足ります?」

真剣に考えてたところをいきなり聞かれたので、驚きを隠しきれなかった。

「お、おう。ありがとな」

「先輩今日なんかおかしいっすよ」

「そ、そうか?まぁ久々に体調崩したものだから、体が慣れなくてな…」

「気をつけてくださいよ?」


無理のある苦笑いを返し、後輩が自分のデスクに戻るタイミングを見計らってコップの中を確認する。浮遊物、沈殿物、色...全て異常なしだった。しかしここで決定的な後輩のミスを見つけてしまった。それは俺がコーヒーを飲めないということだ!この情報を彼は知っているはずだ。だとするとやはりこのコーヒーが怪しくなってくる。「飲めなくてよかった...」

心の中でホッと一息つく。

何か入っていたとしても怪しくないコーヒーは、真冬に飲むには冷え切っていた。それを持って来た後輩ん心を映し出したみたいに感じた自分を叱った。一息つくために、そして後輩お信用するという意味で運ばれたお湯を一口で飲み干した。


〈第II主観〉

僕は見つけたんだ。ついに見つけたんだ!会社を散々転職して、少しは安定したこの会社での生活はすでに4年目にさしかかろうとしている。そんなタイミングでやっと突破口を見つけたんだ!先輩は数え切れない程僕の才能を褒めてきた。しかしその「才能」というのは一向に上司に認められない。そんな僕の才能を邪魔をしてたものを見つけたんだ。そう。先輩なんだ。色んな会議をともに参加してきたけど、どの会議でも結局先輩の案が採用される。偉い人はどいつも頭が硬い。斬新な発想が欠けてる現代社会に最適なのは僕の案だ。絶対にそうだ。なのに先輩の「無難な」案が採用される。腐ってる。全くもって腐ってる。こんな世界なんか一瞬にして消えればいいのに。しかし僕に世界を消す力はない。だから先輩を消す。そうすれば僕のアイディアに注目が集まる。

先輩はコーヒーを飲めない。だからわざと怪しい思いをさせて、後から出すお湯を飲ませる。昨日の宅配便の中身はあらかじめ注文しておいた毒薬だ。それでも息絶えないのであれば、一緒に届いた鉄のワイヤーで首を絞める。ワイヤーには鋭い刃が付いている。握力がなくても絶対殺せるようにしてある。絶対に殺してやる。感情に身を任せ、荒れ狂うような息遣いと血眼で、先輩のデスクに向かう。


「だって先輩の夢は僕の成功を見届けることでしょ?」


なぜか声が震えている自分がいる。思いがけない涙が会社のカーペットに落ちる。その雫の中にはどんな感情が詰まっているのだろう。


〈不完全第Ⅰ主観〉

意識が朦朧とする。なんだこの感覚は。全く苦しみを感じないが、それに伴ってその他の感覚も鈍くなっているのがわかる。やはり飲み物の中に何かを盛ったのだろうか。信じたくないし信じられない。

立っていられなくなり、思わず床に座り込んでしまった。どうせなら横になろう、そう思い、休憩室に向かおうとしたら後輩が手袋をつけた手で何かを持って部屋に駆け込んできたのが見えた。あれはなんなんだ?なぜあんなにも急いでるんだ?ますます後輩が近ずいてくる。

「先輩」

そう呼ぶ声がかすかに聞こえる。後輩は腕を首の後ろに回してくる。頭は腕によってきつく固定され、ほぼ身動きが取れない状態になった。

「なに…する気…だ」

声を出そうとすると喉が焼けるような痛みを感じる。

「先輩。先輩の夢…叶いますよ。僕の夢も」

後輩は狂気に満ちた眼で顔を覗き込んでくる。視界がどんどん暗くなっていく。後輩は何かをしゃべっているように見えるが、もう俺の耳は何の音も拾わない。


「こいつに殺される」


そう思った瞬間、目の前の全てが鮮やかに光った。いや、これは光なのか?あらゆる物の輪郭が何重にもなって、一層一層が違った彩を見せる。

瞼が重たくなって、目を閉じることにした。光が当たるとこでは、普通、瞼の裏は赤く映るが、そこには漆黒の世界だけが広がっていった。肉体が下に沈み、意識が上に昇るのを感じた。こうして人は死んでくのか。人生の終着点は上ではなく下にあったのか。落ちていく、無限に落ちていけそうな気分になる。首の苦しみは感じなくなり、今まで感じたことのない安らぎと落ち着きに浸る。こんなに気持ちいいものなのか。まるで癒しの沼だ。

さらに落ちていく。目の前にいる、すでに見えなくなったこいつによって創られた、宵闇しか無い世界に。


〈第Ⅱ主観〉

グサッ



予め用意していた刃付きの鉄ワイヤーで首の頚動脈のあるあたりを降り絞れる最大限の力で締めた。

「人が首絞められる時ってこんなにも目を見開くんだ」まさかこんな単純な言葉しか浮かばないとは思ってなかった。先輩の喉奥には血が溜まっていた。朱色なんかでは無い、どす黒い色だった。

「先輩みたいないい人でも、流れてる血はこんなに汚れているんだ」

外側は首元から渓流のように細く血が流れている。それが少しずつ乾燥していき、部屋中に錆びた鉄の匂いが充満する。カーペットに沁みた血は、すでに酸素と結合し、紅褐色から鳶色になっている。


先輩から見る世界はそこで止まった。時間も血流も、感情も思考も。僕は先輩を殺した。この手によって。


〈主観〉

夜道を急ぐ。春もとっくに過ぎ、また蒸し暑い季節に突入する。日本は海洋性気候であり、肝心の夏至の時期には梅雨により日射が遮られる。そのおかげか夜も蒸し暑いままである。ぱらつく雨に合わせ、うまい具合に傘の角度を調節しながら、大型の連絡歩道の上を小走りする。地面がタイルのため

仕事帰りの疲れと革靴の走りづらさが相まってこけそうになる。いくつもの黄色い街灯が過ぎ去っていく。連絡歩道にはあまり人がいなく、傘で前が見えなくてもぶつかる心配はない。前からハイヒールの音がする。一旦走るのをやめ、傘を少し上げて前方を確認する。やはり前から女性が歩いてきてた。

「あっ」


無意識に声が漏れる。


「あっ…」


向かいの女性も立ち止まり、 戸惑うように声を出す。目の前に立っていたのは元カノだった。少し微笑んで見せる。向こうも少し表情を和らげる。


「へぇ~じゃあ仕事の方は順調なんだ」

「まぁね。そっちこそどうよ?」

コーヒーを一口飲んでから、彼女は喋り出す。

「えぇ、順調よ」

何か違和感を感じた。彼女はもう一度コーヒーを口に運ぶ。その手には指輪がはめてあった。違和感はそれだった。

「結婚、したんだ…」

「そうよ、あれ言ってなかったかしら」

少し拳を握りしめる。

「会社の先輩とはうまくいってる?」

「あ、そのことなんだけど、君に会ったら開けようと思っていたものがあるんだ」

「私に?なんでよ」

彼女は少し嬉しそうに微笑んだ。

「いや、なんとなく勇気もらえそうだから」

「わかった。そのものって?」

鞄の中から茶封筒を探し出す。雨のせいで端が少し濡れている。

「後輩へ?これ私が読んでいいの?」

「わからない。だから一緒に読もうとお思って…」

しっかり糊付けされてたため、上の方を破いて開けた。中には三つ折りにされた紙と、もう一枚小さい紙があった。三つ折りにされた厚紙を取り出す。

「え?これって辞職願よね?しかもあなたの先輩のじゃん」

それは確かに先輩の辞職願だった。突然心拍数が上がる。

「その小さい方も見てみれば?何か書いてあるかもしれないよ」

「そうだね」

不安が淀めく。その小さい紙切れは、大きい紙を半分に折ったものだった。


いつも頑張ってる後輩へー


俺だ。お前の先輩だ。最近調子良くなさそうだなって思って、俺なりに色々考えてみたんだ。俺が前々からお前には才能があると言い続けてきた。それは絶対に違っていない。それでだ。なぜ会社はお前の素晴らしいアイディアを採用しないのかを追求したところ、どうやら俺の案がいつも通るかららしい。俺の案はくだらない。ありふれている。いわば参考書通りのものなんだ。それに対してお前のはどれも斬新で、俺には到底思いつかない。だから俺決めたんだ。俺、会社辞める。そうすればお前の案にも注目が行くし、俺だって気を遣わなくて済む。どうだ、いいだろ?このアイディアはな、もしお前が俺の立場だったらどうするかを考えたときに思いついたんだ。斬新だろ。まぁ、って事で、お前はこれから羽ばたく。絶対に成功するそんなお前に向けての最後の言葉が手紙になるのはちょっと残念だが、たまにはこんなのもありだろ?


ー先輩より

「先輩…」

嗚咽が止まらない。隣にいる彼女も少し落ち込んだ表情で僕を慰めてくれる。

「先輩、そういうのじゃないんっすよ…」

涙が頬を伝って机に滴る。目の前が悲しみの雫で満たされ、まるでピントボケした写真みたいに世界が丸み帯びる。叫びたくなる。自分の行なった全ての行動が憎くてたまらない。

「僕は…先輩を殺したんだ」

「えっ?!嘘でしょ?」

「本当さ。この手紙のこと知らなくて、先輩ん存在が邪魔で、君を失ったのが悲しくて…何もかもが、何もかもが…」

「そうやって他人のせいにするの?あなたは人を殺したのよ?!」

「そんなつも…」

「これがあなたの求めてた刺激なの?信じられない。あなたは十分愛されてたよ?何が足りなかったの?」

彼女も落ち着きを取り戻せなくて、様々な感情のぶつかり合いを抑え込もうとしている。

「そういうのじゃない。そういうのじゃあいんだ…!もうわかんないよ、僕にはもう何もわかんないよ!」

つり橋を吊るす糸が切れたように、感情が崩れ落ちていく。先輩は僕のために、僕は僕のために。様々な情景が行き交う。頭の中にあった光がどんどん思考によって埋め尽くされていき、何も思わなくなった。


その場では二人とも感傷的になり、自分の意見に自惚れた。それを打破するためにも、雨の降る夜の街に戻った。


「ねぇ」

「なによ、なんでそんなに落ち着いてるの?警察に通報するからね」

黄色い街灯の光に僕ら二人の姿が映し出される。

「僕が先輩を殺したのはもう半年くらい前の話だよ」

「え?会社側はなんで気づかないの?」

「さぁね。社長の命令に従わないとクビになるからでしょ」

「何言ってるの?あなた社長になったの?もしかして社長まで殺したの?」

「違うよ。僕がなったのさ。先輩がいなくなったおかげで、社長になれた。僕は先輩の夢を果たしたんだ」

「違うよ。あなたはあなた自身も、先輩の夢も台無しにしたのよ…あなたには、もう何も残っていないのよ」



「何も残っていない」

彼女はこの言葉を残し、あの日のように立ち去っていた。彼女の顔はよく見えなかった。というか見ようとしなかったのかもしれない。僕は彼女に対する興味なんてこれぽっちもなかったのかもしれない。何も残っていない。そうかもしれない。彼女の言うことはいつも正しかった。普通の暮らしをして何が不幸なのか?いい先輩と安定した収入があって何が不満なのか?僕はこれまでに何を頑張ったというのか?自問自答の繰り返しが続く。しかし、何度同じ質問を投げつけても、返ってくる答えは「無い」だ。

何事も自分を信じてきた。僕は僕の感覚を信じてきた。先輩もまた彼なりの感覚を信じて会社を辞めようとしたのだろう。感覚がずれてたのだ。彼女もまた自分なりの安定を望んで僕と別れた。ここでも感覚のずれが生じた。十字路交差点の信号が赤から青になる。荒野に放たれた家畜のように人々は一斉に渡る。傘と傘がぶつかり合い、水滴が飛び散る。水たまりの上を車が通過し、容赦なく水を浴びせる。地面の冷たいアスファルトに映る無数の箇所から出る光は、暖かいようで、冷たく感じる。通り過ぎていく人々の心もまた同様。投げやりな気持ちを放っていくわけにはいかなく、僕は交差点のど真ん中で傘を放り投げ、思いっきり叫んだ。

路上パフォーマーがQueenの「bohemian rhapsody」を大声で弾き語っている。

「ママ

たった今人を殺した

やつの頭に銃を突きつけ

引き金を引いたら死んでしまった

ママ、人生は今始まったばっかなんだ

なのに俺はもうだめにしてしまった

ママ

泣かせるつもりじゃなかったんだ

明日の今頃俺が戻らなくても

何事もなかったかのように、このままでいて」


〈主観〉

朝日が監獄の窓から差し込む。太陽は常にこの世界を自分色に染める。でもそれは決してずるく無い。むしろ皆はそれをありがたいと感謝する。蝉は今日もミンミンと鳴く。必死にこの世界にしがみついて生きてる。部屋には椎名林檎の「輪廻ハイライト」がかかっている。僕もまた、数秒前に目を開けた時から新しい一日を始めている。

今日も地球は自転する。その周りを月が回る。そんな地球は太陽の周りを回る。そんな太陽はいつかの先輩に思えてきた。


「先輩、空っていいっすよね。いつだって先輩に見守られてる気がするんっす。ずっと見ていられるっす。僕が言いたかったのは、そういうのっす」


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[良い点] 良い点はストーリー構成と言葉選びのセンスなど、物語と文章自体がとても良かったです。 最後はバッドエンドになってしまいましたが、ストーリーの構成はとても面白く、文体から非常にセンスを感じまし…
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