表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/21

9



「みんな、わたしのこと、ちぃちゃんって呼ぶけど、本当は千冬なんだよ。だからハル君とは仲良くできるよ」

「なんだよそれ、どういう理屈だよ」

「だって、春と冬は隣同士でしょ、仲良しでしょ」


 千冬はそう言って笑った。たぶん覚えていないだろう。浅はかな奴だなと思った。確かに、冬から春はすぐそこだけど、春から冬は一番遠い。一番遠いじゃないか。

 今更何を言ったって、言い訳になるんだろう。

 元々自分の性格が、あれこれはしゃぎまわる性分じゃなかった。物心ついたときには、一番年の近い兄は、高校生で、親にべたべた甘えることはなかったし、当然自分もそうあるべきだと思っていた。

 けれど、そこへ現れたのが千冬だった。何の屈託もなく、誰にでも笑顔で、みんなが千冬を抱き上げて可愛がった。

 なんだよそれと思った。

 だからって、千冬を嫌ったことなんて、一度もない。ただ、いつも母を取られるのじゃないかという懸念があっただけだ。

 千冬が母親を亡くしていて、それをうちの母に求めているのはわかったし、母が千冬を抱き上げるたびに、やっぱり女の子が欲しかったのだなと思った。別に、愛されていないとか大袈裟なことじゃない。自分でも、どうして欲しいかわからなくて、押し黙るしか出来なかった。

「ちぃちゃんが、春紀のお嫁さんになってくれたらいいわね」と言われたとき、千冬自身をどうこう思っていたわけじゃない。千冬が嫁になったら、本当に母を取られてしまう。だから、嫁なんかいらないと言ったし、必死に拒否しただけで、千冬が泣き出す意味がわからなかった。母に抱きしめられて慰められる千冬を見て、どうして自分だけ、こうもうまくいかないのか、悲しかった。

 だったらもう、一人でいた方が良かった。あるものがなくなるより、最初からない方がいい。得られないものを追うより、追わない方が楽だ。生活環境には、恵まれていたし、父や母と折り合いが悪かったわけでもない。だけど、千冬が近すぎた。千冬が来ると、みんなが千冬の方へ行く。それは、仕方がないから、もう放っておいてくれればよかった。だけど、千冬はいつもいつもオレの所へやって来た。


「ハル君、機嫌なおしなよ」


 どんなに嫌がらせをしても、近寄るなと言っても、強く扉を閉めていても、毎回やって来て言う。


「ハル君、出て来て一緒に遊ぼうよ」


 もうオレのことなんて放っておけばいいのに、オレが一緒に行かないと出て行かないと言う。輪から出ようとするたびに、同じように輪から出て来る。みんなが千冬を呼ぶから、こっちまで一緒に目立ってしまう。目立ちたくないから、戻るしかない。迷惑だけど、仕方がなかった。

 夏祭りの夜、浴衣姿の千冬を見たとき、嬉しそうな千冬の笑顔と、千冬の髪を結わえる母の優しい手の動きが、破滅的に遠く感じた。薄い氷の膜を心臓にすっと刺されたように、痛みのない冷たさが全身に広がっていく。


「二人で出かけなよ」


 そう言って、部屋に入った。怒っていたわけでも、悲しいわけでもなく、それが正しいと思った。千冬があんなに楽しそうにしているのだ、邪魔者はいない方がいい。部屋の前で、母が名前を呼ぶ声がした。無視し続けるとノックの音が止んだ。家中とても静かで、これで安心して一人になれると思った。でも、しばらくして、千冬はやって来た。いつになく強引に部屋に入ってきた。その行動と裏腹の泣きそうな顔に息を飲んだ。どうしてそんな顔になるのか。別に嫌がらせで言ったわけではない。本当に二人で行けばいいと思ったのだ。

 千冬は、母の所へ一緒に来るように言った。一生懸命に言って、左手を強く掴んだ。ふりほどくことは出来たけれど、離せなかった。母の元へ連れられて、千冬の斜め後ろから、繋がれた手を黙って見ていた。


「わたしより、ハル君が好きだよね?」


 千冬は言った。


「ハル君が、一番かわいいでしょう?」


 耳が熱い。聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。オレは、千冬のようにみんなに好かれているわけではないのだ。本当は、そっちの輪には入れないのだ。逃げたかったのに、千冬が強く手を握るので動けなかった。


「そうね、春紀が一番かわいい」


 母の両腕がゆっくり自分へ伸びてくる。いつも、隣で見ていた光景。こちらに向けられることがあるなんて考えていない。母にむせかえるほど抱きしめられて、押さえていた感情が溢れ出た。自分がこんなのだとは思っていなかった。ただ、抱きしめられたかっただけなんて。それでもう、全てが帳消しになるなんて。息苦しいほど泣きじゃくってしまった。なんでこんなにどうしようもないのか。みっともないのは嫌なのに、よりによって、千冬に見られてしまっているのか。母の肩越しの千冬は、苦笑いだった。呆れられている。もどかしくて、もうどこかに行ってほしかった。だけど、母が「ちぃちゃんごめんね。有難う」と言って、千冬ごと抱きしめなおすので、千冬の困ったような笑い顔が、一層近くなってしまった。




 おそらく高橋珠杏は稀有なタイプだろう。

 いきなり呼びつけられて「顔が好きなの、あたしと付き合って」だ。


「いや、無理」


 告白されて、ここまで無作法に断ったのは初めてだった。外見で判断されて嫌だったとか、特に言うつもりもない。単純に、好きじゃなかったからだ。理由をしつこく聞いてくるので、そのまま答えると「じゃあ、どうしたら好きになってくれるの?」という。

 そんなこと、泣きたいくらいこっちが知りたい。


「どうしたって、好きになんかならないよ」


 答えた自分に絶望した。どうしたって、好きになってくれないのだ。無理なものは、無理だ。 高橋は、はっきり断わっているのに諦めることなく、何度もやって来た。その不屈の精神には、敬服する。


「千賀まどかのことが、好きなんでしょう?」

「は?」


 この愚問は、もう他の人間にも、うんざりするくらい尋ねられている。絶対ないだろ。


「だって、千賀くんと千賀さん、お似合いだし、従姉弟同士は結婚できるのよ」


 面倒くさいから、そういうことにしておこうかと思うけれど、まどかに知れたら大惨事になるので、否定しなければならないのが、だるい。


「じゃあ、まさか渡さんとか?」


 まどかの次は、千冬。お決まりのパターンだ。まどかとは、お似合いで、千冬は、まさか。そんなに合わないっていうのか。無神経で、腹が立つ。だから女子は嫌なんだ。


「でも、渡さんは、自分はもう千賀君に振られてるから、関係ないって言ってたよ」

「別に、振ってない」


 やっぱり、千冬は、そう言うのか。もう、ずっとそう言い続けるつもりなのだろう。最初に、千冬がそれを言い出したとき、何のことだかわからなかった。母は、あの夏祭りの日以来、一層千冬を可愛がるようになっていった。家族もみんな、更に千冬に肩入れしだした。父や、兄が、「ちぃちゃん、春紀のところに、お嫁に来てくれないか?」と揶揄るようになった。だけど、もう不思議なくらい自分を否定する思いはなくなっていたし、千冬が自分の家族と仲良くするのを、好意的に見ていた。

 一方で、千冬は、そんな話題があがるたび、いつも明るく笑って返した。


「わたし、もう振られてますから。黒歴史を堀り起こさないでくださいよ!」


 オレが言った「嫁などいらない」というのを「振られたと振られた」と、何度も強調して笑うのだ。それが、どういう意味なのか。なんで、そんなに笑うのか、気づいたのは、後戻りできなくなってからだ。もう、手遅れなほど、千冬が好きだと気づいたときだった。中学に入って、生まれて初めて人に告白されたときだ。


「悪いけど、誰とも付き合う気はないから」

「誰ともって、本当に誰ともなの?」


 そうだと思った。誰とも付き合う気なんてない、千冬以外誰とも。あれっと思った。当たり前みたいにそう思っていた。朝の挨拶が、おはようであるのに等しいくらい、すんなり出て来た。いつからなんて、わからない。千冬を「千冬ちゃん」と呼ぶようになったときから、ずっとそうだったのかもしれない。だけど、どうすることも出来なかった。告白しようと思ったのに、言えなかった。


「だって、もう振られてるから」


 千冬が言っているのは、そういう意味だ。わたしはもう振られているから、ない。だから、もう、オレとはない。今更、好きだなんて、言わせるつもりがない。決してこちらに踏み込まず、ビジネスライクに付き合ってくださいと言っているのだ。オレのことは嫌いでも、母のことは好きだから、関係に亀裂を生じさせないでくれということだ。それでもまだ、傍にいられるだけ、ましだと思わざるをえなかった。




 高橋にしつこく絡まれるようになって、更に輪をかけて厄介だったのが、青葉武司の存在だ。蓼食う虫も好きずきで、青葉は高橋を好きだった。それを、オレに言われても知らんという話だが、とにかく協力してくれと言うのだ。

「高橋は、オレの顔が好きなのだから、どうしようもなくないか?」と言うと、青葉は相当むっとしていた。まぁ、青葉と高橋が付き合えば、こっちに関わって来なくなるはずだ。面倒でない範囲で協力してやることにした。

 しかし、オレが思うより早い段階で、二人はうまくいった。(というかうまくいくとは思っていなかった)高橋は、いわゆる肉食女子で、告白してもされることがなかった。そこに、青葉の熱烈なアプローチがあり、きゅんときたらしい。なんでもいいが、これで平穏な日々が戻るので、喜ばしかった。だが、想定外に、その後も、青葉は、依然としてオレに付き纏った。彼女も大事だけど、友情も大事とか、わけのわからない理由だ。

「別に友達じゃないだろ」というと「ツンデレだな」と気味悪い反応を返すので、もう諦めた。

 クラスも違うのに、当たり前みたいに連むようになった。




 毎年バレンタインデーは、自分を呪いたくなる。

 本命に義理チョコを貰いつづけている。

 決まって手作りのチョコチップクッキーだ。初めて、貰ったのが、小学四年の時だった。パティシエが主人公のアニメの影響とかで、女子の間でお菓子作りが流行っていた。千冬は、多分その流れで、なんとなくくれたのだろうけど、父が異常に喜んで、以来渡さざるを得なくなった感がある。

 あの頃のことは、思い出すのも憚られる。

「パティシエと結婚して、毎日ケーキを作ってもらうのが夢だ」という千冬に「ケーキくらい、普通に買えばいいだろう」と突っかかったりしていた。「ハル君に関係ないでしょう」と言われたことに、苛々して押し黙って、全く悪くない千冬に謝らせたことがあった。とにかくいちいち絡んでは、突き放されて、不機嫌になり、挙句、千冬に機嫌をとらせるという悪循環を繰り返していた。焼きもちなのに、自覚がないから、怒りの原因を作る千冬に問題があると思い込んでいた。

 中学に入学して、好きだと気づいてからは、恥ずかしさと、どうしようもないのとで、無関心を装うしかなかった。千冬は、こっちを嫌っていたから、こちらから、鬱陶しいちょっかいを出さなくなると、驚くほど接点が無くなっていった。厳しい現実を、まざまざと突きつけられた。

 中学三年のバレンタインデーは、とりわけ最悪だった。朝から千冬に牽制されて、鬱々していた。学校に着くと、青葉と高橋がやって来て、更に気分を滅入らせることばかり言った。


「千賀君は、今日のバレンタインは相当期待できるよ。あたしの知る限り三人は告白しようとしている」

「おぉ、よかったじゃん、春紀! 彼女出来るかもよ」

「いや、いらんし」

「そうか、だよな。いくらモテたって、本命に好かれないとな」


 こいつ、触れられたくない部分にぐいぐい来る。


「大丈夫。あたし、渡さんは千賀君のこと好きだと思う」


 高橋が急に千冬の名前を出すので、ぎょっとした。千冬を好きだと言った覚えはない。千冬がオレを好きなわけもないだろう。


「たぶん、一度振られたことがトラウマになって、好きって言えないだけなのよ」


 振られてないのだ。トラウマもない。


「小学校の話なんだろ。お前、あれか、好きな子は虐めたい的な。しょうもないことするから」


 青葉は、特に黙れと思う。


「あのさ、何を根拠にそういうこと言うわけ?」


 絶対、女の勘とか言うのだろう。もうこれ以上嫌われたくないのだ。放っておいてもらいたい。


「だって、渡さん、千賀君と仲を取り持ってて言われたら、絶対断るじゃない」


 思いがけず高橋が‘根拠’を淡々と続ける。


「千賀君のことリサーチする女子が、いろいろ聞いても、知らない、わからないだもの。千賀まどかは、なんでもほいほい答えてくれるのに。大体、協力しないのが、変。実際何もしてくれなくても、応援するって言っておけば、よくない?」

「そうだよな。頼む方も必死なんだし」


 それは、オレが、前に千冬から告白の橋渡しをされて、めちゃくちゃ怒りまくったせいだ。そんなところでも気を遣わせているとは知らなかった。最悪だ。


「そんなに、単純な話じゃないんだよ」

「単純な話だと思うけど」


 高橋が、いつになく静かに言った。


「千賀君って、女心がわかってないわね」


「そりゃ、春紀にそれを求めるのは無理だろ」


 青葉がげらげら笑う。お前には言われたくない。高橋は、本来の調子に戻ってまくしたてた。


「とにかく、恋愛の傷は恋愛でしか癒えないんだから、千賀君は渡さんのトラウマを治す義務があるの! 放課後ちょっと、待っていなさいよ。渡さんを助けてあげなさいよ!」


 それだけと言うと、こちらに構うことなく行ってしまった。


「お前の彼女って、ちょっとやばくないか?」

「いい子だと思うよ」


 青葉は本気で言っているようだった。




 千冬が、公立の高校に編入すると知ったのは、中三の夏だった。昔から、うちの校風に馴染めないことをちらほら言っていたけど、ショックだった。同時に、母がいれば千冬がどこへも行かないと、勝手な思い込みをしていたことに、愕然とした。子は親離れするし、まして実の親でもない母に、千冬がいつまでも固執するはずがない。やがては、失われる脆い関係なのだと思い知った。それでも、千冬が家へ遊びに来るたび、まだ大丈夫と、心の均衡を保つしかなかった。

 離れてしまう前に、中学を卒業する前に、どうにかしなければという懸念はずっとあった。だから、高橋が無茶苦茶なことを言いだしたのにも、敢えて静止をしなかった。

 しかし、放課後になって、すでに後悔していた。教室で、千冬を待っていたけれど、来ない方がいいと思っていた。どう考えても、なんて言っていいか、わからなかった。今すぐどうこうする問題じゃないのではないか。高校へ進学してから、会えなくなってから、行動すればいい。今の状況は、何もない代わりに、落ち着いている。毎日当たり前に会えるのだから、そこへ波風たてる必要はない。もう、駐車場へ行って、何もなく帰ればいいのじゃないか。先に車に乗っていれば、そのうち千冬も来るだろう。そうしようと決めた矢先に、千冬が教室に入ってきて、高橋のことを聞いてきた。困惑していたし、迷惑そうだった。

 高橋について「わたしは、ひどい振られ方をされたなんて言っていない」と潔白を証明すると、今日は遅くなるから、先に帰るように告げられた。

 いつも寄り道なんてしないのに、急にどうしたというのだ。バレンタインデーだから? 誰かに、告白でもするつもりなのか。そんなこと予想もしていなかった。待ってくれよ。冗談じゃない。


「いい加減、被害者面するの止めたら?」

「何?」

「やり方が、卑怯だって言ってんの。まるでオレが振ったから付き合わないみたいに、勝手に言いふらして、しつこくないか? オレを悪者にして、いつまでも牽制するの止めろよ」

「何にも言いふらしてないし、第一、わたしの方が、振られたって言っているんだから、よくない?」


 よくない。告白もできずに、振られているのは、こっちなんだ。それなのに、自分はこれから誰かに告白するつもりなのか、そんなの駄目だ。行かせたくない。


「ほら、それ。振られた、振られたって、それでオレが何にも言えなくなると思ってるだろ。本気で、腹立つわ」


 また千冬に理不尽に当たっている。嫌われないように、気をつけてきたつもりが、成長できていない。諦めることも、感情を抑えることも、慣れていたつもりが、いつもそれをこじ開けてくるのが、千冬だった。だから、千冬はその気持ちを受け入れるべきだと思っている。一人でいるなというなら、ちゃんと傍にいてくれないと困る。今更、酷いと思ってしまう。出来ないことは、最初からするな、見捨てるなんて、許せない。


「わかったよ。もう言わないようにする。あのことは、なかったことにするからさ。友達が待ってるから、行くよ」

「待ってよ」


 どこに行くのだ。何する気だよ。まだ、駄目だ。全然何もできていない。スタートラインにも立たせてもらえていない。なかったことにするって、どういう意味だ。そんなに簡単に撤回できるようなことだったのか。牽制しているわけじゃないなかったのか。まさか、本当に振られたと思っているのか。


「だから、もう言わないって」


 千冬は、掴んでいた手をふりほどいて、終わりにしたいような、面倒くさい声で言った。それはない。手を握ってきたのはそっちだ。引っ張り出したのはそっちのくせに、そんなのは、認められない。


「なかったことにするなら、付き合ってよ。今から千冬ちゃんは、オレの彼女だから」


 自分で言ったのに、人の言葉みたいに耳に届いた。今、何を言ったのか、聞き返したかった。逆上した頭から、血の気が一気に下がるのがわかった。気持ちが身体にこうも連動するのか、倒れそうだった。千冬と正面から目が合っている。沈黙を破るのはいつも千冬なのに、何も言わない。言ってくれない。冗談だ、嘘だと言われるのを待っているのだろうか。でも、言いたくない。否定したくない。


「冗談じゃないよ。別に損はないだろ」


 嫌がることは何もしない、無関心のままでいい、誰にも何も言わないし、今まで通り母に会えるのだから、損はない。千冬は、黙ったままだった。


「じゃあ、そういうことで」


 これ以上、その場に留まっていることが出来なかった。逃げたところでしかたないのに、返事を待てるほど、余裕がなかった。廊下に出ると、駐車場までとにかく走った。千冬に追ってこられて、拒否されたら、自分がどうなってしまうか恐怖だった。渡さんの前で、千冬が何か言うことはないはずだ。


「遅くなってすみません」

「走って来たの? みんな若いなぁ。千冬は、女子会だって、バレンタインなのに色気ないだろ」


 渡さんが笑って言った。酸欠の頭で、女子会か、なんだ、そうか、よかった、と馬鹿みたいに思っていた。




 その日の夜は一睡もできなかった。千冬が沈黙だった意味を考えていた。すぐに拒否しなかったことの中に何があったのか。冷静になってみればわかる、ただ断れなかったのだ。周囲のこととか、立場とか、たぶんそういったことを考えて。今まで散々、告白されないように牽制し続けてきたのに、あんなタイミングで突然告げられるとは、思っていない。ルール違反をした。追い詰めてしまった。誰かに取られると思ったら抑えられなかった。子供の頃の方が、潔かった。こんな風に、縋るようなことはしなかった。手に入らないものは、もとから追わないつもりでいたのに、千冬は自分から近づいてくるから、油断していた。そっちから来たのだから、ずっといて当然なのだと思っていた。嫌われることしかしてこなかったくせに、勝手な理屈だ。嫌いな相手の彼女になるなんて、損しかないじゃないか。恥ずかしかった。明日、千冬はきっと断ってくるだろう。もう、家にも来ないだろう。母にも、会えなくさせてしまう。

 なかったことにしよう。

 無茶苦茶だけど、それ以外ない。

 告白はなかったことにする。平静を装って、無関心で、いつも通り。今まで以上に、徹底的に、無視して、偶然にでも、二人になることを避けまくった。結果、望んだ通り何もない、以前通りの関係が戻った。




 環境が変われば、関係性が浮き彫りになる。高校へ入学して、ゴールデンウィークに一度、まどかと顔みせたきり(オレは外出していて会えなかったが)千冬は家へ訪れなくなった。毎年参加していたバーベキュー大会にも来ないという。通学の送迎車の中で、それとなく渡さんに聞いてみると、高校で体育祭の役員になって、忙しく活動しているらしい。新しい場所で、新しい生活を滞りなく送っているのだ。

 千冬は、本当は、オレから逃げる為に学校を変えたのではないか。面倒くさいヤツから逃れられてせいせいしているのかもしれない。


「そんなに好きなら、会いに行けばいいじゃないか。家近くなんだろ。見るに耐えんわ」


 青葉が、呆れ果てて言う。 バレンタインデーの後、青葉と高橋にあれこれ聞かれ「振られた」と自分でも引くくらい落ち込んで告げた。以来、何も言ってこないし、余計なお節介をされることはなかった。しかし、高一で青葉と同じクラスになると、合コンを開いてやるとか、珠杏に誰かを紹介してもらうかとか、色々面倒くさいことを言ってくるようになった。恋愛の傷は恋愛でしか埋められないという所論を高橋に植え付けられたらしい。


「千冬以外は、ない」


 気持ちを隠さなくていいというのは、楽だ。今まで誰にも言えずにいたことを、打ち明けることで、片寄った感情に風穴が通っていく。毎日ゆらゆら揺れる複雑な思いも、口にしてしまえば、単純で、好きで諦めきれない。それだけのことだ。

 高橋は(意味がわからんが)「萌える」と大喜びした。協力してやるとあらぬ方向へ助長させてしまった。


「一度振られたくらいが何だ」

「何と言って振られたのだ」


 二人が交互に例の件に言及してくる。彼女になるように言ったら、返事がなかった。あの時の、千冬の呆れた顔が脳裏に浮かぶ。辛い。


「え? 何それ、振られてないよね。それ、むしろ告白しておいて放置プレイだよね。ありえない」


 高橋は、信じられないと繰り返した。


「答えも聞いてないのに、なんで無理矢理振られたことにすんの?」


 青葉は、意味がわからんと珍しいものを見るように言った。オッケイならそう答えるだろう。無言はノーだ。青葉や高橋にはわからない。


「千賀君って、本当に女心がわかってない」


 高橋が、全てに終止符をつけて片付け終えたようなため息をついた。女心も男心も大して違いなんかないだろう。青葉に目をやると肩をすくめた。


「とにかくさ、会いに行けよ。ここでうじうじしていても、どうにもならんだろう」


 青葉が青葉らしくなく、まともなことを言う。わかっている。それくらい簡単な答えなのだ。




 駅の駐輪場で、千冬を見かけたとき、見慣れない制服姿に胸が痛んだ。遠いなと思った。好きだと思った。淀みなく、正確に、それが、正義であるかのように、いつだってその場所は明るい。

 なにを言ったかも、真っ白で思い出せない。ただ、案外普通に話せたことに、安堵していた。

 それから、二週間に一度、必ず会いに行った。恋人なら一週間に一度は会うのが普通という高橋説に、彼氏ではない自分を当てはめた結果だ。

 当初、千冬は相当怪訝そうにしていたが、元来優しい性格で、人を無碍に出来ないから、面と向かって拒絶できなかったのだろう。そのうち、理由も聞いてこなくなった。

 そんな生活が続いて、夏休みに入った。千冬が家に遊びに来ることがあり、うまい具合に二週間の間隔で会えていたけれど、八月の終わりに途切れそうになった。一度切れると全て済し崩しになる。今度途切れたら、本当に終わるだろう。形振り構わず、千冬の家まで訪ねて行くと、流石に引いたらしい。


「もう分かった。会う日を決めよう」


 以来、毎月第三日曜日にカレーを食べに行くことになった。会える回数は、減ってしまったが、多分後退はしていない。前に進めているのかは、わからないけれど。




 千冬と一ヶ月に一度会えるようになって、ほっとしていたけれど、青葉と高橋に煽られまくっていた。告白の返事をもらえたのか、はっきりさせろと言うのだ。そんな半年以上も前のことを今更蒸し返したくないし、友達として会えるだけでも充分じゃないかと思っていた。


「そんな悠長なこと言って、他の男に取られたらどうするの。もう学校も違うんだから、いつどうなるかわからないわよ。まぁ、渡さんは、モテるタイプじゃないけど」


 浮いた噂がないのは、本人が恋愛に興味がないせいだ。中学の頃、まどかに彼氏ができたときも(なんだったのかというくらいすぐに別れたが)よかったねという感じで、誰かを好きな様子も、好きになりたい様子もなかった。


「告白されたら、好きになっちゃう場合もあるんだからね」

「渡さんって、押しに弱いタイプっぽいし、危ないぞ」


 高橋と青葉が、不安を駆り立てるようなことばかり言う。自分たちの場合の話じゃないか。千冬は確かに人の意見を尊重する性質だ。でも、それとこれとは違うだろう。突然、得体のしれない男に告白されて付き合うとか、そんなに、彼氏を欲しがっている感じはない。


「本当に、急にくるよ。ある日突然好きになるよ」


 高橋が、しつこく言う。自分と千冬を一緒にするのは止めてもらいたい。

 だけど、千冬に好きな男ができたら、どの道終わりだ。好きな男がいるのに、他の男と二人で会ったりしない。絶対に断わってくる。この先ずっと好きな男ができない可能性がどれほどあるか、考えただけ無駄すぎて笑える。好きな人ができるまででいいから、彼女になってくれるように頼み込んだら、彼女になってくれるだろうか。形式だけ、名目だけと強調すれば、どうにかならないか。もし、そうなれば、千冬は真面目で、道徳的だから、積極的に他に好きな男を作ろうとはしないだろうな、と思う。好きな男ができるのを、先延ばしにできるかもしれない。名目上でも彼氏がいるのに、他に好きな男ができるなら、よっぽどだ。よっぽど好きな男だろう。そんなに好きな男ができたなら、もうちゃんと諦める。別れを告げられる前に、今度こそ、盛大に振ってやろう。

「もう、面倒くさいから彼女はいいよ」って、ちゃんと言う。そしたら、母や父や誰にでも「またハル君に振られたから、優しい彼氏を作ったの」と、何度も笑えばいいと思う。だから、それまでの間だけ、彼女になってほしい。




 なぜ千冬がそんなにカレーに拘るのか、わからない。カレーが好きだなんて聞いたことがなかった。大の甘党で、三度の食事よりケーキがいいはずだ。新しい物好きで、ブームには乗るけど、すぐに飽きるから、継続している趣味はない。カレーブームがきて、カレーがいいと言っている感じもない。

 オレに気を遣っているのだろうか。昔から、なんでも人に合せるところがあった。大体、人の意見には逆らわないし、あっちへ行こうと言われたら、いいよという。こっちが先に何かを言うと、それに決まってしまうから、先に何がいいか聞くようにしているけれど、遠慮して言わない。まどかや、他の人間がいう意見になってしまう。千冬のしたいことをすればいいのに、なんで他に譲るのか。

 しかし、このカレーに関してだけは、店まで指定してきた。

 恐ろしく閑古鳥が鳴きまくっている辺鄙な店だ。なんでこの店なのか理由を聞いても言わないのが気になるけれど、千冬がいいなら、別に深く追求する必要もない。

 流行っていない店のわりに、カレーの種類は豊富だ。しかし、千冬はいつも決まって豆カレーを頼む。飽き性だけれど、食べ物に関してだけは、一度好きになったら、同じものを好んで食べる傾向にある。

 インドのデリーが本店らしい。ライスに干しブドウを三粒載せてくるのは、どういう意味があるのだろう。あってもなくても味は変わらないし、その分コストを減らしたらどうかと思う。

 千冬は、干しブドウが嫌いらしく、いつも丁寧にお皿の端へよけて、その都度、誰に言うでもなく「申し訳ないけど、干しブドウは、よけるね」という。

「気になるなら、代わりに食べるけど」と言おうか迷って、気持ち悪く思われるかもしれないから、止めた。

 毎回同じものを頼むのに、注文が運ばれてくるたびに、いつも初めて食べるように「わーっ」というのが、かわいい。千冬は、昔から、とにかく食べるのが遅かった。しゃべりまくっているわけでもないけれど、何故かいつも最後になる。うちの家族は男ばかりのせいか、みんな食事のスピードが速いので、千冬がいるときは、合わせてゆっくり食べるようにしているけれど、どうやっても先に食べ終わってしまう。

 千冬に彼女になってと、どう告げればいいか、難しかった。自分の口下手なのはわかっているけれど、それとは別の問題がある。彼女になってと言って、理由を聞かれたときに、答えられないからだ。

 好きだと言えば確実に断られる。

 フェアじゃないから、駄目らしい。いつだったか、渡さんに再婚の話が持ち上がったときに言っていた。

「みんなが好きな人と結婚できるわけじゃない」と言うと、なるほどと納得した後「でも自分は好きな人と結婚したい」という答えが返った。それもショックだったけれど、更に落ち込んだのが、一番ありえないのは、片方だけが好きなパターンだと言われたことだ。

「こっちは好きなのに、向こうは家事して欲しいとか、お金目当てとか、最悪だよ」


「好きな方も、好きな人と結婚できるメリットあるから、採算合うんじゃない?」

「この人、わたしのこと好きだから、これでチャラねって思うの? 人としてどうなのそれ、無理でしょ」


 じゃあ、好きだなんて言えないじゃないか。オレと付き合えば、大好きな母にいつでも会いに来れるから損はないだろと言ったところで、こちらのメリットを聞かれたら、どう答えればいいのか。こっちにも利害はある、とくにかくあるのだ、と言い切る他に思いつかない。

 ただ、好きで会いたいだけなのに、どうしてこんなに、理由ばかり考えなければならないのか、好かれていないというのは、相当にきつい。


「渡さんに、なんて言って出て来てるの?」


 千冬がどういう認識で、ここへ来ているのか知りたかった。


「友達と出掛けて来るって言ってるけど」


 オレの名前は出していないだろうなと思ってはいたけれど、やはり嫌なのだろう。外堀を埋められて、ずるずる追い込まれて抜け出せなくなることと、それで拒否をしたら、母に会いに来にくくなることを懸念しているのだろう。


「友達じゃあ、困るんだけど」

「困る? 何に?」


 ぐうの音も出ない。オレが困ろうが、千冬には関係ないのだ。


「彼女になってって言ったのに」


 まるで、子供だ。だから、なんなんだ。彼女になってとは言ったけれど、なってあげるとは言われていない。


「文化祭のこと、まどかに聞いたよ。ややこしいのは困るのだけど」


 千冬は少し考えて、冷めた感じで答えた。なぜそこで、文化祭の話がでるのかが、わからなかった。今、関係ないだろう。思い当たることといえば、後夜祭で公開告白があって、青葉が勝手に、オレには好きな人がいると答えたことくらいだ。もう帰宅した後だったから、翌日知って、卒倒しそうになった。そんなこと千冬の耳にはいったら、取り返しがつかない。まどかは、オレが千冬を好きなことは伏せておくと言っていたけれど、何を言ったのだ。


「別にいいよ、ふりぐらいしても。別に他に好きな人がいるわけじゃないから」

「ふりじゃ、困る。彼女になってよ」


 ふりじゃ、他にすぐに好きな男ができてしまう。その辺のちょっといいなと思う程度の男じゃ納得できない。本当に好きな男でないと、我慢できない。


「千冬ちゃんに、好きな人ができたら、ちゃんと振るから」


 千冬の顔が、全く見られなかった。自分の勝手な欲求をぶつけているのはわかっている。テーブルの上のコップに視線を落とす。沈黙が痛い。


「別に今まで通りいてくれたらいい、今まで何も嫌なことなかっただろ」


 こんな無茶苦茶、まかり通るわけがない。でも、どうしても好きなんだ。告白しないし、迷惑かけないし、邪魔する気もない。ただ、できるだけ長く、このままでいられるようにしたい。


「まぁ、いいけど」


 千冬は、たぶん呆れて答えた。

 オレの気持ちを知って、知らないふりをして、付き合ってくれているのだろうか。それとも、オレのことなんて、興味がないから、とりあえず、迷惑かからないうちは、引き受けてくれたのだろうか。

 黙ったまま、頷くだけしかできなかった。

「別に他に好きな人がいるわけじゃないから」といった千冬の言葉がリフレインしている。それは、一体、いつまでだろう。











評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ