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一度だけ、父に再婚話が持ち上がったことがある。中学一年の秋口だった。
お互いに二度目の結婚で、双方に子供がいた。子連れの場合のお見合いとはそういうものなのか、いきなり四人で会うことになった。
相手の女性は、保険の外交員をしていて、いかにも営業職といったきびきびした女性。子供は五歳の女の子で、これが最悪だった。
初対面で、すぐに父に懐き、手を繋いだり、肩車をしてもらったり、やたらと甘えまくるくせに、わたしが、自分の母親と仲良くすると、邪魔をしにくる。自分が真ん中で、母親と父に手を繋いで歩かせ、わたしをあからさまに邪険にした。
露骨過ぎて、みんな苦笑いだった。この見合いが上手くいかないことを、その子以外が悟っていた。
しかし、わたしもかなり痛い。その場だけでも、その子の好きにさせてあげればいいのに、十二歳が五歳に本気で嫉妬し、父に「父さん、父さん」と終始、わざとらしく呼びかけて、その子が負けじと「パパ」と呼んだ瞬間「あなたの、パパじゃないから、わたしのパパだから、ごめんね」とばっさり切り捨ててやったのだ。
赤い顔で、泣きそうになっていたけれど、そんなことは知らない。 家に帰って、父は笑いまくった。相手の母親は、多分どん引きしていたと思う。
結果、お互い紹介者に、断りの電話を入れていたようだ。
「父さん、またお見合いするの?」
「いやぁ、一回してみたかっただけ。面白いもの見れたから、もういいよ」
父は、にやにやしながら言った。
「見合いのことでなんか落ち込んでるの?」
春紀が、参考書の問題を解きながら言った。中間試験が近い。 父の車が、下校時に定位置に止まっていないということが、稀にある。前の仕事が押していたり、交通渋滞だったり。わたしも、春紀も携帯を持っていないので、公衆電話から、父に連絡する。後一〇分で着くというので、駐車場のベンチに座る春紀に伝えた。
「ごめん。後一〇分かかるって」
「別に、そっちが謝ることじゃないし。座れば?」
秋空の下、春紀と並んでベンチに座る。送迎車が、どんどん流れ出て行く。
放課後の学校は、なんとなく寂しい。学生生活と私生活の間の時間。教室での見慣れた顔が、外の世界での見知らぬ顔を覗かせるからだと思う。
お見合い相手は、会社絡みの人だったから、春紀の耳にも入っていたらしい。見合いのことというより、大人げない態度をとった自分に、今更ながら反省していた。春紀も、わたしが陽子さんに甘えた時、あんな思いをしていたのかな、と急に思った。わたしは、中学生でこうなのに、かつての春紀は、実はかなり忍耐強かったんじゃないか。自分が陽子さんに甘えられないことに拗ねてはいたけれど、わたしに陽子さんと仲良くするなとは言わなかった。わたしはあの頃の春紀以下の精神年齢なのかもしれない。
「五歳の子供のトラウマになったらどうしよう?」なんて聞けるはずがない。代わりに別の疑問を尋ねた。
「落ち込んでるっていうか、なんで、お見合いしたのかなと思って。もう、わたしそんな子供じゃないし、今更、母親作ってやろうとか、ないでしょ」
「逆じゃないの? 子供が手を離れたから、自分のことを考えて、将来、娘が嫁いで、男やもめにならないためにとかじゃないの?」
冷静な見解だ。わたしは、父が父親であることが当たり前すぎて、父の人生をわたし基準で考えていたから、その発想がなかった。やはりわたしは、お子さまだ。
「でもさ、それだったら、何もお見合いなんかしなくたって、好きな人でも見つければよくない?」
「別に、誰もが好きな人と結婚できるわけじゃないだろ。老後のためなら、家族とうまくやってくれて、共同生活するのに不快じゃない程度の関係っていう利害が一致すればいいんだから、見合いの方が効率的」
春紀はシビアだ。女嫌いだし、当然そういう考えになる気はする。別に父が老後を考えてお見合いをしたとは決まっていないのだけど。
「なるほど。でも、まぁ、できれば、好きな人と結婚できる側に行きたいけどね」
ベンチに座って前を向いていたので、父の車が、門から入ってくるのが見えた。立ち上がって、手を振ると振り返してきた。まさか、自分の老後の話を語られているとは夢にも思うまい。
「来たみたい。行こう」
振り向くと春紀は、参考書の問題に顔をしかめていた。帰ってやればいいのに、きりのいいところまで、終わらせたかったようだ。
家に着いて、夕食の支度をする父の姿を見ながら、男やもめになったとしても何も困らなそうだけど、と思った。しかし、わたしに無関心な春紀ですら、わたしがへこんでいることに気づいたのだ。父が心配して、何も聞けずにいるのかもと、件の見合いの話を振ってみたけど、全く気にしていなかった。
案外、薄情だ。 食卓に並べられた筑前煮に箸をつける。辛い。良く言えば、ご飯に合う味。
「父さんの料理って、こんなに一生懸命作ってるのに、なんであんまり美味しくないんだろうね。まずいわけじゃないんだけど」
もう一〇年来作り続けているのに、からっきし腕があがらないのだ。
「お前ね、そんなこと普通に、しみじみ言うかね。言っとくけどな、母さんが生きてたら、もっと悲惨だったからな」
「まじで? ありえる? そんなこと」
「ごめんな。千冬は、サラブレッドで」
「うわっ、因果応報きた」
料理の腕が遺伝性なんて、聞いたことがない。
「でも、母さんの料理、なんか癖になる味で、好きだったけどね」
父は、筍を頬張りながら「いや、うまいだろ、うまいよ」とぶつぶつ続けている。
「じゃあ、父さんの再婚の条件には、料理が上手なことは、入ってないんだね」
何の気なしに言うと、
「いや、駄目だろ。むしろ上位ランキングだろ」
と返ってきた。
「えー何それ、母さんは良くて、他の人は駄目とか、えこひいきじゃん」
「恋愛は、えこひいきなのだよ」
「何言ってんの、このおじさん」
わたしが、若干引き気味に言うと、父は面白がって、絶好調に続けた。
「いいか、他の人は受け入れられなくとも、自分だけが好きになれる部分があるというのが、恋なのだよ。恋は盲目なのだよ。千冬にも、いずれわかるだろう」
わたしは、ノーマルなので、料理は絶対美味しい方がいい。椎茸をつまんで、口に入れる。この味に慣れすぎているので、多分、美味いのハードルは相当低いのだろうけれど。
どん引きしたはずの父が茶化して言った台詞は、なんとなくずっと頭に残った。ちょっと、いいなという男の子を見ると、自分だけが気づくその人のいい部分というのを探すようになった、それが見つかれば、多分本当の好きなのだ。
それに当てはまる男の子が一人いた。当時、わたしは図書委員をしていて、同じ委員の一個上の先輩だった。眼鏡をかけていて、ひょろっとしていて、大人しい。所謂モテるタイプではなかったけど、真面目で、物凄く丁寧に文字を書く。漢字は大きく、ひらがなは小さめというのを律儀に守って、跳ねるところは跳ねて、止めるところはちゃんと止める、決してうまくはないのだけれど、まるでその性格を表したような、かくかくと四角い文字をしていた。
それが、わたしの気づいた彼のいい部分だった。
決定的に好きになったのは、放課後、図書室で貸し出し当番をしていた時だ。
「先生が、旧館の資料室に来るように言ってるから、行って」
と言われたことがあった。一年生で、初めての図書委員だったわたしは、その旧館の資料室の場所を知らなかった。
「場所どこですか?」
「一緒に行くよ。説明するよりその方が早い」
先輩は、真面目な顔で、淡々と答えた。別にわたしに好意があるわけじゃなく、事実、資料室が入り組んだ場所にあるから、連れて行ってくれたのだけど、有頂天になるくらい嬉しかった。
これはもう恋だろうと思った。しかしこの、地味なわたしの、地味な先輩への、単純な恋は、あっという間に幕を閉じた。
昼休みの当番で、図書室のカウンターに座っているわたしに、まどかが声をかけてきた。(まどかは、本の虫なのでしょっちゅう図書室にくる)丁度、貸出ノートを書いている途中で、隣のページに先輩の律儀な文字が記載されていた。
「ねぇ、この文字いいと思わない?」
「文字? へぇ、なんか独特な字だね。わたしこういう字好きだよ」
まどかは、特に興味があるわけでもなく、さらっと流すように言った。
あれっと思ったのはその時で、わたしが密かにいいなと思っていた特別な思いは、誰もが簡単に好きだといえるような部分なのだなと、急激に冷めてしまった。
あと一個しかないと思って取ったバイキングのケーキを、その後多量に補充されたような残念感だった。別に取ったケーキが美味しくなくなるわけじゃないのだけれど、後に出された方を取りたかった気になるみたいな。これじゃなかったとしんみり思った。
あれが初恋だったと言うのは微妙だけれど、顔以外で誰かを好きになったというのは、あの時だけだ。
みんなどういうところを見て、人を好きになったりするのか、わからない。
顔から入って、中身も好きになってというのが、一番王道な気がする。
春紀のことは、顔は好きだけど、中身がああなので、その王道には該当しない。大体、苛められまくって、あんなに嫌っていたのに、格好良くなったから、急に好きとか、ミーハー過ぎる。
わたしは、あまり人を好きにならないタイプなのだろう。恋愛ドラマや映画は好きなのだけど、自分のこととなると温度が低くなる気がする。
春紀は、わたしよりはるかにもっと冷めているのだろうと思う。 春紀がわたしに付きまとうことについて、考えられるのは、一つ。春紀は多分、わたしを好きだ。でなければ、その行動に辻褄が合わないし、他の仮説は全く思いつかない。
最も、能動的でなく、排他的にという意味での「好き」だ。他の女子は嫌いで、わたしのことは普通なのだ。最初に、彼女になってと無茶苦茶なことを言った時も、それだろうなと大体わかった。
あの日の朝は、丁度、社長さんと春紀と陽子さんが居合わせた。毎度の感じでクッキーを渡すと「春紀は、ちぃちゃんにしかバレンタインを、貰えないのか。彼女はできないのか」と社長さんが言いだした。
「ちぃちゃんに貰えたら充分よね。ちぃちゃんが彼女になってくれたら言うことないんだけど」
陽子さんが笑って言った。他愛もない冗談だ。
「わたし昔一回玉砕してるから、無理無理」
こういう話になると、笑ってそう流すのがお決まりだった。いわゆる社交辞令の一環だ。
だけど、お坊ちゃんで空気を読まない春紀は、この繰り返される会話があまり好きではないらしく「お前がクッキーなんかよこすから、朝からうっとおしい会話に付き合わされる」と、さも言いたげに睨んできていた。感じが悪い。
社長さんも、社長さんで、春紀なんてどうみたって彼女が欲しいタイプじゃないのに、しきりに彼女を作れみたいなことを言うのは、いただけない。せめて、家族だけの時にしてもらわないと、わたしが対応に困るのだ。
そして、案の定、その皺寄せが、わたしに来た。春紀がわたしを彼女にしたいのは、嫌いな女子の中で、普通のわたしを選べば、全て丸く収まるということだ。家族とうまくやってくれて、生活するのに不快じゃない程度の、普通なわたしは、超優良物件なのだ。合理主義の春紀らしい。
しかも、わたしにとっても損はない。この点に関して、わたしが、春紀の顔を好きだという事実がバレているかどうかは不明だ。バレないように注意しているから大丈夫だと思う。多分客観的なスペックを見て、損はないと言ったはずだ。(そうあることを、願う)
とにかく、そんな理由で、彼女になってと言ってみたものの、翌日には面倒くさくなって、放置したし、高校が別れて、会う機会がなくなってからは、惜しくなって、付きまとった。一ヶ月に一度会う約束をして、名目上の彼女になってからは、不必要に追いかけてこない。
青春真っ盛りの二人が、そんなことで付合うのは悲しいし、損得勘定で動いて、陽子さんや社長さんには、申し訳ないと思う反面、そっちがその気なら、こっちだって別にいいと思ってしまう。人を好きにならないかもしれないわたしにとっても、ラッキーだ。性格の問題は仕方ないとして、顔はめちゃくちゃ好みだし、高スペックだし、不服なんてない。ないと思っていた。ついこの間まで。
春紀は、佐木彩歌ちゃんを好きかもしれない。
バーベキュー大会で、妙な反応をしていたから、不思議だった。
優しい対応に戸惑っているのかと思ったけど、実際のところ、好きっぽいととらえた方がしっくりくる。春紀の女嫌いが酷くて、そういう回路がシャットダウンされていたから、すぐに頭がまわらなかった。
「排他的に好き」より「受動的に好き」が出てきたら、そっちを選ぶのが当然で、今まで、そういう可能性を考えていなかった。考えないようにしていたのかもしれない。
だって、春紀の中に 受動的に好きがあったら、なんだよそれ、なのだ。
排他的しか無いふりをして、他のもあったなんて、なんだよそれ。
わたしは元々、好きな人と結婚できる側にいきたかったのに、利害が一致すればいい側の春紀に、先越されるとは、なんだよそれ。
わたしに彼氏ができたら振ってやるとか言っておいて、先に自分が好きな人を作るなんて、なんだよそれ。全く、腹が立つ。
まぁ、別に、春紀が、彩歌ちゃんを好きというなら、先にわたしが、春紀を振ってやるだけだ。
期末試験が終わったら、女子会をしようというので、集まったメンバーが、わたし、まどか、木部ちゃん、彩歌ちゃん、薫ちゃんだった。薫ちゃんは、彩歌ちゃんの幼馴染みだ。
わたしは薫ちゃんと初対面で、木部ちゃんは、わたし以外とは初めてだったけど、みんなすんなり馴染んだ。類は友を呼んでいる。
試験休みの平日二時に集合だったけど、みんな五分前には着いていた。
向かったのは、プティボヌールというパンケーキの店で、土日は朝から列ができるが、平日は割と空いている。オフィス街のビルの一階に隙間を縫うみたいにある。前を通るたび気になっていたわたしのリクエストだ。
うなぎの寝床のような造りで、入り口からカウンター席の後ろを抜けて奥に進む。店内に入ると、すぐに甘い匂いが鼻を突いた。中は思ったより広く、窓際に四人席が三つ、中央に楕円の大テーブルと椅子が八脚、その後ろに二人席が三つ、壁際には六人席と二人席が設置されている。
予約していたので六人席に通された。(多分二人席を三つ寄せている) 壁際の奥から薫ちゃん、彩歌ちゃん。向かいに奥から、木部ちゃん、わたし、まどかが座った。
店内は、カウンター席以外満席だった。あまり周りをじろじろ見れないけれど、カップルか女性客、年齢はまちまちだ。黒エプロンに白いシャツのイケてるウエイトレスさんが、すぐに水を運んで来てくれた。プレミアムパンケーキを狙っていたのだけど、一日二〇食限定で、今日は後一つしか残っていないという。みんなでそれをシェアして、後は自分の好きなのを選んだ。一皿余分に頼んでいるので、みんな自分の分は通常三枚のところを二枚に減らして注文した。お年頃なのだ。
わたしが選んだのはバターミルクのパンケーキで、生クリームとバニラアイスとメイプルシロップの一番シンプルなもの。まどかが、レモンカスタードで、木部ちゃんは、焼きマシュマロとチョコレート、彩歌ちゃんと薫ちゃんはフレッシュフルーツのパンケーキだ。案の定、わたしのが一番に来た。
「アイスが溶ける前に先に食べなよ」
みんなが勧めてくれるので、先にいただく。
「その前に写メだけ撮らせて!」と木部ちゃんが言い、店員に撮影の可否を尋ねる。流石、クッキング部長、手慣れている。わたしもつられて撮影したけれど、木部ちゃんの写真とは仕上がりが全然違う。木部ちゃんは、料理が美味しく撮れるアプリを使用しているのだ。
「千秋に、送ってあげよう。喜ぶよ」
「悔しがるのじゃなくて?」
まどかが聞くので、わたしと木部ちゃんが「喜ぶ喜ぶ」とハモって答えた。まどか以外の二人は、名前から千秋君を女子だと思ったらしく、わたしの「旦那くん」であることを、木部ちゃんが説明した。
「確かに、千秋千冬は字面が凄いね。なんか双子の子の名前みたい」
彩歌ちゃんが自分の掌に文字を書きつつ言った。 わたしは、目の前のお皿にうっとりしていた。渦巻き状に盛られた生クリームにメイプルシロップを惜しみなくかける。アイスが熱で溶けだして、いろい混沌としたパンケーキを、十字に豪快に切る。これはもうやばい。わたしがパンケーキに夢中になっている間に、千秋君の話はどんどん進んだ。
「芥川龍之介に似てる、前髪あるけど」 木部ちゃんが言うので、吹き出しそうになった。誰かに似ているとずっと思っていたけれど、確かにそうだ。芥川だ。
「芥川って前髪なかったっけ?」
薫ちゃんが素朴な疑問をだし、芥川の画像検索が始まった。
「ないっていうか、あげてる?」
彩歌ちゃんがスマホを見ながら首を傾げるので、パンケーキを一口大に切って口にいれようとしていたのを中断して「オールバック?」と問いかける。
「オールバックでもない。こんなの」
向かいに座るわたしに画面を見せてくれた。前髪がないわけじゃなく、でも、おでこは全開で、且つオールバックではない髪型だ。
「逆に、これで前髪あるってどんななの?」
まどかが、半笑いで言うので、つられて笑ってしまって全然パンケーキが食べられない。
「写メあるよ」と木部ちゃんが言ったところで、みんなの分のパンケーキが一斉に届いた。テーブルが一度にゴージャスになる。木部ちゃんの料理コレクションの撮影で、一端すべてが休止になった。それが終わり、食べ始めると、木部ちゃんは、千秋君の写真を表示して自分のスマホをみんなに回した。
「えー芥川より優しそう」
「うん。気難しくなさそう」
みんな、芥川をなんだと思っているのか。しかし、それより、パンケーキが美味しい。もっちりしていて、生クリームは甘めで、わたし好みだ。みんなも、口々に感想を言って、一口交換が始まった。もう誰も、パンケーキの話しかしていない。千秋君と、芥川先生に申し訳なかった。
プレミアムパンケーキはラストのボスの如く登場して、テーブルの中央に置かれた。
スキレットに生地をふんわり流し入れ、三〇分かけて焼き上げるのだそうだ。
大きく膨れて、側面から見るとスキレットから、かなりはみ出ている。きのこみたいだ。ナイフで切れ目をいれてバターを載せる。熱でバターがとろんとなって、生地に染み込んでいく。木部ちゃんは、熱々のシャッターチャンスを逃さず、本日のパンケーキコレクションをコンプリートさせた。
みんなで、直接フォークで掬って食べる。外側はふんわりさくっとしているが、中はじゅわっと柔らかい。パンケーキというよりカステラみたいな濃い卵のしっかりした味がした。
三時前になると、お店は混雑しはじめた。いつまでも、しゃべり続けていていい雰囲気ではない。駅前のファーストフード店に移動することにした。狭いカウンター席の後ろを通って入り口のレジへ向かうので、まどかが先頭でなんとなく一列になっていた。
「三名様ご案内です」
店員が新規のお客さんを連れて入ってくるところだった。すれ違えないので、先に通り過ぎるのを待つ。店員がこちらに頭をさげて、お客さんを奥のテーブルへ案内していく。わたしは列の一番後ろで、忘れ物がないか、もう一度確認していた。
「千賀さん!」 甲高い声と「あ、高橋さん」という、まどかの冷静な声がした。
前を覗くと、あの高橋さんがいるので、わたしは急いで顔を引っ込めた。当然そんなことで隠れられるわけもなく、高橋さんはすぐにわたしに気づいて、がんがん寄ってきた。
「渡さん! 久しぶり。会いたかったよ」
「久しぶりだねぇ」
中学の時、元々仲良くなかったのに(あの事件以来、すれ違ったら手を振るくらい)会いたかったという発想が、相変わらずのカオスだ。携帯番号とメールアドレスを交換しようと言われ、断りきれずにスマホを取り出す。まどかの方を見ると、そこもまた、ありえない光景だった。
春紀がいるのだ。パンケーキ屋で、何をしているのか。パンケーキなんて、食べないだろう。春紀の隣にいる男の子は、春紀の数少ない友達の一人だ。 春紀は全然こちらを見ないが、友達の方は笑って手を振ってくる。同じ中学だったけど、話したことないし、知らない。とりあえずぎこちなく笑い返す。すると、スマホにアドレスを登録し終えた高橋さんが、それに気づいて言った。
「彼氏なの」
「え?」
三人一緒に来たらしい。春紀と高橋さんとその彼氏、或は、春紀と友達とその彼女、いずれにせよ、どういう組み合わせなのか謎すぎる。
「千賀君のこと、あんまり責めないであげてね」
高橋さんは、また、わけのわからないことを言い出した。わたしがいつ春紀を責めたというのだ。一方の春紀は、まどかに冷たくあしらわれつつ、彩歌ちゃんに、にこやかな挨拶をされているところだった。
「この間は、ストラップ有難うございました」
そう言ったのは、薫ちゃんだった。彩歌ちゃんだけじゃなく、薫ちゃんにもあげたのか。春紀よ、いつからそんなにストラップをあげまくるキャラになったのだ。
高橋さんは、その様子を見ていたが、すぐにわたしの方へ向き直って「それじゃあ、メールするから」と残し彼氏の元へ戻って行った。どんなメールが来るのか恐怖でしかない。
次のお客さんが、待っているので、もう早く店を出なければならない。まどかと木部ちゃんが先頭に立ち、続いて、彩歌ちゃんと薫ちゃんが「それじゃあ、また」と春紀に手を振ってレジへ向かう。春紀は「じゃあ」と返事をした。やっぱり、彩歌ちゃんと接するときは、どぎまぎしている気がする。それをいちいち気にするわたしも、おかしい。
すでに、高橋さんと彼氏は、席へ向かっていて、その場に春紀だけが残っている。横を通らないと入り口へ行けないので近づく。前に習ってわたしも「じゃあね」と手を振ってみる。
「じゃあ、うん、また」
春紀が、歯切れ悪く返した。 バターミルクのパンケーキがお薦めだと教えてあげようかと思ったけど、絶対食べないので、そのまま店を後にした。