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 自分の気持ちや、相手のことががわからない、というのは往々にして、そうだと認めたくないということなのかな、と思った。

 わたしが、春紀のことを急にわからなくなったのは、春紀がわたしの嫌な方へと、進んで行ってしまっているからではないかな、と。

 彩歌ちゃんに彼氏が出来たから、春紀は失恋して、だったら、元の春紀に戻るかというと、そうではなくて、失恋した春紀がそこにいるだけだ。そして、その春紀を、わたしはわからない。全くわからない。

 元の春紀に戻ってほしい。元の春紀というのは、わたしの好きだった、春紀だ。わたしの好きだった、しょうがない春紀だ。偏屈で、内向的で、すぐに拗ねる、春紀だ。わたしにしか、手に負えない春紀だ。わたしのことを好きだったはずの春紀だ。

 わたしは、春紀が、わたしを好きではなかったことが不満なのだ。あんなに面倒をみてあげたのに、他へ行くことに憤りを感じているのだ。認めがたいけど、たぶんそうだ。

 好きになってほしいから、面倒をみていたわけじゃないのに、どこかですり替ってしまった。酷い。わたしに対して、わたしが酷い。そんな気づかぬ間に勝手に替えるから、後から後から付いて来るだけの気持ちが、悲鳴をあげる。

 相手に好きになって欲しいと思うことは、片思いだ。

 片思いってこんなにざらざらとした感触をしていたか。違うと思う。片思いのやり方ってどんな風だったろうか。あの図書委員の先輩に、何かを望んだことなんてない。

 密かにそっと、遠くから見ている。見ていることがばれないように、でも目が合えば嬉しい。用もないのに声を掛けられなくて、何かが起こらないか待っているけど、実際は何もない。もしかして、もしかして、とそればっかりで、こっちが意識しているから、相手の視界にいる気になっているだけ。冷静になれば何もない。わたしは先輩の人生の通行人Aだった。でも、一般人のわたしは、エキストラ出演で、充分テンションが上がる。

 あの先輩の、あの人生の、あの見切れているところに映っているのがわたしなんです、と何度も繰り返し再生して、いつまでも見ていた。先輩の人生の通行人Aを演じるわたしは、わたしの人生では素晴らしく輝いていた。

 でも、今の感情はそれとは全く一致しない。できない。春紀相手にそれをやれと言われても無理だ。目が合えば「なに?」と言ってしまうし、用がなくても、家まで遊びに行ってしまう。

 誰に告白されても、全く相手にしない千賀春紀が、同級生の女の子を家にあげている。(学校が遠いから、誰にもばれないので、よかったのだろうけど)普通に考えて異常な状況を、わたしはずっと自然なことだと流していた。

 だから、それに気づいてしまって、焦っているのだ。

 早く春紀を嫌いにならなければいけない。

 春紀は、今までわたしに能動的に絡んできたことがなかった。引き籠っている春紀を呼びに行くのは、いつもわたしからだった。春紀の家に遊びに行くのもわたしだった。

 だから、わたしは会いたいときに、春紀に会えると思い込んでいた。

 でも、春紀の彼女を引き受けてしまって、そのうち彼女を辞めていいと言われたとき、わたしは好きなように春紀に会えなくなるのだと気付いた。今まで、会いたいとも会いたくないとも言われて来なかったから、どうするかはわたしの勝手だった。

 しかし、もう会いたくないと言われれば、春紀の家に行っても春紀には会えない。実際は、陽子さんに会いに行っていたのだけど、春紀に会いたいなと思ったら、そこに春紀はいたのだ。会いたいと思ったことがなかったから、わからなかった。わたしは、春紀に会えなくなるのが嫌だ。陽子さんに会えなくなるのと同じくらいに、嫌なのだ。

 わたしは、小さい頃からある、ずっと続けてきたものの一つのように春紀を好きだ。サッカーやそろばんや柔道やピアノと同じだ。言われたから始めて、止めるタイミングがわからない。

 春紀を好きだからって、何もない。ドキドキする楽しい片思いじゃないし、告白する気は全くない。誰かに止めろと言われたら、止める。だけど、自分から止める勇気がない。せっかく続けてきたのに、もったいないと思ってしまう。続けたところで、プロサッカー選手にもピアニストにもなれる度量がないことはわかっている。趣味で続けていく人もいるのだろうけど、わたしは練習をさぼりまくってきた方だ。嫌々ずるずるやって来ただけだ。強烈になにか止めるきっかけがあれば止められる。

 たぶん、春紀に彼女が出来たら、それが終わりの合図だ。春紀に彼女が出来たら、わたしは次にいける気がする。損したような惜しいような気になるだろうけど、それをいつまでも引き摺ったりしない。

 長く続けてきたものを辞めても特になにも変わらない。日常は淡々と続いていって、代わりにやることはいくらでもある。多分、そういう類いのものだと思う。




 モントレオリーブの夏季休暇が丁度来週の前半だった。

 後半は、まどかが旅行で、彩歌ちゃん、薫ちゃんもそれぞれ予定が合わず、今回は木部ちゃんと二人で食べに行くことになった。夏休みなのに、落ち込むようなことが多かったので「夏の思い出作りたい。クッキング部の友達がわざわざ来てくれるんだから、おもてなししなきゃ!」と父にごねまくって五千円せしめた。これで、豪遊してやる。

 お昼ご飯はケーキにする算段で、お店に一二時に待ち合わせた。

 土曜日だったから、混んでいるのを予想して、わたしが先に並んでおく約束だった。十一時半に着いたら、二組が待っていた。ここのサロンは土日限定のランチのキッシュも人気があるから、やはり早めに来て良かった。

 待ち人用の椅子に座って、スマホをいじっていると、着信が来た。木部ちゃんかと思ったら父だ。土曜は休みだけど、今日は社長さんの用(何かの接待)に車を出すとか言っていた。


「もしもし?」

「千冬? 今社長の家だけど、父さん今日遅くなるから、夕飯食べにおいでって言ってくれてるぞ」

「えーいいよ。悪いから」


 電話の向こうでがやがやしているのが聞こえる。


「陽子さんが、好きな物作ってくれるって」

「えー」


 そんなこと言われると誘惑に負けてしまう。わたしは陽子さんが作るオムライスがとても好きなのだ。


「オムライス作ってくれるって」


 流石に読まれている。

 六時に行く約束をして、電話を切った。休みの日に父を連れ出して悪いと思ったのだろう。もう子供じゃないからいいのに。昔は、父が遅くなる日は必ず千賀家でご飯を食べさせてもらった。父の帰りを待って一緒に帰った。中学に入った頃から、独りで自宅で待つようになった。

 春紀は、いるだろうか。明日は第三日曜日だ。彼女を降りるつもりだったけど、自分の気持ちに気づいてしまって、どうしたらいいか迷っていた。もう、このまま春紀に彼女が出来るまで、続けたらいいんじゃないかと思う一方で、それじゃあ、本当に都合のいい女で、なんだか自分が駆逐されて、跡形もなくなくなってしまう気がする。明日のことは、明日考える。今日はもうケーキを食べて幸せに浸るつもりだったのだ。

 人の好意を失礼な話だけど、夕飯はいらないから、千賀家に行きたくなかった。春紀に会いたくない。


「千冬!」 


 電話を切ったらすぐ、木部ちゃんが、入り口から小走りで近づいて来た。


「おはよー、迷わなかった?」

「大丈夫。なんか思ったより広いね」

「うん。二階はもっとゴージャスだから」


 まだ二組待ちの状態のままだ。メニューは上にもあるけれど、一階のショーケースに本物のケーキが並べてあるので見てきたらと勧めた。


「ホワイトマカダミアチーズケーキもチェックして」

「了解」


 鞄をわたしの隣に置いて、ショーケースを覗きにいった。

 木部ちゃんは、老舗うなぎ屋の一人娘だ。うなぎを食べた後でも食べたいと思うスイーツを開発する野望をもっている。和菓子か洋菓子なら、和菓子だろう。生クリーム系はちょっと無理っぽい。想像するだけで合わない。

 前の二組が同時に二階へ通された。木部ちゃんがこちらに戻って来るのでいいタイミングだった。


「チョコレートのムースが一番美味しそうだった」

「えー」

「千秋の口癖移ったんじゃないの」


 木部ちゃんが笑った。

 それから、すぐに二階に案内された。貴族が住んでいた洋館だったと告げると木部ちゃんは「あー、ぽいわぁ」と感心した。席に座ってメニューを改めて見る。ケーキを食べまくるつもりで来たけれど、木部ちゃんがキッシュに興味を惹かれている様子だったので、ランチにプラスしてケーキを付けることにした。


「みんな来れなくて残念だったね」


 木部ちゃんが、スマホを取り出してテーブルの上に置いている。撮影も了承済でスタンバイオッケイだ。


「うん。彩歌ちゃん、彼氏できたらしいよ」

「マジで? えー、いいなぁ。どんな彼? どこで知り合ったって?」

「えーっと、中学の時塾が同じだったとか言ってた。今度写メ見してくれるって」


 春紀にかまけて、その辺の話はうろ覚えだった。周りをよく見るとか言っておいて、呆れる。


「塾かぁ。来年の今頃は受験勉強に追われているよね」


 木部ちゃんが、陽だまりの中のまどろみから覚めたような、ぼんやりしていて、けれど強い口調で言った。


「木部ちゃんは、栄養学部に行きたいんでしょ?」

「うーん。調理学校の方が実習とか多いらしいし、まだ全然わかんないよ」

「でも、進む方向が決まっているから凄いよ。わたしなんて何も考えてない」


 目先のことしかしていない。

 友達と話すのは楽しいけれど、学校は特に好きじゃない。授業は毎時間毎時間長くて怠い。試験でいい点をとりたいから、一夜漬けで勉強はするけど、すぐに忘れてしまう。目標があれば、意欲的に勉強する気になるのだろうけれど、それを探すところから始めなければならない。途方もないことのように感じる。自分がやりたいことが全くわからない。

 何せ子供の頃の夢がパティシエの嫁なのだ。自分で作ろうとしていないところが、自分らしい。

 来年は、受験か。分岐点がくる。


「なんか、考えると落ち込むわ。せめて格好良い彼氏が欲しい」

「どういう繋がりなの?」


 木部ちゃんは「欲しいものは、欲しい」と駄々っ子のように言った。




 六時少し前に千賀家に着くと、家には陽子さんしかいなかった。春紀はどこかへ出かけたらしい。 

 約束通りオムライスを作ってくれるというから、作り方を教えてもらうことにした。今まで料理するのを手伝うことはあったけど、言われたことを言われたようにするだけで、レシピを教えてもらうことはなかった。

「クッキング部に入って料理に目覚めたから」と陽子さんには言ったけれど、陽子さんの作るオムライスをいつ食べられなくなってもいいように、自分で作れるようになりたかった。


「そんな、レシピなんてないわよ。目分量だから」


 料理のうまい人は、大概そんなことを言う。大さじ何杯で、何分焼いてとか細かく決めておいてくれないと困る。


「本当にこのオムライスは何のコツもないのよ」


 そう言って、陽子さんは、わたしの前でオムライスを作ってくれた。牛肉を炒めて、玉ねぎとマッシュルームを加え、塩コショウとケチャップで味を付ける。更にご飯を投入し、混ざったら一旦取り出す。後は、卵を薄く焼いて、一人分のケチャップライスをフライパンへ戻して包む。


「簡単でしょ? 残り半分はちぃちゃんがやってみる?」


 陽子さんは、わたしに練習するように言った。


「やっぱり。陽子さんが作って」

「そうなの?」


 陽子さんは、ふふふと笑って、容易く美しくオムライスを完成させてくれた。陽子さんが作ってくれるうちは、陽子さんの味を食べたいのだ。

 陽子さんと二人で食事というのは、意外にあまりないなと思った。いつも、春紀がいた。


「ハル君、どこに行ったの?」

「さぁ、わからないわ。お昼に出て行ったきり、帰って来ないの。全く、晩御飯どうするのかしら、電話の一本でもすればいいのに」


 春紀は割とマザコン気味で、陽子さんを心配させるようなことはしないから珍しい。


「ハル君って、普段何してるの?」

「うーん。何もしてないわよ。部屋に籠ってゲームしてるか、ふらーっと出掛けて行くか。大体物言わずだからねぇ」

「へぇー」


 聞いておいて、他に言うべき感想がなかった。

 オムライスにケチャップとソースをかけて食べる。卵は一見固焼きにみえて、ケチャップライスに面している内側はとろとろしている。わたしが作ると絶対かちかちになる。


「もう後一週間で夏休みも終わるわね。今年の夏はどうだった?」


 陽子さんがしんみりと言う。


「えー、別にいつもと変わらなかったけど。わたしって、あんまり何も考えてこなかったなって思った」

「そんなこと、ないんじゃない?」

「いやいや。なんかねぇ、見たまま思うというか、読みが甘いというか。この人、こういうこと言うのは、こうして欲しいからでしょ、って思ってしていたことが、実は違ってて、あー失敗してた、みたいなことが、沢山あったの」

「それは、わたしもあるわよ」

「えー、陽子さんでも?」

「あるわよー。よく叱られてるから」


 陽子さんを叱る人なんているのだろうか。社長さんとか、文句があったとしても言わなさそうだ。


「じゃあさ、たとえば、相手が何も言わなくて、何して欲しいか、わからないときは、どうするの?」

「自分の好きな方を選ぶわね」


 陽子さんは「おばさんだから、図々しいのかしら」と笑った。

 自分の好きな方か。そんなこと思ったことがなかった。春紀のいいと思う方がよかった。なんでと聞かれても、わからないけれど。


「ねぇ、陽子さん、今度ちらし寿司の作り方教えてよ。五目ちらし」

「うん? いいわよ。そういえば最近全然作ってなかったわね。夏休み中に、一回作ろうか」


 ポテトサラダと、からあげと、切り干し大根の作り方も教えて欲しい。後何かあったけど、今は思い出せない。リストアップしておこう。悲しいけれど、しかたがない。



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