18
オレの記憶の限り長男の雅紀は、一番まともだった。
物静かで、読書好きで、声が小さかった。一五歳年が離れていて、物心ついたときには、成人していたから、オレの中で雅紀はずっと大人だった。
大学で、経済学を学んで、証券会社に入社し、将来は家業を継ぐ予定だった。父も周りもそうだし、本人も当然そうだと考えていたはずだ。
それが、誰にも何も相談せずに仕事を辞めて、結婚し、相手の実家の農家を継ぐと言いだした。父は大激怒で、絶縁状態になった。(母とは連絡をとって会っていたけど)去年孫が生まれて、母から、写真を見せられて、父はデレデレしていたので、関係修復の兆しは近いだろう。
父曰く、オレと雅紀はよく似ているらしい。堅物で、思い込んだらのめり込むタイプだから、ある日突然何をしでかすかわからない。父が、しきりに彼女を作れというのは、雅紀が駆け落ち同然で、今の奥さんと結婚したことに起因している。雅紀は、恋愛に免疫がなさすぎたから、熱病に侵されて、何もかも捨てて出て行ってしまったのだ、と父は思っていて、オレがその二の舞を踏むのではと懸念している。
オレが千冬を好きなことは、知らない。
知っているのかと疑うときもあるけれど、誰かれ構わず、オレをお薦めするので(本当に勘弁してほしい)気づいていないだろう。むしろ知っているのは、母の方だ。知っていて知らない振りをしている。オレの気持ちも、千冬がオレを相手にしていないことも、千冬がとても母を慕っていることも、全部見越している。父が、千冬にオレを薦めるたびに、それとなくオレのフォローをしたり、あるいは父を牽制したりする。父に知られないように、立ち回ってもくれている。
母はオレを一番と言ったけれど、この恋に関しては、たぶん千冬の気持ちを優先させるつもりなんだろう。オレが振られた後でも、千冬がいつでも遊びに来れるように、知らない振りをし続けるつもりだ。
遊園地の一件以来、もう告白した方がいいんじゃないかというのと、今まで頑なに気持ちを隠してきたことの意味を思い返して、身動きできなくなっていた。
嫌われて、牽制されているから、もう告白はできないと思っていた。一ヶ月に一度会えるだけでよかった。しかし現実は、次々に襲ってくる。オレの知らないクッキング部の千冬には、千秋高虎がいて、千冬は依然として、人前でオレの彼女だと名乗ることを拒んで、オレの本命が千冬だと言われたら、平然と否定する。告白なんて出来るわけがない。
振られるとわかっているのに、告白するのは意味のないことだ。自分が、人の想いを否定してきたから、断られることは、なかったものにされることだと思っていた。上手くいかない思いは間違いなのだから、消去して正しい軌道に戻すべきだ。自分が告白されるたびに、面倒くさく感じてきた。
だから、告白して、振られることが耐えられない。この思いは、違うから。その辺にあるようなそんな容易いものじゃない。うまくいかなくたって、本物なのだ。否定されたくない。告白しなかった一番の原因は、断られることじゃなく、ないことにされるのが、耐えられないからだ。
でも、きっと千冬はオレとは違って、人の気持ちを勝手に消去したりしない。その代わり、告白したら、傷つける。断ることに罪悪感を抱くだろう。じゃあ、やはり告白なんてできない。結局、どこへも行けない結論に辿り着く。どうしたらいいのか、千冬に聞けたら、全部言われた通りにする。
明日は第三日曜日で、二ヶ月ぶりに千冬と二人で会える。
嬉しかったけれど、まどかの言う、オレが佐木さんに好意をもっているという誤解をどう釈明しようか、頭が痛かった。まどかは、言い方も性格もきついが、曲がったことが嫌いな正義感で、普段は大概オレをないがしろにするが、最終的に非情になれない。佐木さんのことは、本気でまずいのだろう。
千冬は、本当にオレのことなどどうでもいいのだなと思う。何をどうしたらそんな誤解が生じるのか。オレが誰を好きかにそんなに過敏に反応するなら、何故自分だと気づかないのか、謎すぎる。しっかりしているようで、ごっそり抜け落ちていたり、考えているようで、途中で投げ出してしまうことが確かにある。オレのことを考えるのも、多分途中で面倒くさくなるのだろう。
十一時に渡さんが父を迎えに来た。土曜日の仕事は基本的に休みのはずだが、急な接待が入ったらしい。昼食を家で済ませてから出掛けるという。父のさほど美味くもない料理を食べさせられて、渡さんも気の毒だ。(千冬曰く、渡さんは相当味覚が甘いから、何を食べても美味しいらしい)
ダイニングに降りていくと、父がキッチンで蕎麦を茹でていた。山形から取り寄せた冷たい蕎麦だ。
「お前も食べるか?」
冷蔵庫から水を出して、喉を潤す。いろいろ考えすぎて不眠気味だった。明け方眠りについて起きたばかりなので、食欲がない。
「いや、いいよ」
「お前は、夏休みだからって寝てばっかりだな」
眠れないから困っているのだ。返す言葉もない。
「渡くん、ちぃちゃんは、今日はどうしてる? 土曜出勤させてしまったから、寂しがっているんじゃないか」
「いえいえ、そんな年じゃないですよ。どうぞどうぞってなもんです」
カウンターの向こうで、にこにこしながら渡さんが言う。
「一緒にご飯食べに来るように言えばよかったな。この蕎麦美味しいんだ」
父が、蕎麦を水で締めながら言う。
「千冬は、今日はお昼に友達と会うらしいです。クッキング部の友達と二人で、最高の夏の思い出作るからって、大袈裟なこといって」
「最高の夏の思い出ってなんですか?」
オレが突然横から口を出したので、渡さんは一瞬驚いたけれど、すぐに笑っていった。
「ケーキを好きなだけ食べるんだって。子供みたいだろう? 今頃駅前のケーキ屋にいるよ」
それは、子供みたいなことではない。
「公衆電話って、どこにあった?」
青葉がどうでもいいことを真剣に聞く。
「さぁ」
「さぁって、自分でかけたんだろ」
「あんまり覚えてないから」
「重傷だな」
渡さんの話を聞いて、駅前のケーキ屋まですぐに行ったけれど、中まで入れなかった。足が竦むというのは、本当に足が動かなくなることで、背筋に悪寒が走るのは、風邪をひいた時だけじゃないのだとわかった。
青葉の部屋のソファに仰向けになったまま、ずっと天井をみている状態は、異常としか言いようがない。「ちょっと横になった方がいいぞ」と、家に押し掛けたオレを見るなり、青葉は言った。どんな顔をしていたのだろう。
「それ、本当に千秋君なのかよ。クッキング部の友達って、普通に考えて、部長のなんとかちゃんの方じゃないのか」
青葉が、宙を仰いだまま天井の模様を目で追っているオレに、次々に言葉を投げかける。
「仮に千秋君だとして、クッキング部なんだから研究のためとか、その部長がたまたま来れなくなったとか、いろいろあるだろうよ。ケーキ食べに行くくらい、そんなに落ち込むことかよ。一緒に旅行に行ったとかならわかるけど、おかしいだろ」
「あの店は、駄目なんだよ」
「また、わけのわからんことを。大体もう諦めるんじゃなかったか」
諦めるつもりだったんだ。好きな男ができたら、潔くきれいさっぱり終わりにできるはずだった。想像と現実で、感情がこんなに交わらないとは思わなかった。
「お前さ、高橋になんて告白したの?」
「何? 急に」
「男から告白する場合は、何て言うのか知りたい」
「お前は本当に、人生なめてるな」
青葉は「嫌だ、嫌だ」と小さく付け足して言った。わからないことは聞けと言ったのは自分のくせに、この対応はないだろう。
「お前、告白するつもりなの?」
「わからんよ、そんなの。オレはさ、結局、千冬は折れてくれるだろうなって思ってたんだよな」
「折れる?」
「そう。黙って待ってたら、そのうち折れて、こっちに来てくれる。意地は張り通した方が勝ちだから。オレはそれで千冬に負けたことがない」
「最悪だな」
青葉は、呆れて言った。でも、少しして、意地悪く笑った。
「本当に勝ってる奴は、こんなに悩まないけどな」
ソファから起き上がり、乱れた髪を撫でて整える。それから、右目を覆うよう右手で目頭を押さえた。オレは、生まれつき左の視力が弱い。眼鏡をかけるほどではなかったけれど、効き目の右目ばかり使ってしまう。ある日突然、右目が失明したらどうしようと、密かに左目だけで見る練習をしていた。左目からの景色は、右で見るより少し明るく少し白い。あまり機能できていない左目を使うと、同時に普段使用していない脳のスイッチを入れたような、クリアな気持ちになる。考えたいときは、そうするのが、癖になっていた。
「オレはやっぱり、みんなが言うように告白すべきかな」
「みんなが誰か知らんけど、珠杏はお前を応援するのは、止めたらしいぞ」
「え?」
そういえば今日は高橋がいない。いつも一緒にいるわけじゃないだろうし、いなくていいのだけれど。
「千冬ちゃんと、ちゃんと友達になりたいんだって。だから千冬ちゃんを応援するんだってさ」
「なんだよそれ。みんな千冬、千冬って」
昔から、ずっとそうだ。みんな千冬にばっかり行く。なんだってそんなに千冬がいいのか。オレから取るのは止めてもらいたい。
心情を見透かしたように青葉が、馬鹿にして笑っている。
「オレは、お前の味方してやるよ?」
「それはどうも」
「告白するのはいいけどさ、あんまり無理しない方がいいんじゃない? 普段と違うことして振られるより、いつも通りにして振られた方が、後悔ないじゃん。なんであの時に限ってあんなことしたんだろうとか、お前絶対思うだろ。渡さんは、お前の性格なんて重々承知みたいだし。今更お前に、かっこいい王子様とか求めてないだろ。無理して下手打つより、いつも通りでいいんじゃない?」
さっきまで千秋高虎については、否定的だったのに、振られる前提の話に変わっている。青葉は、笑っているけど冗談を言っている風ではない。オレの味方だからはっきり言わないが、やはり現実はそうなのだろう。いつも通りのオレらしく、要は告白するなということか。このまま静かに退席しろってことだ。
本当は、潔く振ってあげるつもりでいたのだ。そうだった、最後にごねまくるのは契約違反だ。
「王子様で思い出したけど、オレ、シンデレラって昔っから、あんまり好きじゃないんだよね。ガラスの靴を落としたのはシンデレラなんだからさ、自分で取りにくるべきじゃない? 怠慢だよ。拾いに来るのを待つのもありだと思うよ」
「何の話だよ」
「だから、シンデレラだって」
そういう意味じゃない。
「シンデレラなんかどうでもいいだろ。それよりオレ、血迷っていたな。初心に帰るよ」
「初心? あぁ、そうか、お前のお得意のあれで逃げればいいんじゃない?」
「オレの得意?」
「あの、全部なかったことにするやつ」
青葉はオレが睨み付けるのにも構わず「そうそう、それがいい」と笑った。




