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普通のナンパなら、それも一つの出会いだろう。
拒否されて、なお付き纏うのは、完全な犯罪。そのいかにも常識の通じない二人組は、無言のまま早足で逃げるわたしの後を付いて来て「無視するなよ」と怒りを露わにした。
道の真ん中にいるのに誰も見向きもしない。こんな時に限って防犯ブザーを忘れて来た。このまま全力で走って逃げようか。追い払えるだろうか。小太りで、足は遅そうだけど、走って逃げて捕まったら、もっと事態が悪くなる気がした。どうしようどうしようと思っているところに、右手首を掴まれて、パニックになりそうだった。
「やっぱり、お嫁ちゃんの美人のお嬢の友達かぁ!」
振り返ると、二人組とわたしの間に横から割って入って、にこにこ笑っている千秋高虎の姿があった。写メールでしか見たことがなかった彼をすぐに認識できたのは、芥川に似ていたからじゃなく、お嫁ちゃんというワードが、やたらに耳に残ったからだ。
「お前なんなんだよ」
「えー、友達。君たちこそ何? ナンパはよそでしてね」
なんともふわふわしゃべる。助けてくれて、少しほっとしたけど、事態は好転的ではない。相手の男達は、小柄だけど恰幅がよく、柄も悪い。一方、千秋君は、上背がありごつごつして骨太な感じだけど、かなり細身なのだ。
「あ?」
最悪な感じで、相手が絡んでくる、今にも飛びかかってきそうだった。
「オレ、柔道二段だけど、いいの?」
千秋君は、あくまでにこにこして言う。それ嘘でしょうというのは、誰が見ても明白で、相手もせせら笑っている。
「騒ぎにしたくないから、もう帰ってね」
一方の千秋君も、強面な二人組だというのに、動じる様子がない。警察を呼ぼうか冷や冷やしていると、相手の一人が「どけよ」と千秋君の腕を掴んだ。すると千秋君が、わたしの右手首から手を離して、その男の腕を取り後ろに捻りあげた。
「痛っ」
男が、呻くので一瞬で手を離して「ね。もう帰ってね」とあくまで穏やかに言う。
こういうタイプは、強いものには弱い。二人組がすごすごと去って行く。
すると、千秋君は、再びわたしの手をとって男達と反対方向へ、猛ダッシュを始めた。角を二度曲がってようやく止まると「うまく撒けたかな?」と後ろの様子を気にしていた。逃げなくたって、勝っていたのに。息が上がりすぎて、何も言えないでいると千秋君は「後つけられて、仕返しされたら困るでしょ」と、やっぱりにこにこして答えた。
「有難うございます、すかっとしました」
とりあえず、呼吸を整えてお礼だけは言う。すると千秋君は吹き出して笑った。興奮冷めやらぬので、勢いよく言い過ぎたのだろうか。わたしの怪訝な顔に「ごめん。怖かった的な、震えがとまりません的な流れになるかと思ったから」と言った。
「はぁ」
ややこしい男は知っているが、この人は違う意味で捉えどころがないなと思った。
友達の友達は友達かと言えば、微妙で、特にそれが異性だったりすると、もはや皆無だろう。なんで、そんな人とファミレスで、カレーを食べているのかというと、ノリとしか言いようがない。
「お礼にお茶でも」
わたしの言葉に千秋君は笑いまくって言った。
「うわぁ、ドラマ! こういう時は、あれでしょ。お礼なんて結構です。って言った後、ちょっと間を空けて、でも割り勘なら、とか言って素敵な笑顔で笑うんでしょ? やばい! 素敵な笑顔の持ち合わせがない!」
「そんなことないですよ」
本来のわたしなら、苦笑いするところだったけど、すんなりその言葉が出たのは、本当にそう思ったからだ。雲ひとつなく晴天という笑顔なのだ。
「マジでか! 誉め言葉は否定しないよ? じゃあ一緒に昼飯でも行くか!」と、近くのファミレスに入った。期末試験が済んだ試験休み中の平日だったから、一二時を少し回ったところでも、並ばず入れた。丁度、初夏のカレーフェアをやっていて、二人でそれを頼んだ。ドリンクバーで、飲み物を取って来る。わたしは、アイスティー、千秋君はジャワティー。カレーに合わせたらしい。
「よく千冬の友達だって、わかりましたね」
「うん。お嫁ちゃんは、まどか嬢の話ばっかりするからね」
「まどか嬢はやめて下さいよ」
「えー可愛いじゃん」
千冬を「お嫁ちゃん」と呼び続けているから、わたしはもう「まどか嬢」決定なのだろう。
「千冬、わたしの話なんてするんですか?」
「するする。主に自慢」
「自慢?」
千秋君は、真正面に座って、しっかり視線を合わせて話してくる。ジロジロ見ているというのではない。ずっと柔らかく笑っていて、ぶしつけな感じがしない。
「イケメンすぎてヤバいって。わたしを嫁にしたいなら、まどか嬢を越えて来いって」
「千冬そんなこと言わないでしょ」
言った後、しまったなと思った。わたしは、初対面の人間に、きついと取られてしまうことが多い。そんなつもりじゃないのに謝られる。今のはたぶんそんな感じだ。
「わたし別に怒ってませんよ」
「え? うん。怒ってると思ってないよ」
千冬の話通り独特な人だ。無口なのもどうかと思うけれど、おしゃべりな男も好きではない。だけど、千秋君は、不思議と嫌な感じがしなかった。声かな、と思う。声が凄くいい。
「お嫁ちゃんが、まどか嬢ラブなのは本当だからね」
千秋君が、いい声で、いい事を言ってくれるので、すごく得をした気分になる。
「千冬も、千秋君のこと、面白い人だって言ってましたよ」
「えー格好良いじゃなく?」
千秋君はそう言ったかと思えば「あ、ごめん。今のなし、なし」と突然大照れしだした。めまぐるしい。芥川に似ていると言っていたことは、格好良いということかなと思ったけれど、もうこの会話は続けない方がよさそうだった。
「柔道二段って、本当ですか?」
「そうそう、本当」
わたしの質問に千秋君は軽い感じで答えた。嘘を付くタイプには思えないけど、この人はクッキング部のはずだ。
「なんか、怪しんでる? こんなヒョロッとした奴が的な」
「いや、そんなことないです」
ふふふと、千秋君は不敵な笑みを浮かべた。
「その昔は、泣く子も黙る高虎君だったんだよ」
「泣く子もですか」
「いや。そこ引っかかるとこじゃないよ。まどか嬢は、ちょっと天然なの?」
しっかり者で通っているのに、天然なんて千冬以外に初めて言われた。
「オレね、病欠で一年留年してるの。それまでは、もう腹筋バッキバキに割れてて、今より二○キロくらい体重あったかなぁ」
ヘビーなことを、さらっと言うので、一瞬頭に入って来なかった。
「本当だよ。マジでバッキバキ」
「いや、そこに引っかかってません」
千秋君は声をたてて笑った。しかし、あまり追求するのも、失礼なのでそれ以上は聞けなかった。
「病気は、完治してるよ。柔道は、できないけど」
懐かしい物を見るような顔で、ふんわり笑う。なんか、ずるい。それは、駄目だ。全然芥川に似ていない。
「夏のごろごろ野菜カレーと、チキンと夏野菜のカレーです」
タイミングよく、カレーが運ばれてきた。「チキンこっちです」と千秋君がウェイターに感じよく指示する。スパイシーな匂いがテーブルに充足していった。
千秋君は、カレーを豪快に食べ始めた。好き嫌いないです、なんでも食べますみたいな食べ方だ。千冬が見たら、どういうジャッジを下すのだろう。わたしなら合格、と思ったらおかしかった。
「え? なんかいいことあった?」
向かいあってカレーを食べて、相手がふいに笑ったら、なんでそういう問いかけになるのか、つくづく不思議な人だ。
「いえ、友達がね、カレーを食べに行くって言うんです。毎回同じ相手と月一で、必ずカレー」
「うん。美味しいもんね」
自分も美味しそうにカレーを食べつつ言う。
「でも、その子、あんまりカレー好きじゃないんですよ。まぁ、嫌いじゃないけど、好んで選ばないみたいな。すっごい甘党で、辛いの苦手で」
「相手が、カレー好き?」
「いや、相手はなんでもいいんです。その子の言いなりなんで」
「言いなり?」
千秋君は、興味深そうに笑った
。
「はい。だから、カレーなんか止めて、ケーキ食べに行ったらいいじゃないって言ったんですよ。近くにお気に入りのケーキのお店があるんだし」
「おぉ、正論だね」
「でも、そしたら、カレーじゃないと駄目だって言うんです」
「え? なんで?」
千秋君は、飲んでいたジャワティーのストローを咽るように外して言った。
「カレーを食べに行ってるんじゃなくて、カレーを食べる相手の姿を見に行ってるからなんですって」
「えっ? もう一回言ってくれる?」
千秋君が、愉快でしかたない顔で言う。つられて笑ってしまう。
「もう、意味わかんないんですけど、カレーを食べてる姿を見て、うわぁってなったら、その人のことは嫌いだっていう話をどっかで聞いたらしくて、それを確かめようとしてるんです」
千秋君は「えーっと、えーっと」と何回か繰り返した。
「つまり、好きか嫌いかカレーを食べてる姿で判断しようってこと?」
「そう、そう」
「何それ、斬新すぎる。しかも、月一で確認とか」
「そんなまどろっこしいことしなくてもいいのにって、思いますよね」
そうだなと自分で言って思った。そんなことをして探さなければならないほど、嫌いなところがない。千冬は春紀のカレーを食べる姿が、嫌いじゃないでも、普通でもなく、好きだと言った。逆もまたしかりだ。
自分のお皿の上のカレーを見た。まだ半分残っている。
「これ、カレー食べながらする話じゃなかったですね。失敗した」
「オレの方が、もっと後の祭りなんだけど」
千秋君は、空の皿を斜めに傾けて笑った。
「オレの方が一個歳上だから、いいのいいの」と結局カレーをご馳走になってしまった。
千秋君は、わざわざバス停まで送ってくれて、バスが来るまで一緒に待っていてくれるという。いつものわたしなら、帰るように勧めるのだけど、その時は言わなかった。
他に誰も並んでおらず、二人でベンチに腰掛けた。バスの時刻表示をみると、赤ランプが二つ前の停留所で点滅していた。
「千秋君は、どうしてクッキング部に入ったの? 木部ちゃんの勧誘?」
聞いてしまった後、プライベートなことに踏み込みすぎたと後悔した。柔道をできなくなったというのだから、その辺を配慮すべきだった。
「いやいや。全然。自ら進んでだよ」
不穏な空気にならなくてよかった。
「食べることは生きることってよくいうじゃん。じゃあ美味しいもの作れる人になったら、生きまくりだなと思ったんだよね」
千秋君がまた、あの優しい顔で笑うので、思わず目を逸らしてしまった。バスは、直ぐにやって来た。立ち上がって、深ぶかと頭を下げる。
「今日は、色々有難うございました」
「ううん。全然何も。気をつけて帰ってね」
千秋君は、胸元で手を小さく振りながら言った。発車するので、車内に乗り込んでから、振り向いてもう一度頭を下げる。バスが動き始めてからも、千秋君はしばらく手を振ってくれていた。淀みのない笑顔だ。わたしは、千秋君の姿が見えなくなるまで、がらがらのバスの車内に立ったまま、しきりに思っていた。なんだ、千冬。側にいい人いるじゃない。それなのに、なんであんなしょーもない春紀なの?




