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 ガラスの靴を見つめて物思いにふける王子に、女王は尋ねた。


「なぜ、その靴の持ち主を捜しに行かないのですか?」


 すると王子は、しごく当たり前に答えた。


「これ以上、嫌われたくないから」

    

          ※


「クッキー完売したよ」


 まどかが、美しい顔に満面の笑みで言うので思わず見とれてしまった。美少女ってやつは恐ろしい。


「バザーでおまけに無料配布しただけでしょう」


 訂正すると、まどかは大きく首を振った。


「おまけ用だったんだけど、その筋の者から売ってくれって頼まれたから、売ってやったわ」

「その筋って何?」

「秘密」


 さっきとは違い口の端だけあげてにやりと笑う。言い寄ってきた男性客に売りつけたのだろう。お嬢様のくせにあくどい。


「そんで、ちぃに還元しに来たのよ。売れたお金でケーキ奢る」


 クッキング部で大量に作ったクッキーが余っていたので横流ししただけだ。


「別にいいのに。でも、有難くゴチられる」


 わたしの返答に、まどかはまた素敵な笑顔を作った。

 まどかと初めて会ったのは、小学校に上がる前だ。あまり記憶にない。

 父が、千賀グループという大きな会社の社長の専属運転手をしていて、その社長の姪が、まどかだった。 

 強気で世の中全員を馬鹿だと思っている節があるけれど、文武両道、眉目秀麗、それに見合った実力があるから、誰も何も言えない。一方では嫌われ、他方では熱狂的な信者がいるような、良くも悪くもお嬢様といった性格だ。本来なら、関わり合うことは無かったはずだけど縁が合ったのだろう、もうずっと一緒にいる。

 父とわたしは、社宅として千賀家にほど近いマンションに住んでいる。三歳で母を亡くしてから、千賀社長の奥さんの陽子さんが、何かとわたしの世話を焼いてくれた。千賀の家は、四人息子がいて女の子が欲しかったらしい。別にそれが理由ってわけじゃなく、わたしが男でも、きっと親切にしてくれたと思うけれど。幼稚園、小学校、中学校と、超がつくセレブ学校に当たり前みたいに通わせてもらった。大学までエスカレーター式だったけど学費のことが気になったし、周囲に対して不相応なのが精神的に参りまくって、高校は公立の学校に編入した。そこで、まどかとは別れてしまったけれど、わたしたちの仲はずっと続いている。




 ケーキといえば、モントレオリーブ。

 雑誌に載ったり、グルメサイトでランキング上位にあがったりする地元で有名なパティスリーだ。

 最寄りの駅の東口を出てすぐの場所にある。重厚な雰囲気のレトロな洋館で、二階がサロンになっている。元々、どこかの貴族の屋敷だったとか。

 この街は、東西で見えない大きな壁がある。西口を出ると庶民の町で、東口は昔ながらの富裕層な方々が大豪邸に居している。うちは、西口駅前七分の場所にある。

 モントレオリーブまでの道のりをまどかと並んで歩く。帰りのことを考えて、駅まで自転車を押して行く。高校へは電車で通学しているので、駅の駐輪場を借りているのだ。

 モントレオリーブは、予想通り混み入っていた。土曜日の午後二時なのでしかたがない。


「四十分待ちか。微妙」

「他に行く?」


 わたしの提案に、まどかは人差し指を二度口に当てて言った。


「今日は、ここのバナナチョコクリームパイの気分なんだよね」

「じゃあ並ぶ? それか買って帰って家に戻る?」

「陽子伯母さんとこ行こうよ」


 急に陽子さんの名前を出すので、返事に詰まってしまった。


「その方が近いし、きっと喜ぶよ」

「いいけど、陽子さんいるかな?」

「いるでしょ。電話してみるよ」


 まどかが否応なしにスマホを鳴らすので、わたしは成り行きを待つしかなかった。


「ミルクレープ買ってくね」


 陽子さんと通話しながら、まどかがわたしにオッケーサインを出した。

 本当のところ、あの家に行くと春紀に会うかもしれないから、テンションが下がる。春紀に会いたくないことを、まどかに知られたくないから、なんでもない振りをするのも、ちょっと重い。

 春紀は、千賀家の四男でまどかの従姉弟で、父の雇い主の息子であるが、一年ほど前から突然変な行動をとるようになって、困っているのだ。


「ちぃはどれにする?」


 モントレオリーブは、一階の中央に円形のショーケースが置かれている。その日販売されているケーキが、小さなアントルメ台に美しく並べられていて、好きなケーキの番号札をレジまで持っていき購入する。


「ホワイトマカダミアチーズケーキ」

「言うと思った」


 まどかは笑って、目当のカードを引き、レジに向かった。ここのケーキは一つが通常のケーキの一・五倍の大きさで、七〇〇円以上する。余っていたクッキーを渡しただけなのに反って申し訳ない。多分、クッキーが売れたというのは嘘で、単なるお礼のつもりなのだろう。そういうところ、異常にきっちりしているから。


「おまたせ。行こう」


 まどかがケーキの袋を下げて戻ってきた。テイクアウトの方は、割合空いているらしい。

 千賀家は、東町でも取り分け大豪邸が並ぶ一画に位置している。公道から一本折れて私道に入ると長い塀が続く。綺麗に剪定された青葉が塀の内側から頭を出している。突き当たりを左に折れると正門がある。

 チャイムを鳴らすと「お待ちしておりました」とお手伝いの佐木さんの軽やかな声がした。 佐木さんは、一年程前から千賀家で働いている。前の家政婦さんが定年退職してから、代わりに派遣されるようになった三十代後半の感じのいい女性だ。


「これ、三つ入りがわたし達の分で、二つ入りの方が、佐木さんとアヤカちゃんの分。持って帰って食べてね」  


 まどかが、ケーキの袋を差し出して言った。流石だ。育ちがいいというか、こういうのって暖かくて安心する。


「アヤカちゃんって?」


 リビングに向かう廊下を歩きながら、まどかに尋ねてみる。


「佐木さんの娘さん。うちらと同い年よ」


 わたしの母が生きていたら、五十四なので佐木さんは随分若く思えた。


「会ったことあるの?」

「あるある。こないだのうちの学校のバザーにも来てくれたよ」

「佐木さんに似てる?」

「うーん。雰囲気は似てるかな」


 だったら、多分感じがいい子なのだろう。

 リビングに入ると、窓辺のソファに陽子さんが座ってふんわり笑っていた。手招きされるまま近寄る。陽子さんは、少し足が悪く立ったり座ったりの動作が厳しい。


「まどかちゃんも、ちぃちゃんも、全然遊びに来てくれないから寂しかったわよ」

「ちぃは、部活始めたからね」

「あら、何部?」

「クッキング部。まだ入部したばっかりだけど」


 わたしの答えに、陽子さんは意外だという顔をした。それはそうだ。わたしは、父に似て料理が苦手なのだ。

 高二で友達になった同じクラスの木部美優に「廃部になりそうだから幽霊部員でいいので入って」と頼まれて入部した。でも、ちゃんと週一で活動している。わたしの他に七人部員はいるらしいが、会ったことがあるのは、部長の木部ちゃんと、副部長の千秋高虎だけだ。この千秋君が、なかなかいいキャラで、初対面で「渡千冬?  じゃあ、オレと結婚したら千秋千冬か!  めっちゃいいね。よし嫁にしよう」と言い出し、以降わたしを「お嫁ちゃん」と呼ぶ。「折角入部してくれたのに、キモいこと言うな」と木部ちゃんに何度も怒られているが懲りない。最近は、その呼び名がすっかり定着してしまった。


「結構面白いから気に入ってるよ。まどかは何か部活しないの? ビーズ部とか」

「そんな部ないよ」


 まどかは最近ビーズアクセサリー作りにはまっていて、わたしにもクマのキーホルダーをくれた。昔から手先が器用で細かいことが得意だ。

 ノックの音と共に、佐木さんがお茶とケーキを運んで来てくれた。

 一瞬、春紀ではないかと背筋が伸びたが、玄関にいた時点でやって来なかったので、多分留守だ。

 豪華なティーセットがテーブルに並べられていく。わたしは、どちらかと言えば、コーヒー派なのだけど、千賀家では紅茶が主流だ。毎回いろんな種類のお茶を淹れてくれるので名前だけは詳しくなった。


「生きてて良かったレベルで美味しい!」

「ちぃって、甘い物食べると大概そう言うよね」  


 まどかがティーカップを優雅に持ち上げて言う。お嬢様圧が凄い。マリーアントワネットのお茶友にいそうな風貌だ。 家が広いせいか、家主の空気感か、この家に来ると時間が緩やかに流れる気がする。


「二人とも、再来週の日曜日は空いてる?  バーベキュー大会があるんだけど」


 陽子さんがわたしとまどかを交互に見て言った。


「あ、はい。父から聞いてます」


 バーベキュー大会は、千賀グループの福利厚生行事の一つで、毎年六月に開催される。従業員とその家族を労うもので、バーベキューと言っているが、イタリアンやフレンチのケイタリングが用意され、本格的な豪華で美味しい料理が並ぶ。わたしも毎年参加させてもらっているが、去年は体育祭と重なって行けなかった。

 今年は参加を表明すると「良かった」と陽子さんは小さく手を叩いた。四人の子持ちなのに、見た目若いし可愛い人だ。



 三人でいると話は尽きない。あっという間に五時過ぎになって、夕飯を食べていくように勧められたけど、家に用意があるから、とわたしもまどかも帰路につくことにした。

 陽子さんとはリビングで別れて、玄関で靴を履いていると、帰って来た春紀と鉢合わせしてしまった。

 どうしても駅まで一緒に来るという。


「あんたは来なくていい!」


 と、まどかにぴしゃりと断られたのに引き下がらず、流石にまどかもそれ以上は文句を言わなかった。わたしとまどかが並んで歩く一歩後ろを春紀が付いてくる。昔はわたしが一番長身だったが、一六○に満たずに止まってしまった。まどかは一六六あり、春紀は更にその頭一個分高い。春紀がわたしの真後ろを歩くので、前方に映し出される影が、妙に長く伸びている。


「来るなら、言ってくれればいいのに」


 春紀がぶちぶちと言う。


「あんた用事があったんでしょう」


 まどかが冷たく遇らう。春紀は昔からまどかに弱い。春紀に苛められるわたしを、まどかが助け、まどかに怒られる春紀を、わたしが慰める。じゃんけんみたいな関係だ。

 まどかの圧に春紀は黙り、まどかは気にすることなくわたしだけに話し掛ける。まどかと春紀はあまり仲が良くない。

 駅までついて別れ際、「じゃあ、またメールするから」と残してまどかは帰ってしまった。春紀と気まずい空気だけが残る。春紀にスマホを持ち始めたことを言っていなかったのも、後ろめたい。別に教えろとは言われていないし、春紀はスマホを持っていないので教えたところでどうともないのだけど、確実な拗ね案件だろう。


「スマホ買ったの? なんで?」

「いや、みんな持ってるし」

「みんなって?」

「まどかとか、高校の友達」

「ふうん」


 春紀は気があるのかないのか二回そう言って、右手で右の目頭を押さえた。面倒くさい。

 丁度、改札から乗降者の群衆が溢れ出て来た。まどかが乗って帰った電車に乗車していたのだろう。同じ年くらいの女の子の二人組が、春紀を見ているのがわかった。残念なことに春樹はとても格好良い。雑踏の中でも、ちょっと目を引くほど抜き出ている。しょうもないことで拗ねるくせに、ずるい気がする。何がと言われても答えられないけど。

 人の流れと共に駅の雰囲気が一気にご帰宅モードとなったので、それに便乗して帰ることにする。


「じゃあ、わたし自転車なんで」

「うん。出口で待ってる」


 別れるつもりで言ったのに伝わらなかった。「自転車に乗って帰った方が早いのだよ」と言えば、また拗ねるだろうなと思った。




 千賀春紀はかなり癖のある性格で、元々はあまりわたしに好意的ではなかった。わたしに、というか女子全般に。

 幼い頃の春紀は、見た目が華奢で小柄で女の子みたいだった。クラスの女子から、人形みたいに可愛いと人気があった。そのことに腹が立ってしかたなかったのだ。本人的に、触れられたくない心の傷を抉られているように感じていたのだろう。

 春紀は、四男ではあるけれど、他の兄弟とはかなり年が離れていて、事実上ひとりっ子のように育った。

 両親が女の子を欲しがっていたこと、出産の際、陽子さんが足を悪くしてしまったこと、それなのに自分が男の子として生まれてきたことを、幼い時から、悪意ある噂話として知っていた。女の子ではないのに女の子みたいな容姿がそれに拍車をかけ、いろんなことを物凄く拗らせてまくって、生意気で、独りぼっちで、反抗ばかりしている厄介な子供だった。陽子さんが、女の子であるわたしを可愛がるのが最大級に気に入らず、影でよく苛められていた。今思い返せば理不尽すぎる話だ。確かにわたしは陽子さんが大好きだったし、本気でこの人がお母さんだったらいいのにと思った。けれど、自分の子供より他人の子が可愛いわけもない。性格に難がありすぎて友達のできない春紀の、唯一の友達がわたしであり、だからこそ陽子さんは余計にわたしを可愛がってくれたと言える。それなのに、春紀はわたしに八つ当たりしまくって、自分は不要な子なんだど、更なる思い込みの悪循環を生んでいったのだ。陽子さんは、春紀に充分な愛情を注いでいたし、春紀が勝手に拗ねているだけで、千賀家の人間は、春紀のことを誰も何も責めていなかったのに。そりゃあ、こっちの我慢も限界があるってもんだ。


「いい加減に被害者ぶるのは止めなよ」


 業を煮やしたわたしが、春紀に告げたのは小学校三年の夏休みだった。散々嫌がらせを受け、山積された感情が雪崩れてしまったのだ。

 その日の春紀は、わたしが浴衣を着せて貰っているのが気に入らなかった。夏祭りに行こうというのに、部屋に籠って出てこなかった。

「行きたいなら、二人で行け」と無茶苦茶なことをいう。 陽子さんは困り顔で「春紀が出てくるまで、もう少し待ってね」と、しきりに謝り通しだった。自分の子供を置いて、よその子と出かけるはずがないし、春紀が行かないならわたしも行かないと言ったところで、陽子さんは気を使う。

 浴衣なんか着せてもらうんじゃなかったなと思うのと、そう思う自分に悲しくなってしまった。わたしは、陽子さんがとても好きだった。母親のつもりでいた。でも、こんなとき、わたしの母ではないのだな、と自覚してしまう。このまま祭りに行かずに浴衣を脱ぐことになったら、どんな顔をしたらいいかわからなかった。泣いてしまうんじゃないかと思った。それが、不安でたまらなかった。


「陽子さんはハル君のお母さんなんだから、わたしよりハル君が可愛いに決まってるよ。今から行って聞いてみたらいいよ」


 わたしは、春紀の部屋まで行って、春紀の思っているようなことは何もないのだ。今から証明するから一緒に来るように告げた。強い口調だったけど、怒りというより懇願だった。嫌がる春紀の手を引いて、陽子さんの元へ連れて行った。

 春紀は、本当は陽子さんが大好きで、自分が要らない子なんだと勝手に思っていること、捻くれた態度は構って欲しいからで、わたしに焼きもちを焼いているだけであることを、洗いざらい暴露した。

 結果、春紀が大泣きして、以降、頑なに自分の殻にこもる態度をとることは減っていった。

 最も、一旦形成された春紀の性格がそれだけで変わるわけはない。わたしとの関係がすぐに和睦に繋がることはなかったし、女嫌いも相変わらずだった。

 しかし、皮肉なことに、中学三年の夏頃から、春紀の身長は急激に伸び始め、可愛らしいさが鳴りを潜めると、モテ指数がどんどん高騰していった。

 顔の作りは元々美しく整っていたが、それがシャープで男っぽい感じに変わり、偏屈でとっつきにくい性格も、ミステリアスでクールと評され、おまけに千賀グループの御曹司なのだから、そのスペックは完全に王子様だった。

 わたしは春紀の中身まで賞賛する気はなかったけれど、その顔だけは格好いいと思うようになっていた。

 とにかく顔が物凄く好みなのだ。生理的に好きとしか言いようがない。春紀となんの蟠りもなく、中学で出会っていたら、確実に恋していただろう。中身さえ、ああでなければ、どんなに良かったか。いろいろ残念で、不毛な感じで、わたしは密かに春紀の顔のファンだった。春紀は、相変わらず、わたしにも他の女子にも無関心だったけれど。

 事件が起きたのは中学三年のバレンタインデーだ。卒業間近だし、みんないつもより気合いが入っていたと思う。まぁ、大半は高校もそのまま進級するのだけれど。

 モテ男の座を欲しいままにしていた春紀に対して、チョコレートを渡そうとする女生徒の視線と気迫と牽制しあう空気が、集中していた。

 わたしは毎年、春紀の父の社長さんと春紀に、手作りのチョコチップクッキーを渡していた。

 中学まで、父の車で春紀と一緒に登校していたから(大半の生徒が送迎車で登校していた)その年も例年通り、朝一番で、恒例行事を済ませていた。

 ただ、それは義理チョコだから渡しているのであって、わたしは、自分が告白するなら絶対にバレンタインデーは選ばない。みんなで一斉に告白する日なんて、作るべきじゃないと考えていた。

 順番次第で、結果が変わってしまう気がするのだ。

 丁度その年、わたしが思っていた悪夢が起こった。友達がチョコを渡す前に、その彼は、先に告白した女の子と付き合い始めてしまったのだ。

 タイミングの問題じゃないか、こっちが先なら、こっちを選んだのではないか。好きと言われたら、好きになってしまうこともあるし、自分に好きな人がいないなら、付き合ってしまうこともある。始めから両思いだった二人なのかもしれないけど、告白できなかったこちらとしては、後悔が残る。

 バレンタインデーに告白されたら、すぐに付き合うのは、禁止してほしい。一日経ってから返事をしなければならないなら、伝えられずに抹殺される思いもなくなるはずだ。

 わたしも他の友達も、告白できずに失恋してしまったその子に、かけてあげられる言葉をもっていなかった。


「もう最悪だから、このチョコは今から自分で食べる! みんなも付き合ってよ」


 彼女が、そう言ってくれて良かった。焼け食いするタイプで良かった。そのパワーが残っていてくれて良かった。




 緊急の女子会が開かれることになったので、父に先に帰るように伝える必要があった。

 わたしは基本的に、春紀の送迎に便乗させてもらっているスタンスなので、春紀と時刻がずれると、電車で帰ることになる。

 この学校は山の手の広大な敷地に、幼稚園から大学までの施設があり、最寄駅まで、バスが出ている。

 帰宅部で、普段学校帰りに遊びに行かないわたしは、大概、春紀と共に帰った。たまに、遅くなるときは、前もって伝えておく。今日はイレギュラーなので、当然連絡ができていなかった。  

 中等部の生徒のための駐車場は、校舎からかなり離れていて、携帯を持っていないわたしは、脚力に頼るしかなかった。(友達の携帯を借りて、父親に電話はない)




 毎日のことなので、それぞれの家の車が大体定位置に停められている。父が車窓を下ろすタイミングで、声をかけた。


「今日は、友達と残るから、先に帰って」

「バレンタインだからか? 春紀くん以外に渡す人なんかいるの?」


 走って来たせいで、息があがっている。


「デリカシー!」


 絞りだして、踵を返す。みんなを待たせているので、トンボ返りしないといけない。


「あんまり遅くなるなよ」


 父は笑って手を振った。多分、父は、父親がうまい人だ。母を早くに亡くした分、その才能が開花したのだろう。

 料理は下手だったけど、家はいつも綺麗で、生活は規則正しくて、フットワークが軽い。そして、母のことをよく話す人だった。思いを引きずるというより、母が生きていたら、こうしていたから、君にもそれを伝えておくよ、と日常のリズムにさらりとハモらせてくる。多分、心が安定しているのだ。




 教室に戻ると誰もいなかった。


`売店でお菓子買って、中庭にいるね。三組の高橋さんが、捜してたよ'


 机のメモ書きを読んで、うわっと思った。以前、わたしは、高橋さんに春紀との仲を取り持つように、頼まれたことがあった。

 結構がんがん来る恋愛至上主義者で、側で見る分には面白いけど、巻き込まれたくないタイプだった。丁重にお断りすると、なぜ駄目なのか、わたしも春紀を好きなのか、としつこく詮索された。

 高橋さんは、目立つし、その手の噂話は後をたたないから、下手なことを言えば、わたしまでその渦中に巻き込まれる。


「小学生のとき、一回振られてるから、もう恋愛絡みで、千賀君と関わりたくない」


 そう答えると、流石に引き下がった。この振られた話は本当だ。


「ちぃちゃんが春紀のお嫁さんになってくれたらいいわね」


 千賀家での何かの集まりだった。おめかしした小学生の男の子と女の子を見て、微笑ましく思った誰かの、他愛ない発言だったはずだ。

 しかし、春紀は、それに過敏なくらい反応して、全力で否定した。

 わたしは、子供ながらに立場上拒絶できず、へらへら笑っていた。凄く嫌だったのに、凄く我慢して。それなのに、春紀だけが、好き勝手言うやり取りがあんまりしつこく続き、わたしは、不覚にもボロボロ泣きだしてしまった。

 春紀もわたしを嫌いかもしれないが、わたしはそれ以上に春紀が嫌いなんだと言いたくて、言えないのが悔しかったのだ。

 周囲は、春紀がわたしを袖にしたことに対する涙だと勘違いし、更にそれを春紀が「自分が悪者にされた」と怒り、拗ねまくって、あげく、部屋に籠城するという大惨事になった。まさしくの黒歴史なのだ。

 高橋さんは、あの後、別の男の子と噂になっていたけれど、まだ春紀を好きなのだろうか。

 一応、三組の教室の前を通って、中庭へ向かうことにする。誰もいない。いないので、仕方ないなとほっとしていると、後方の廊下の端から、名前を呼ばれてしまった。


「渡さん、待って」


 振り向くと、高橋さんが小走りにやって来た。もう、観念するしかない。


「なんか、わたしを捜してたって?」

「千賀君、渡さんのこと振ってないって」

「は?」

「前に、千賀君に振られたから、もう恋愛はしたくないって言ってたでしょ」


 誰もそんなこと言ってない。びっくりして、反論もできなかった。


「あたし今幸せだから、渡さん達にも幸せになってもらいたいの」


 テンションと思い込みの強い子だなと、感じていたけれど、カオスすぎて意味がわからない。


「もう一度、千賀君に告白してみなさいよ。今度はうまくいくから!」

「いや、まぁ、有難う」


 恋愛脳恐るべし。流すのが何よりベストだろう。


「それじゃあ」


 バイバイと言おうとするわたしの言葉に被せて、高橋さんが言った。


「うん。それじゃあ、一組の教室に行って。千賀君が待ってるから。頑張ってね」


 驚きすぎて喉が詰まった。意味がわからなすぎて、声が出てこない。卒倒しそうなわたしをよそに、高橋さんが、軽やかに去って行く。彼女の背中に向け、辛うじて叫ぶことができた。


「ちょっと、わたし行かないよ!」

「女なら、根性みせろよ!」


 高橋さんは、振り向きざまにわたしを指差して、完璧なポーズを決めた。漫画か。話しの通じない人って本当にいるんだ。信じられない。

 呆然とするわたしを置いて、高橋さんは廊下の先にいた男子と帰ってしまった。

 友達を待たせているのも気になったけれど、春紀を放ってもおけない。一組に行かなければならなくなった。

  一組の教室には、数名の生徒が残っていた。廊下とは反対の窓際、前から三番目の席に、春紀が座っている。わたしが近づくと読んでいた本を閉じた。


「高橋さんに、何か言われた?」


 周りの人間に聞こえないように小声で言う。春紀はちょっと間をあけて、わたしと同じように小さな声でぼそぼそ言った。


「渡さんが、オレに振られたトラウマで恋愛できなくなってるから、助けてあげろって」


 頭が痛くなってきた。高橋さんって、どういう人なのだろう。


「わたし、トラウマになるようなひどい振られ方されたなんて言ってないよ」

「わかってる」


 春紀は、右の目頭をしきりに押さえていた。これは、何らかの感情を抑制しているときの、春紀の独特の癖だ。こうなると後は、黙り込んでしまう。「何? どうしたの?」と聞いてあげる気はない。


「じゃあ、わたしは、今日は遅くなるから。父さん待ってるよ」


 そう残して離れようとすると、予想外に春紀がポツリと言った。


「いい加減、被害者面するの止めたら?」


 わたしがかつて春紀に言った言葉だ。


「何?」

「やり方が、卑怯だって言ってんの。まるでオレが振ったから付き合わないみたいに、勝手に言いふらして、しつこくないか? オレを悪者にして、いつまでも牽制するの止めろよ」


 どっちがしつこいのか。自分は悪くないって、まだそれを言うとは思わなかった。自己保身が酷すぎる。大体、人を振ることは悪ではないし、別にそれで春紀の株は下がらないはずだ。モテますね、で済む話だろう。


「何にも言いふらしてないし。第一、わたしの方が、振られたって言っているんだから、よくない?」

「ほら、それ。振られた、振られたって、それでオレが何にも言えなくなると思ってるだろ。本気で、腹立つわ」


 なにかまた、拗らせているなと思った。性格が屈折しているから、物事を歪んで捉えるのだ。春紀は黙って、再び目頭を押さえた。

  確かにあの件は、お互い黒歴史で、春紀なりに思うところがあるのだろう。迂闊に他人の高橋さんに言ってしまったことは、悪かった。早く中庭に行かないといけないので、もう終わりにする。


「わかったよ。もう言わないようにする。あのことは、なかったことにするからさ。友達が待ってるから、行くよ」

「待ってよ」


 春紀は急に立ち上がって、わたしの腕を掴んだ。教室に残っている人の視線が集まるのがわかった。すぐに、手を振りほどいて、小声で返す。


「だから、もう言わないって」


 すると、春紀も誰にも聞こえないように言った。


「なかったことにするなら、付き合ってよ。今から千冬ちゃんは、オレの彼女だから」


 日頃、無表情の春紀の顔が、更にこわばって硬直しているように見えた。ただでさえ、考えていることが、汲み取りにくいのに、困る。どこから何に手をつければいいか、当惑してしまう。

 振ったことをなかったことにしても、付き合うことにはならないのだよ。そもそもわたしは、春紀に告白などしていない。

 春紀は、じっとわたしの目を見たまま「冗談じゃないよ。別に損はないだろ」と念を押した。冗談なんて言わないのは、知っている。


「じゃあ、そういうことで」


 わたしが何も言い返さないので、春紀は一人で頷いて、さっさと教室を出て行った。

 斜め上からの展開に、阿鼻叫喚する状況だったが、わたしは意外に冷静だった。困っているから、答えられなかったのではなく、見た目だけはすっかり男前になってしまった春紀に、損はしないと言われて、不覚にも納得してしまったのだ。

 中庭で友達が待っているのに、しばらくその場で、立ち尽くしていた。春紀は今でも、わたしを千冬ちゃんと呼ぶのだなと、ぼんやり思った。




 夜になって、物凄い罪悪感が襲ってきた。

 わたしは春紀の顔だけが好きなのであって、それで付き合うとかはないなと思った。だってそんなの陽子さんに申し訳ない。心が痛んだのだ。

 彼女が、自分の息子の顔とその他のスペックだけを考えて付き合っているとか、腹が立つ。(というか春紀め、自分で損はしないとかよく言ったな)

 わたしだったら、全てを受け入れてくれて、愛情を注いでくれる恋人と付き合って欲しい。物欲的な女に引っ掛かって欲しくない。

 春紀が何を考えてあんなことを言いだしたのかは、おおよそ予想は出来ているのだけれど、それに対抗してわたしまで、損得勘定で動いたら駄目だ。

 春紀は、自分のことをペラペラしゃべるタイプではなかったけど、父や陽子さん達に知られる前に、拒否しないといけない。

 明日学校で、こっそり呼び出して、がつんと言ってやろう。

 その夜、わたしは自責と懸念で眠れぬ夜を過ごした。しかし、そんなわたしの不眠の思いの必要性は皆無だった。次の日、春紀は驚くほどの通常営業だった。正直、ちょっとがっかりするくらい。

 朝、車に乗って「おはよう」といい、帰る時は「じゃあ」と言っただけだ。次の日も、その次も、中学を卒業するまで、春紀はまるで、何もなかったように、振る舞い続けた。

 春紀が何もないようにするなら、わたしから、ぶり返すこともない。初めは、小骨が喉に刺さったようで、気持ち悪かったけど、放置していたら、いつの間にか消えていた。

 その後、中学を卒業し、高校が別れて以来、急速に接点がなくなっていった。まどかと共に、陽子さんの元に遊びに行っても、春紀が部屋から出てくることはなかった。




「千冬ちゃん」


 突然それは、始まった。六月半ばの梅雨の止み間。体育祭が終わったばかりなのに、もう期末試験が来るという、怠い日だった。

 駅の駐輪場の入り口に、春紀が立っていた。濃紺のパンツに白いシャツ、左胸に白い校章の刺繍が入っている見慣れた制服姿だった。ネクタイの色だけ、臙脂色のストライプに変わっている。

 名前を呼ばれて、振り向くと、春紀はその場で立ち止まった。会話をするには、ちょっと離れすぎている距離だ。


「それ、高校の制服だよね」


 春紀はそれ以上近寄ってくる気配はない。そのまま話をするつもりらしい。


「そう、セーラー服、一回着てみたかったんだよね」


 スカートを広げるように摘んでみせた。向こうが普通に話しかけてくるので、こっちも平然と返す。変な感じにしたくない。


「いいと思うよ」

「え?」

「かわいいよ」


 何ヶ月ぶりかに直接話しかけられて、困惑している上、かわいいとは何事か。

 わたしの知る春紀は、女子にそんな軽口を言えるタイプではない。

 焦ると言葉に詰まってしまうのが、わたしの常だ。「そうでしょう。セーラー服かわいいでしょう」と流せずに、無言になってしまった。

 顔が熱い。急激に体温が上がっていく。夕暮れ時だったから、頬の紅潮は、わからなかったはずだ。

 春紀も、夕日に照らされ赤い顔をしていたが、その顔つきは、険しい。罰ゲームでもやらされているような、嫌々な感じが出ている。かわいいと言っておいて、その態度はない。どういうつもりなのだ。


「じゃあ、また」


 春紀はそう言うと、わたしが何も言う前に帰ってしまった。 なんだったのか。変な気まぐれ止めてほしい。しかし、そんなわたしの思いとは裏腹に、春紀のそれは、以降も続いた。

 気まぐれではなく、二週間に一度、必ずわたしに会わなければいけない決まりを勝手に制定していた。

 ルールは簡単で、偶然でも故意でも、最後に会った日から、二週間以内。例えば、陽子さんに会うために、春紀の家に行って、一瞬顔を合わせただけでも、一カウント。そんな鉢合わせがない時は、駅の駐輪場で待っていて、無理やりにでも、家の前まで一緒について帰ってくるのだ。

 どういうつもりか、理由は言わないし、不気味な状態が、二ヶ月続いて、結局、わたしが折れた。

 勝手に待たれていても、待たしているプレッシャーを感じるので、会う日を決める提案をした。

 毎月第三日曜日のお昼に、カレーを食べに行く。春紀は、すんなりこの案に乗り、変な二週間ルールは消えた。よかったのだけど、結局、何がしたかったか、不明のままだ。

 今は安定しているが、また変な行動をとり始めると困るから、不必要に春紀に会いたくないのだ。




 自転車をとって駅の駐輪場から出ると、外は、ゆっくりと日が暮れ始めていた。春紀が代わりに自転車を押してくれると言うので、わたしはその右横を歩いた。間に自転車がある状態だ。一年前はこんな風に並んで歩くことがあるなんて思っていなかった。変われば変わるものだ。


「料理部どう?」

「クッキング部」

「同じじゃん」

「ニュアンスが違うでしょう」

「よくわからん」


 変なところに拘るのは、お互い様だ。料理でもクッキングでも、あまり興味がないのだろう。


「で、どんな感じなの?」

「まぁ、いい感じ。割と楽しいよ。そっちは、なんかあった?」

「別に、何もない。まぁ、無事な感じ」

「微妙な表現やめてよ。心配になるわ」


 春紀が、短く笑う。 いつの間にか、わたしが一歩前を歩き、春紀が斜め後ろを歩く格好になっていた。自転車を任せているせいだ。春紀はあまり自転車に乗らないから、押しながら歩くのが不得手なのだ。


「再来週、どうするの?」

「バーベキュー? 行くよ。今日も陽子さんに誘ってもらったし」

「カレーは?」


 再来週は第三日曜日だ。カレーの日だけど、元々カレーを食べるのが目的じゃないのだから、春紀もバーベキューに来るだろうし問題ないと思っていた。

 春紀はそれを聞きたかったので、付いてきたのか。春紀はスマホを持っていないので、用事があるときはパソコンにメールを送ることにしている。

 だけど、わたしはあまりメールチェックをしないので、気づくのは日曜日の直前になってからだ。もしかしたら、メールが送られてきているかもしれない。


「カレーどうでもよくない?」


 言った後、誤解を生じさせる言い方だったなと後悔した。案の定、春紀が黙るので「カレーはまた、来月で。たまにはバーベキューもいいじゃない。ハル君も、行かないわけには、行かないでしょう? 」と付け加える。もっと拗れるかと思ったけど、春紀は「わかった」と素直に答えた。今日は、割と機嫌がいいようだ。

 マンションに着いたので、自転車を受け取る。日が沈んできたので、乗って帰っていいよと言おうかと思ったけれど、余計に危ないだろうから止めた。乗るのも苦手なのだ。お坊ちゃん。


「それじゃあ、再来週」

「うん。またね」


 駐輪場に向かおうとするわたしに、春紀がふいに問いかけた。


「ねぇ、なんでカレーなの?」

「え?」

「だって、千冬ちゃん、あんまりカレー好きじゃないでしょ」

「そんなことない。カレーは日本人の国民食でしょうよ」

「ふうん。まぁ、別にいいけど」


 春紀は、ちょっと怪訝そうだったけど、それ以上追求してはこなかった。月一でカレーを食べに行ったって、おかしくないはずだ。理由を知ったら、たぶん怒るから言えない。





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