6
体の痛みで意識を覚ました昭子の目に映ったのは、遥か向こうまで一面に積もる枯葉だった。
はっとして身を起こし、あたりを見回す。
すぐ近くに小春の姿を見つけると呼吸を確認し、ほっと息をついた。
斜面を見上げるが、通ってきた道も人影も見えない。
試しに呼びかけてみたが、返ってくる声はなかった。
空はまだ明るい。けれど、この時期は日が暮れると急に冷え込む。日が暮れるまえに山を下りないと耐えられないだろう。
昭子はそうっと立ち上がった。
あちこち痛むし、着物も汚れたりほつれたりしているが、歩けない程ではない。
その時、小春が目を覚ました。
「ん……昭子さま」
「大丈夫? 歩けそう?」
小春に肩を貸し、身体を引き上げる。
「はい」
「じゃあ山を下るわよ。そんな標高も高くない山だし、斜面を下ると川があるはずよ。地図では確かに街は東側にあったはずだから、川沿いに東へむかう。あっちには道明がいるから、きっと合流できる」
「わかるのですね」
「家で地図を見つけたから暇な時に眺めていたことがあったの。道明とは昔、山で一緒に迷子になったことがあるだけよ。その時も川沿いに歩いて戻ったの」
木の幹を伝いながら、少しずつ下へ降りていく。
その間、終始無言だった。
ただでさえ面倒なことに巻き込まれて辟易しているというのに、気分を悪くしてまで苦手な人間と関わり、挙句の果てには遭難だ。
しかも、昭子とて動くことに慣れているわけでもないのに、小春はそれよりも遅く、気をつけていないと置いて行ってしまう。
少し前まで怪我をしていたとはいえ、これほどまで鈍いとは。
これ以上なにかあろうものならば怒鳴ってしまうだろう。
二人が川沿いへ辿り着いた頃には、日はだいぶ西へと傾いていた。
道明や実幸らの姿は見えない。
呼びかけてみるが、返答はなかった。
小春に声を掛けようと振り返ると、岩にもたれかかりかろうじて立っている姿が見えた。
「ちょっと足をみせて」
強引に座らせ着物の裾をめくると、赤黒くはれ上がっていた。
「どうして言わなかったの」
「大丈夫だと思ったんです」
「貴方、これ以上ひどくして子供に迷惑かけたくないって言ってたわよね。わかっているならちゃんと言いなさい」
「はい」
昭子は羽織を脱ぐと裾を破った。
「お召し物が……」
「黙ってなさい。着物はまた買えばいいんだから」
川の水に浸し絞る。
それを足に当て、その上からさらに布を巻き、出来るだけ固定する。
「これで少しはましになるでしょう。少し休みましょう」
昭子は近くの大きな石の上に腰をおろした。
「……申し訳ありません」
「私もこんな時期に外に連れ出したのは軽率だったわ」
このまま夜を迎え、寒さで死んでしまうかもしれないが、それも運命のように思えた。
ただ、この娘には待っている存在がいる。
「心配しないで。貴方だけは何があっても家へ戻すから。夏彦が貴方を待っているわ」
途端に小春が目を見開く。
「夏彦の名前、覚えてくださってたんですね」
「聞いていれば自然と覚えるものでしょう」
「嬉しいです。昭子様は私たちが嫌いなんじゃないかと思っていたから」
「……嫌いよ」
ほんわりとした小春の空気が、水をかぶった蝋燭のように消える。
「もしかしたら最後かもしれないから言っておくわ。私は貴方みたいに、夫と子供のために生きたいと思ったわけではないし、それを幸せだと押し付けられるのも嫌いなの。夏彦に会わせようとしているときも、可愛がれと言われているようで嫌だった。それに、貴方みたいに実幸様が好きで一緒になったわけではないの」
今となっては遠い昔。
昭子には好きな人がいた。
ただなんとなく、一生を沿い遂げるのならばこの人がよいと思うくらいの。
けれど、この世はそう上手くいくわけがない。
結局、よく知らない男に見初められ、親の勧めもあって結婚した。
夫を愛したこともないが、自分を不幸だと思ったこともない。
よくある話だ。
泰子様のもとで学んだことを活かしつつ、自由に物語に耽りながら生きられるのなら、そんな人生も悪くないと思った。
あの人への気持ちも、今ではもう思い出せない。
大好きな人と結婚し、子を授かり、幸せで一杯のあの子には、きっとこの気持ちはわからないだろう。
わかって欲しいとも思わない。
ただ、何も触れずにいて欲しいのだ。
それなのに、人の心に土足で上がりこもうとする。
その行為を、友好的だと勘違いしている。
そんな彼女が好きになれなかった。
「だから嫉妬して殺そうとしている噂を信じていたらご愁傷様」
まるで負け犬のようだと、昭子は自嘲する。
返ってくるのは侮蔑か嘲笑か憐みか。
「……だから、何もお話しされないのですか?」
けれど返ってきたのは純粋な問いかけで、昭子は面食らった。
「どういうこと?」
「実幸様はいつも、昭子様のことがわからないって悲しい顔をされます。貴子様が女御になられた時、泰子様は帝に捨てられたって心無いことを言う人がいらっしゃったのでしょう。その人達を和歌の腕で言いくるめた昭子様が素敵だったって、だから好きになったって仰ってました。嫁がれてからは心を許せる相手もいなくて、泰子様の側から離すべきじゃなかったって悔やまれておりました。だから私は九条家に来たのです」
そんなことは初耳だ。
実幸から小春を紹介されたときも、そんなことは言っていなかった。
「私と一緒にいたら、昭子様は昔のことをきっと思い出させるからって。それに私、白梅物語が大好きで」
「え?」
混乱する脳内を聞き逃せない単語が耳をよぎり、怪訝な声を出す昭子に、小春は「あっ」と口元に手を当てた。
「どうしてその話を知っているの」
自分の趣味で書いた物語を「白梅物語」と名付けたのは泰子だ。
「この話の凛とした梅姫は紅梅よりも白梅が似合うと思うの」
あの物語は書いたら満足したため、欲しがる泰子に献上した。
それをどうしてこの娘が知っているのか。
「えっと、泰子様が孤児院を出た子たちがしばらく働けるような仕組みを作ってくださって、私、泰子様の元で働いていたことがあるんです。昭子様はご存知ないかもしれませんが、何度か会っているんですよ。で、そのぅ、その時に写本を読みまして」
「写本!?」
「どなたかが、泰子様の元にあった本を手元に置いておくために書き写したらしくて、それの写しが使用人の間で回し読みされてたのです」
「……なんてこと」
あんな、ただの趣味でしかない、出来が良いとはいえないものを。
手で顔を覆い、深いため息をつく。
「高飛車だけれども、他人には見えないところで知り合った若君を気に掛けるところが、あの梅姫にこういう一面があると考えるといじらして放っておけなくて。私の周りでは梅姫派の人が多いんですよ」
そんな昭子には気づかないのか、小春の声に熱がこもっていく。
「違う見方ができるってすごいなぁって、昭子様はきっとそういう方なのだと憧れていました」
「残念だったわね。期待はずれで。あれは単に梅桃物語が気に入らないからそういう話にしただけよ」
実際は人と関わるのが嫌いな、冷たい人間だ。
「確かに思っていた通りの方ではなかったですけれど。冬に若菜さんがやめてしまったことがあったでしょう」
あれは確か、ある女中が既婚者の侍従を誑し込んでいたとか、そんな馬鹿げた話だったはずだ。
結局、悪いのは侍従の方だったのだが、大きな問題となってしまったため二人とも解雇とし、女中には新しい雇用先を紹介したのだった。
「あの時、昭子様は若菜さんを信じたでしょう。辞めなくてはいけなくなったけれども、信じてもらえて嬉しかったって。若菜さんは言っていました」
「あの子は好き嫌いせずに真面目に仕事をしていた子だったから。男を誑し込むとか信じられなかったし、納得できなかっただけよ」
「人の話を鵜呑みせずにきちんと見ているって出来ないものです。そういうところは白梅物語の作者さんだなって思いました」
この子の発想は理解できない。
「昭子様を助けられたら。子どもや親戚の対応は私がして、その他の難しいことを昭子様がして、昭子様が大変だったら私が助ける、みたいになれたらと思っていたんですけれど。迷惑ばっかりで。申し訳ありません」
今までの行動は押し付けていたのではなくて、ただ単に会話の糸口を探していたということなのだろうか。
話し込んでいるうちにも日は傾いていく。
「そろそろ立てるかしら」
肩を貸しながら小春を立ち上がらせる。
「そんな。昭子様に介助なんてしてもらえる身分じゃ」
「いいから。早くしなさいな」
いろいろな想いに溢れ苦しくなった心をごまかすかのように、昭子は現状に向き合った。
触れた腕から小春の体温が伝わる。
温かいと思った。
温かいのだと、初めて思った。