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小春の部屋にたどり着く前に、着物を改められ、隅々まで調べられた。
噂が大きな力を持つというのは宮中にいたときにわかっていたことだが、それが屋敷の中でもこんなに力を持つとは思わなかった。
仮にも女主人なのに、だ。
しかしこの事実こそが、小春がこの家にとって失ってはならないものという証なのだろう。
「まぁ。昭子様。こんな姿で申し訳ありません」
簡素な着物姿で寝台に腰掛ける小春は、嬉しそうに顔をほころばせた。
元気そうだが、右足は固定され、包帯が巻かれている。
「足の具合はいかがですか」
「はい。おかげさまで。もう歩けるっていうのに部屋から出せてもらえないんです」
「治りかけが一番安静にしてなければいけません」
侍女の言葉に「もう」と彼女はむくれる。
道明がまたしても突然訪ねてきたのは、一昨日の夜だった。
「今日、実幸様にお会いする機会があってな。その時に小春様の気分転換もかねてと、実幸様を紅葉狩りに誘った。今頃小春様にもお話がいっていると思うから、今度はお前から小春様を誘え」
「必要ないじゃない」
「お前が一緒に行きたい楽しみです、って伝えるのが大事なんだよ!」
訝しげに顔をしかめる昭子に道明は冷ややかな目線を向ける。
「……わかったわ」
兄はああいう顔をする時が一番怖いのだ。
「大丈夫だよ。小春様はお前が思っているより好意的だから」
「そうかしら」
ああいう良い子は誰に対しても好意的な態度をとれるのだ。
「お前さ、本当に小春様と話したことあるか?」
「あるわよ」
「自分の好きなものの話とかも?」
「それはないわ。だって、必要ないことじゃない」
「一度ちゃんと二人で話してみな。そしたらいろいろわかるよ」
「いろいろって?」
「それは……本人から聞いてくれ」
本人から聞くほどのことが、この子にあるのだろうか。
人と関わることが好きで、実幸が好きで、子供が好きで、綺麗な言葉を撒き散らせる女性。
少なくとも昭子との共通点は見いだせない。
でもそれは今、関係ない。これはやらなければいけないこと、そう仕事なのだ。
こほんと咳払いをし、気持ちを改める。
「小春様。今日ここにやって来ましたのは、お誘いしたいことがありまして」
「まぁ」
「ご存知かもしれませんが、実幸様と兄が紅葉狩りに行くことになりまして。私も兄に誘われたのです。それで、小春様も一緒にどうかと思いまして」
道明の助言を思い出す。
「何を言ったらよいかわからなくなったら、とりあえず泰子様に語りかけていると思え」
それが距離を縮めることに近いらしい。
「ずっとお部屋にいらっしゃって、ご気分もふさいでいらっしゃるでしょう。なだらかな山ですから、きっとよい気分転換になると思いますの」
「まあ嬉しい」
道明の言った通りにことが運ぶものだから気味が悪いが、まあいい。
「このとおり、私一人では部屋の外にすら出られないのです。奥方様のお誘いですもの、断れませんわね」
満面のな笑みを、物言いたげな侍女に向ける。
侍女は仕方ないというように首を振った。
昭子は、よくすらすらと相手を話の流れに乗せる言葉が出てくるな、と感心していた。
「でも本当に仲の良いご兄妹なのですね。私、兄弟がいないから羨ましいです」
小春が嫁いだとき盛大な婚姻の宴がなかった。確か親兄弟を既に亡くしていたはずだ。
「そう」
小春の事を考えていたら、泰子と話しているつもりという皮が剥がれ落ちてしまった。
そっけないいつもの昭子の姿を引っ込めようと努力したが、心の底の靄を悟られないような言葉が思いつかない。
これでは全てが駄目になる。
「お茶をお持ちしますね。そうだ。夏彦にも会って行かれますか?最近動き回るようになったんですよ」
そう言って見せる笑顔は鬼のように見えた。
一呼吸おくと、昭子は精一杯の笑顔を作った。
「ごめんなさい。この後用事がありまして。また来ますのでその時に」
「残念です。紅葉狩り、楽しみにしています。それまでに治しておかなきゃ」
きっとこの娘は相手の言葉が本音だと疑いもしないだろう。
本音ではない気持ちも、きっと理解できない。
「一度ちゃんと二人で話してみな。そしたらいろいろわかるよ」
「そうやって敵を作ってどうする」
道明の言葉が蘇り、苛立ちが膨れ上がる。
もし実幸や小春と上手くやろうと努力したところで、その先に待っているのは果たして自分の幸せなのだろうか。
自分の部屋へ向かう廊下を歩きながら、それは奈落へと続いているように思えた。