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「千代さん…。昔のことは、もういいでしょう。それに『坊っちゃま』は止めて下さいといつも言っている筈です。コイツはただの…友人からの預かりモノですよ」
そう答える朝霧は、どこか面倒くさそうにしながらも、いつもの無表情ではなく幾分か柔らかい表情をしていた。
実琴は思わぬものを見てしまった感じがして、瞳を大きくしながら、その表情を見上げていた。
(『友人からの預かりもの』って…。もしかして、『私』の猫だと思ってたりするのかな?それとも、ただのタテマエ?)
若干、照れ隠しの言い訳のように聞こえなくもない。
(でも、朝霧が『照れ』とか…。ありえないか…)
『千代』と呼ばれたその女性は、そんな朝霧の様子にただただ優しい微笑みを浮かべると大きく頷いた。
「そうでございましたか。お友達からの大切なお預かりものでしたら、尚更大切にお世話してさしあげませんとね。可哀想に雨に濡れて縮こまってるじゃありませんか。今すぐ桶にお湯をご用意いたしますね」
そう言うや否や、パタパタと奥へと消えていった。
玄関ホールに残された朝霧は、それを無言で見送って。
そうして、また一つ小さく溜息をついた。
「…しょうがないな、千代さんは…。いつまでも子ども扱いが抜けないんだから…」
その呟きは呆れたような物言いだったけれど、朝霧の表情はどこか優しいものだった。
その後も朝霧は千代に仕切られっぱなしだった。
風呂に入れるのも、何だかんだと横から手と口を出しては世話を焼きたがる千代の様子に、朝霧は素直にその役を譲った。
広い洗面台の上、まずは湯桶の中で身体を綺麗にして貰う。
(…あったかい…。すっごく幸せな気分…)
雨に打たれたことで、思いのほか身体が冷え切っていたようだ。
シャンプーをしても、洗面台のシャワーでお湯を頭から掛けられても、ホカホカであまりに気持ち良くて大人しくされるがままにしていたら、「あなた小さいのに、とってもお利口さんね」そう言って千代は優しく頭を撫でてくれた。
(千代さんの手って優しい…。うちのおばあちゃんみたいだ…)
実琴は数年前に亡くなった祖母を思い出して、ちょっぴり切なくなった。
「はい、綺麗になりましたよ」
千代は、そう言って笑うとタオルを持って横に立っていた朝霧へと実琴をそっと手渡した。
「…ありがとう、千代さん」
今度は、ふかふかのタオルに包まれて幸せな気分になる。
それが朝霧の手の中だと考えると、ちょっぴり複雑だったけれど。
「後でミルクをあげましょうね」
千代は満足気に微笑むと、他の仕事があるのか、またどこか別の部屋へと移動してしまった。
一人残された朝霧は。
静かになった洗面所で再び小さく溜息をついた。
タオルにくるんで水気を拭き取ってくれているその手は、思いのほか優しかったけれど。
『ちょっと…。何か、さっきから朝霧溜め息ばっかりついてるよ?そんなんじゃ幸せが逃げていっちゃうんだから』
実琴はそう言ってやりたかったが、口から出てきたのは「みゃー」とか「にー」とか、そんなものだった。
(ううぅ…歯がゆい…。言葉が喋れないのってこんなに苦痛を感じるものなんだなぁ…)
自分の中では伝えたい言葉や気持ちがちゃんとあるのに、それを相手に伝えることが出来ないもどかしさ。
(…さっきのネコちゃんも、こんな風に私に何かを訴えようとしてくれていたのかな…?)
樹の上で小さく震えて鳴いていた子猫を思い出す。
(あの子は今、どうしてるんだろ?)
自分がこうして『子猫』になっているということは、向こうが『辻原実琴』になっているのかも知れない…と考えるのが自然だけれど。
(さっきはずっと気を失っていたけど…。目が覚めたらきっと、訳も分からずに不安だよね)
せめて目が覚める時に傍にいてあげられたら、と思う。
自分に何が出来るか分からないけど。
戻り方なんか、知らないけれど…。
思わず気持ちが沈みかけて俯いてしまった実琴を、朝霧が突然両手で抱え上げた。
『えっ…?何っ?』
そして自分の目線の高さまで持ち上げると、じっと様子を窺うように見つめてくる。
まるで、こちらの心を見透かすような、真っ直ぐな視線。
(…あさ、ぎり…?)




