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少しすると救急車はやって来て、校内はちょっとした騒ぎになった。
部活動等で残っていた生徒達が集まる中、実琴が気になっていた捲れていたスカートの裾は、気付いたら綺麗に戻されていて。
本当に信じがたいことなのだが、どうやら先程朝霧が屈んだ時、さりげなく直してくれたようであった。
(意外に優しい所もあるんだ。びっくりだよ…)
本当にちょっとだけだけど、アイツを見直した瞬間だった。
木々がザワザワと揺れる。
湿った風に吹かれながら、実琴はストレッチャーに乗せられて運ばれていく自分の姿を不思議な感覚で見つめていた。
だが、救急車に乗せられて何処かの病院へ運ばれて行くのだという事実を今更ながらに再認識して、慌てて後を追いかける。
今『自分』と離れる訳にはいかない。
(どうにかして、早く元に戻らなくちゃ!)
そうして素早い動作で救急車へと飛び乗ったのだが。
「わっ何だッ?この猫!」
「あっコラッ!」
「そっちへ行ったぞっ!捕まえろッ!」
早々に見つかってしまい、バタバタと隊員と格闘の末、救急車から締め出されてしまった。
そうして、すぐにサイレンを鳴り響かせると、救急車は走り出す。
『待って!置いてかないでっ!』
叫んでも届かない『声』。
「にゃあ…みゃあっ」
それは言葉にさえならず。
焦って車を追い掛けようとするが、気持ちばかりが逸り、足が空回りして上手く走ることすら出来ない。
結局、小さな石につまずくと地に倒れ込んでしまった。
そんな実琴の頭上からは、とうとう灰色の空より大きな雨粒が落ち始め。
周囲に集まっていた野次馬の生徒達も、あっという間に方々へと散って行くのだった。
自分(の身体)を乗せた救急車は行ってしまった。
遠のいていくサイレンの音を聞きながら、
「みゃあーーん…」
実琴は、切な気な鳴き声をあげた。
小さな子猫の身体になっているからだろうか。
降り注ぐ雨粒が痛い程に大きく感じる。
叩きつけるような雨に、だが身動きすることも出来ず、ただただ雨に打たれて途方に暮れた。
(どうしよう…。これから私、どうすれば良いのかな…?)
もうサイレンの音すら聞こえなくなってしまった救急車。それが走り去っていった方向を呆然と眺めながら実琴はその場に座り込むと、その小さな肩を落とした。
すると、不意にすぐ後ろから声が聞こえてきた。
「お前、チビ猫のくせにスゲーな…」
もう、誰もいないと思ってたのに。
ゆっくりと声のした後方を振り返ると。
そこには傘をさして自分を見下ろしている朝霧がいた。
『朝霧…』
そう呟いたアイツの名前も、今の自分からは「みぃ…」としか発せられない。
背の高い朝霧は、猫である今の自分とは全然違い、遥かに高い所に顔があった。
身長差から見れば当然のことなのだが、その…いつもの冷たい瞳が相まって、何だかすごく上から見下ろされている気分だ。
(何よ。あんた、私を笑ってるの?)
悲しくなって、泣きそうだった。
いつもの憎まれ口さえも出て来ない。
どのみち、語れる口もないのだけれど。
悲観的になっている実琴とは裏腹に。
目の前の子猫が実琴であることなど知る由もない朝霧は、感心したようにその小さな存在を見つめていた。
「お前、もしかして…辻原の所に行きたかったのか?」
必死に救急車に乗り込もうとしていた様子を朝霧は、ずっと遠目に見ていた。
生まれて間もない程にあどけない容姿をしているわりに、思いのほか俊敏な動きで必死に彼女の傍を離れまいと食らい付いているように見えた。
その必死さは尋常ではない。
最初は彼女の飼い猫なのかとも思ったが、こんなに小さな子猫を放課後まで何処かに隠しておくというのは考え難いのではないか。
それならば、あの必死さは何なのか。
その、目の前の子猫の行動に興味を引かれた。
それに、今こちらを僅かに振り返りながらも、雨に濡れて小さく縮こまっているその後ろ姿は妙に悲哀に満ちていて。
猫らしからぬ、その感情の揺れが手に取るように伝わって来て、朝霧は不思議な感覚でそれを見つめていた。
そして、自分でも無意識のうちに行動に出ていた。
(…えっ?)
見上げていた朝霧の顔が僅かに近付いてきたと思った瞬間、ふわり…と温かなものに包まれ、実琴は驚き固まった。
(な、に…?)
視界が急に高くなり、慌てて周囲を見渡したところで、やっと自分が朝霧に抱えられているのだということを実琴は理解した。
朝霧は傘のシャフト部分を首元に挟んだまま、両手で優しくすくうように実琴を持ち上げると、片手に抱えてゆっくりと歩きだした。
『ちょっ…何?いったい何処へ連れてくつもりっ!?』
無表情の朝霧からは何も読み取れなくて、実琴は焦った。
いくら冷徹な朝霧でも保健所にまっしぐら…だなんてことはないと思うけど。
…って言うか、流石にその選択肢はどんな状況であっても絶対に許されないでしょう!
朝霧に限っても流石にそれはないと思いたい。
そう思いつつも、半ばパニックに陥っていた実琴は、朝霧の手の中でわたわたと動き出した。
すると。
「おい、暴れると落とすぞ。別に置いていく分には構わないんだ。だが、お前みたいなチビは速攻カラス達の餌食になるだろうがな」
小さなため息と共に、その頭上から降ってきた思わぬ言葉に、実琴はピタリ…と動きを止めた。
確かにこの辺りには、カラスが多い。
この小さな子猫の身では標的にされるのは時間の問題だろう。
(でも、それって…守ってくれるってこと?…なのかな?)
意外にも猫好きだったりするのだろうか。
実琴は、とりあえず大人しく朝霧について行くことにした。




