7-4
朝霧の中で、ひとつ浮かんだ可能性。それは…。
(もしかしたら、辻原の入院している病院へ向かったのではないか?)
…ということだった。
昨夜、父が入院中の彼女の話をしていた時。
アイツの…ミコの様子が少し変だったのだ。
冷静に考えてみれば、有り得ないことだとは思う。
いくら人の言葉を理解していそうでも、そこまで本当に全ての会話を猫が把握することなど普通に考えて無理だろう。
だが、今まで見ていてミコの辻原に対する執着は半端なものではなく。
常識に囚われていては説明の付かないことが多々あったことは確かだ。
それ程に、もしかしたら…と思わせる何かがミコにはあった。
「ねえ、千代さん。親父ってもう出掛けた?」
「ええ、旦那さまでしたら先程お仕事に向かわれましたよ。私もお見送りをして丁度戻って来たところですから」
「……チッ…遅かったか…」
朝霧は千代に聞こえない程に小さく舌打ちをした。
「旦那さまが、どうかなさったのですか?」
「いや…」
(まだ何も、家の中にいないと決まった訳じゃない)
朝霧は周囲へと視線を流した。
その様子を眺めていた千代が思い出したように口を開く。
「そう言えばミコちゃんでしたね。私は、てっきりまだ坊ちゃまと一緒にお休みになっていると思っておりましたので…。起きた時にはもう、いらっしゃらなかったのですか?」
「ああ。ドアを開けた形跡があった」
「まあ…」
その後千代にも手伝って貰い、家中を探し回ったもののミコは見つからなかった。
朝霧はリビングのソファにどっかりと座ると、大きく溜息を吐いた。
(窓が開いている場所はなかった。ということは、やはり親父が家を出る時に一緒に出た可能性が高いか)
そして、そのまま外を走っていったか、もしくは…。
だが普通に考えて、ただ外へ行きたかったというのとは違うと自分の中で確信があった。
外へ行きたいだけなら、昨日ベランダの窓を開けておいた時点で出て行っている筈なのだ。
(だが、アイツは行かなかった)
自分が念を押して「千代が悲しむぞ」と言ったことが効いたとは思ってはいないが、何にしてもアイツは出て行かなかったのだ。
(でも昨夜の様子は、どこか…何かを迷っているようだった…)
ウロウロと落ち着かない様子で。
抱き上げて撫でてやると、不安げな瞳をしていて…。
もしかしたら、あの時から出て行くことを決めていたのかも…なんて。
(猫に対して考えるような事じゃないよな)
我ながら己の考えに苦笑が漏れる。
(でも、それ位アイツはどこか人間臭いところがあった…)
そして、辻原に対する執着。あれはいったい何なのか。
辻原の家では猫は飼っていないというし、アイツは野良に間違いはないのだろうけれど。
ただ『助けて貰ったから』というだけではない、何か繋がりがあるような気がしてならなかった。
先日、ミコがカラスに襲われていた日。
体育の授業中だった為、とりあえずミコをジャージのポケットに突っ込んでおくと、ミコはそのまま眠ってしまっていた。
着替える際に制服のブレザーのポケットへと入れ替え、午後の授業までもそのまま受けていたのだが、余程疲れていたのかミコは放課後までずっと眠り続けたままだった。
そして、放課後。
帰り途中の廊下で目覚めたアイツは、暫くは大人しくポケットから周囲の様子を伺っていたが、何を思ったか突然飛び出すと途端に何かを目指すように駆け出した。
慌てて後を追い掛けると、アイツは昇降口で立ち止まっていた。
幸いにも周囲に人はなく、誰に見られることもなかったのだが、ミコはじっとある一点を見つめて止まっていて。
(…そこに何かあるのか?)
不思議に思いながら傍へと近付いてみると、ミコが立ち止まっていた場所は、偶然にも辻原の下駄箱の前だったのだ。
僅かに高い位置にある、その下駄箱を見上げている…ように見えた。
(もしかして、辻原のことが気になるのか?)
流石に有り得ないとは思いながらも、俺は思わず言葉を口にしていた。
「辻原ならいないぞ。今日は休みだ」
すると。
まるでその言葉が通じたかのように、ミコは静かにこちらを見上げてきた。
その、どこか落胆したような寂しげな瞳に。
俺はただ「帰るぞ」とアイツに手を差し伸べることしか出来なかった。




