5-1
西の空が茜色に染まる頃。
普段通り朝霧が家へと帰り着くと、玄関ドアを開けたと同時に中から突然大きな声が掛かった。
「坊ちゃまーーーーッ!」
もの凄い剣幕で奥から飛び出して来た千代に、流石の朝霧も驚きの表情を見せている。
「千代さん…落ち着いて。いったい何があったんです?」
すると千代の口からは、せきを切ったように次々と言葉が溢れ出てきた。
「ああぁ…大変なんですよ、坊ちゃまっ!お預かりしていたあの猫ちゃんがいなくなってしまったんですよっ!私がお掃除をしようとお部屋へ入りましたところ、猫ちゃんの姿が見つからなくて。よくよく調べましたら僅かにバルコニー側の窓が開いていたんですよっ。きっとそこから外へ出て行ってしまったのですわっ。ああ、あんなに小さな猫ちゃんが一人でお外へなんか出たら、いったいどれ程の危険があるか…。もう、それを考えただけで気が気ではなくてっ…」
あたふたとして泣きそうになっている千代を前に、朝霧は「ああ…」と小さく頷いた。
「ごめん、千代さん。大丈夫だよ。そいつなら無事だ」
落ち着き払った朝霧の様子に、千代は怪訝そうにその表情を見上げた。
だが次の瞬間、しわしわの瞼を大きく開くと、その表情は驚きのものへと変わっていく。
朝霧がトントン…と軽く制服の上着のポケットをつつくと、それを合図のように中からひょっこりと子猫が顔を出したのだ。
「まぁっ!猫ちゃんっ!?」
目をキラキラさせている千代に、朝霧はポケットから子猫を取り出すと、そっと渡してやった。
千代は両手の中に子猫を受け取ると「良かった、本当に良かった」と心から安心した様子を見せて子猫を撫でていて、朝霧は何だか少し申し訳ない気持ちになった。
「でも、いったいどういうことですの?伊織坊ちゃま、まさか学校へ猫ちゃんを連れて行ったのでございますか?」
暫くして落ち着いてきたところで不思議に思ったのか、千代が複雑そうな表情で聞いて来た。
「まさか。偶然、外で見つけたんですよ。それをまた拾ってきただけです」
何でもないことのように朝霧は言った。
まさか『学校でカラスに襲われてた』なんてことを千代に言った日には、また大騒ぎになり兼ねないので、そこは黙っておく。
「そうでございましたか。何しろ怪我もなく無事で良かったですわ。それでなくても大切なお預かりものですのに…」
『預かりもの』という言葉に「ああ…」と、朝霧は思い出したというように口を開いた。
「そのことだけど…。実は、そいつ野良だったみたいなんだ」
「え?」
「知り合いの猫だと思ってたんだけど違った。ただの野良ネコだ」
「…まぁ」
千代は驚いたように手の中の子猫を見つめていた。…が。
「でも、じゃあこの子は今後も伊織坊ちゃまがお世話してさしあげるということでよろしいのですよね?」
「………」
改まって指摘され、朝霧が何となく返答に困っていると。
千代は朝霧の内心を全て見透かしたように、にっこりと優しい微笑みを浮かべた。
「可愛い鈴。ご主人さまに付けて貰ったのねぇ?良かったわね、猫ちゃん。これからも、よろしくね」
そう言って子猫の首元の鈴を指で軽くつついた。
チリリ…と鈴が鳴る。
(まったく…。千代さんには敵わないな…)
朝霧は、それ以上何も言わなかった。
実琴は朝霧の部屋の窓台の上に座ると、昨夜と同じように外を眺めていた。
夕暮れに染まる町。
徐々に周囲は薄暗くなり、家々の明かりが目立ち始めている。
(…結局、ここに戻ってきちゃったな…)
本当なら自分の家まで帰ってみるつもりだった。
でも朝霧に助けられたあの後、自分は不覚にも眠り続けてしまい、気が付いたら既に放課後だったのだ。
(うう…ずっと寝こけてたなんて情けない…)
でも、この身体は思っていたよりも、やはり疲れやすいみたいだ。
小さな子猫なのだから体力がないのは仕方のないことなのかも知れないけれど。
朝からこの家を出て学校に行き着くまでに掛かった時間を考えると、学校から自分の家までの方が断然距離もある為、実際にあの後歩いて向かったとしても、いつ辿り着くか分かったものではない。
それに、何よりこの身では思わぬ危険が沢山あるということを知ってしまった。




