3 紅色 その四
目を開けたそこは、知らない天井だった。
暫く意識が定まらず、ぼーと天井を見つめていた。
けれど米神に暖かいなにかが流れたのを感じて手で触ってみれば、そこは濡れていて、更に瞳から流れた涙が指先を濡らした。
重い身体をなんとか起こすと、その拍子に瞳に溜まっていた涙が布団に染みを作った。
手で拭って止めようとするけれど、意思とは関係なく涙は止まらず流れ続けた。
ふと気配を感じて顔を上げたら、扉の前に第三皇子殿下が立っていた。皇子殿下は何故か驚いたような顔で固まっていて、動かなかった。
いつからそこに居たのだろうかと思ったけれど、扉が開いていたので今来たばかりかとぼんやり考える。
「っ!げほっ……げほっ………」
取り敢えず挨拶をしなければ、と空気を吸い込んだら盛大に噎せてしまった。口や喉が大分乾燥しているようで、なかなか止まらず苦しくなり、布団に伏せて堪えようとした。
すると優しく背中を擦られ、視線を上げたら目の前に水が入ったコップがあった。ゆっくりと飲み干して落ち着くと、メイド服を着た女性が目に入る。
彼女はずっと背中を擦ってくれていた。
「お水を飲まれますか?」
「…………だい、じょうぶ、です……」
掠れた声で返事をすれば、彼女は一つ頷いた。
「まだ苦しいですか?それともどこか痛みますか?」
未だに流れ続ける涙を布で拭きながら聞かれ、小さく首を横に振る。
分かりました、と言って彼女はわたくしの頭を支えて横にしてくれた。
そこでやっとわたくしは、第三皇子殿下の存在を思い出す。
「……あの……皇子殿下は……」
問い掛けると彼女は一度後ろを振り返り、無言で一つ頷き向き直った。
「大丈夫ですよ。今は何も気にせずお休み下さい」
首元まで布団を掛けられ、乱れた髪を整えるように撫でられると、言い知れぬ懐かしさが込み上げて涙が溢れてきたが、そのままゆっくり目を瞑る。
意識はまた緩やかに落ちていった。
次に目を覚ました時、もう涙は止まっていた。
枕元の机に置かれた燭台の灯りのみの部屋は薄暗く、人の気配はなかった。
意識は大分はっきりしていたが、寝過ぎたせいなのか身体は相変わらず怠く重かった。
燭台の横に置かれていた水を飲み、また横になる。
天井を見つめて何があったのか、記憶を探る。
確か皇子殿下方に挨拶をしている時、侍女が持つナイフが見えて咄嗟に前に出たら………
「っぅ!」
左手で目元を覆う。
別世界の知識、違う世界の「私」のこと、赤い視界、妹の最後の笑顔。
それらが一気に頭に浮かぶ。
ああ……そうなのね。私はもう「私」ではないのね。ここは私が生まれて育った場所じゃない。優しい家族はいない。幸せだった世界はない。私の愛しい妹はもう何処にもいない。
私は、いいえ、わたくしはラティーニア・ウェールディ・アンシェシア。
この世界でわたくしは生きていかなければならないのね。
「………ふふ……」
小さな笑い声が自分の口から漏れる。
ああ、なんてことかしら。
私は妹に庇われた。守られた。
私が庇って守らなくてはならない愛しい妹に。
本当になんてことかしら。
私はお姉ちゃんなのに。私が守らなくてはいけなかったのに。
「……ごめんね……」
どうして私はここにいるの?
どうして私は目覚めたの?
どうして私だったの?
ねぇ、どうして?
乾いた笑い声とともに、止めどなく疑問が心に溢れる。同時に止まったはずの涙まで溢れた。
どのくらいそうしていたのか、チュンチュンと微かな鳥の鳴き声が聞こえて意識が浮上する。
ああ、そうね。
わたくしは今此処に居る。生きなくてはならないわね。
「私」の“記憶”とともに生きていかなくてはね。
今わたくしが思い出せるのは赤い視界と妹の最後の笑顔、後は彼方の世界の事が少し、かしら。
家族が居たことは思い出せるけれど、顔も名前も思い出せない。前世の「私」のことも。
でも妹のことは不思議と思い出せる。
無邪気で明るくて、可愛い声と笑顔の妹。
ただ、暖かかった、愛情をもらった、幸せだった想いはわたくしの心にしっかりと刻まれている。
だから大丈夫。
わたくしはもう大丈夫。
もう笑えるわ。
ねぇ、愛しい天使。身勝手な考えだけど、貴女と共に生きたいって思ってても良いかしら?
此処は多分、世界が違うからこんなこと思っても無意味かもしれないけれど、貴女のことを忘れなかったら貴女と一緒に生きているって思ってても良いわよね。
ふふふ、ごめんね?独り善がりな感情だけど許してね?
愛しい妹。
私の天使。
私は貴女と共に、この時を生きていく。
読んで頂いてありがとうございました。