喪失
月が漆黒の空で頼りなく細くなり、その僅かな光を森へ届けようとしていたある夜、いつも少女と老婆が暮らしていた簡素だが清廉とした住まいでは、月光に気が付かぬほどに辺りが明るく燃えていた。
燃えていたのだ。
ごうごうと音を立てて立ち昇る炎の勢いは家どころか、周りの庭まで飲み尽くすかのようだった。
その中に、悲痛な老婆の叫び声が響く。
「さっちゃん!はよぉ、お逃げ!!止まっても、振り返ってもあかん!!ここから逃げるんや!!」
「おばあちゃん!」
幼い少女の声は柱がバキバキと燃え落ちる音にかき消されていく。
逃げなくては。
少女は裸足で森の中を駆け抜ける。
後ろの燃え落ちる家の近くからは、何人かの男の声。
「どこへ行った!?」
「絶対に捕まえるんや!逃したらあかんぞ!!」
「まだ、そないに遠いへは行ってへんぞ。探せ!」
ドタドタと獣道を踏み分ける足音に恐怖を覚え、少女は草陰で息を殺す。
見つかってはいけない。
逃げなくてはいけない。
怖いこわいコワイ…。
近づいては遠のく足音よりも自分の心臓の音の方がはるかにうるさく感じた。
少女は口から吐息や心臓の音がもれやしないかと不安で口元を手で押さえて耐えた。
気がつけば足音は聞こえなくなっていた。
しかし、逃げる事が出来たようにはどうしても思えなかった少女は、
また、いつ戻るとも知れない男たちの気配に怯え、再び駈け出した。
森の中のどこをどう走ったかは全くわからなかった。
駆け回った素足は小さな傷が沢山ついて血が滲んでいた。
それでも、足を止めずに進み続けていくと、やがて開けたところへ出た。
そう思った拍子。
身体が一瞬重みを失った。
浮遊かと思った次の瞬間。
少女は崖下へと落ちていった…。