2.狂い出した歯車
ジョゼの1日は慌ただしく過ぎていく。
朝食をとった後すぐに昼まで剣の稽古、昼食の後は帝王学や算術の講義に他国のお偉方との会食。夕食をとり風呂に入って寝るまで、彼女に「自由」の二文字はない。
入浴後から就寝までの短い間、セドと過ごす時間が彼女の日々のささやかな幸せであった。
今日もまた、そんな1日が始まる。
「ジョゼフ王子!」
背後から、自分の名を呼ぶ声。
「…ラヴィスか。どうした?」
そこにいたのは若い下士官である。
確か、まだ14歳と言ったか…。
栗色の、くるくるとした巻き毛が揺れている。
「名前を覚えて頂けていたなんて…光栄ですっ!」
ラヴィスは目を輝かせて、勢いよく頭を下げた。
「我が国のために命を賭して戦ってくれる兵士たちの名前を覚えていないなんて、王族として、また一人間として失格だからな。
それで…どうしたんだ?」
「じ、実は…っ!
その、剣の稽古をしていただけないかと思って…」
ラヴィスはもごもごと、だがしかし確実に言葉を紡いでゆく。
「自分は、ジョゼフさまの剣技に憧れているんです!
もし良かったら、教えて頂きたくって…!」
「…ああ。もちろんだ。」
誰かと過ごす時間はとても楽しい。
だが同時にそれは、ジョゼにとっての不安でもあった。
一挙手一投足に細心の注意を払わなければならないからだ。
女であると、ばれてはならない…。
ラヴィスとの稽古を終えて、ジョゼは部屋に戻った。
静まり返った自室。
誰かと過ごす時間も好きだが、それと同時にひとりで過ごす時間も好きだ。
静寂は、心を落ち着かせてくれる。
ドンドン、と扉を叩く音がした。
扉を開くとそこには、侍女のひとりが息せき切った様子で立っていた。
「ジョゼフさま…、今すぐ!今すぐ陛下のお部屋へ…!」
彼女のただならぬ面持ちを見て、ジョゼフは支度を整える間もなく自室を飛び出していた。
嫌な予感がする。
女のカンというものは、よく当たるものだ…悪い方向で。
もっとも、ジョゼを女と言い切れるかは微妙なところではあるが。
そしてその予感は、奇しくも的中してしまう。
「…父上っ、如何用でございますか…!」
「…ジョゼ。落ち着いて聞くんだ。」
暫しの沈黙。
それは、ジョゼが心を決めるのを待っているかのようであった。
「セドリックが、マロワ王国から緊急招集を受けた」
目の前が、真っ暗になった。
「な、にっ…。」
次に紡ぎ出す言葉が、見つからなかった。
ぐるぐると回る視界。
意識を保っているだけで精一杯だった。
現在ティオレア王国は、かのマロワ王国と緊張状態にある。
セドは、そのマロワから緊急招集を受けた。
それが何を意味するか、分からないほどジョゼも阿呆ではない。
ジョゼは王室の儀礼も忘れて、部屋を飛び出していた。
胸が、いやに高鳴った。
走っても走っても、セドの部屋に辿りつかないような気さえしていた。
ほとんど転けそうになりながらようやく辿りついた扉を、ぶっきらぼうに開け放つ。
「セド…!」
血相を変えて飛び込んできたジョゼとは対照的に、セドは落ち着いた声音であった。
「ジョゼ…聞いたのか。」
「セド…、マロワに、行くのか。」
「ー仕方ないだろ。
大丈夫だ、ジョゼ。直ぐに帰るから。」
時計の針は、もうすぐ北を指そうとしていた。
大丈夫、大丈夫。
そう繰り返すセドの瞳は、それでもやはりどこか不安で満ち満ちていた。
「いつ、発つんだ。」
「明後日の朝だ。
マロワまでは馬で行けば半日足らずで着くからな。」
…明後日の朝。
もう、一日しか一緒にいられないというのか。
思わず溢れそうになる涙を、ジョゼは必死に堪えた。
今、わたしが泣いてはならないのだ。
この先もっと辛いのはセドの方なのだから。
泣きそうになった顔を見られたくなくて、ジョゼは俯いた。
「…ジョゼ。」
いつもと変わらない、柔らかい声音で。
囁くように自分の名前を呼ぶのだ。
ふっと顔を上げたジョゼを、セドの腕が優しく包み込んだ。
…やめてくれ。
そんな風に優しくされたら、離れられなくなる。
「明日の夜…、クロッカス海岸。来れるか?」
自室に戻ってからも、ジョゼはどこかふわふわとした心持ちのままでいた。
寝床に入ってからも、冴えきった目は一向に睡魔を呼んではくれなかった。
ただセドのことだけが、この先の彼のことだけが、彼女の頭の中を廻り続けた。
そして、朝が来て、夜が来た。