《9》
夕方6時のタイムセールは仕事帰りにもってこいだ。
自宅アパートから徒歩15分程の個人経営スーパーはこの時間、人気商品の特売や売れ残り品の大幅値下げを一斉に開始する。
その他にも曜日で変わる商品の袋詰めイベントやポイントカード2倍押しなど、お得感満載だ。
近所に住む主婦の女性陣はだいたい必ずこの時間を狙い、嬉々としてやってくる。
主婦ではないが倹約家である遥希ももちろんケチ仲間の1人だ。
金銭にも大雑把な葵は店内をウキウキ動き回る遥希にせこいだのケチだのいつも隣でゴチャゴチャうるさいので、ここでの買い物は1人が一番気軽で楽しい。
仕事帰りでも急げば十分余裕で間に合うので、今日は競歩並に早足歩行で帰宅だ。
気持ちよく息を弾ませスーパーに辿り着くと、とりあえず片手に持った購入リストメモは後回しにして、ざっと店内を見回していく。
割引率の高い生鮮商品に狙いをつけ、すかさずチェックだ。
「……うーん」
昨夜で切れ今日必ず購入しなければならない商品を、来て早々偶然視界に発見してしまった。
思わず立ち止まり、目の前で悩み始める。
本日の目玉商品でもあるこれなのだが、どっちにしようか2つ見比べ悩み始めた。
いつもはよりお得な大きいサイズを迷わず選択するのだが、今日は他にかさばるものもあるし少しばかり無謀かもしれない。
小さいサイズにしておこうか……いやしかし200円の差は食費の財布を握る身としては大きい。
やはり大にしようと決心し、とりあえずカートを探すことにした。
「米?」
突然背後から尋ねられ、まさかの聞き覚えある声に一瞬ドキリと振り返った。
「な、長狭、さん」
驚きのあまり、とっさに名前を呟いてしまった。
背後にいたのは、まさかここで偶然会うはずもない長狭の姿だった。
長狭は笑みを浮かべ、ぽかんと口を開けた遥希を見つめている。
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
ようやく我に返ると、慌てて挨拶を返した。
スーツ姿の彼は会社帰りなのだろう。
お辞儀した頭を再び上げるも顔は見れず、目の前のネクタイ辺りにビクビクと視線を向けた。
「何でここに……」
どうにも気になってしまい、とうとう自分から質問してしまった。
この近辺に住んでいるわけでもあるまいし、彼がうちの近くのスーパーにいるのは明らかにおかしい。
「用事があって家を訪ねるつもりだったんだけど、通りがかりに見かけたから」
「え……用事って、うちに?」
「そう」
怪訝の表情で再び尋ねると、即答されてしまった。
うちに用事など見当もつかず戸惑っていると、長狭は遥希の背後に視線を向けた。
「米?」
「え? はい…………いや! いいえ」
素直に肯定してしまったが、すぐに否定し首を振る。
気遣い上手の長狭のことだ、米を購入すると知れば手伝いかねない。
「書いてある」
視線を少し下にずらした長狭がボソリと呟いた。
「……あ!」
突然現れた長狭に動揺し思わず胸に置いた遥希の手には、しっかりと購入リストメモが握られていた。
しかもメモの記入面はなぜか堂々と長狭に丸見えだった。
リストの中に「米なるべく10キロ!」と一際でかく書かれてある。
恥ずかしさのあまり慌てて必死に背後へ隠す。
勢い余ってカゴごと両手隠してしまった。
「ふ」
まるで子供のような遥希の行動に可笑しくなったのか、長狭は口元にこぶしをあて静かに吹き出し笑った。
小さくだが声を発し笑う長狭の姿は初めてで、とてもめずらしいものだった。
感情の起伏をあまり見せない彼でもこんな風に笑うんだと、自分のせいだが意外な発見をしてしまった。
「米は最後にしよう。あとは何を買う?」
長狭は遥希が背後に隠したカゴをすばやく取り上げてしまった。
「いえ! 自分でやりますから」
取り返そうと手を伸ばしても、さっさと先の通路を歩き出してしまう。
ひとり置いて行かれた遥希は長狭の背中を目で追い、仕方なく後に続き始めた。
「あとは?」
隣に並ぶ長狭に尋ねられ、もう一度リストメモを見直す。
「えーと……あとは食パンだけです」
残り1つを除きすべての購入品を入れたカゴは、8割方埋まっている。
持たせてしまって申し訳ないが潔く最後まで頼ることにし、パンの棚へ向かった。
いつも購入している食パンをカゴに入れると、そのままレジの方向に進む。
「忘れてる」
呟いた長狭が別の方向に歩いてしまった。
忘れてくれればよかったのにしっかり覚えていたらしい。
すでに米袋の前に立ち待っている長狭が、ようやく傍へ来た遥希に一度視線を向けた。
「これでいい?」
さっき遥希が見つめていた米でいいのかと尋ねられたので、すぐに隣の米袋を持ち上げた。
「こっちです」
「それは小さい方だよ。10キロはこっち」
勝手に否定すると隣の大きいサイズを片手で持ち上げ、脇に抱えてしまった。
長狭はしっかり購入リストメモの内容を覚えていたらしい。
すでに米を抱える彼の姿に抵抗できず、自分の手にある米を元の場所へ戻す。
せめてもう片方の彼の手にあるカゴは引き受けようと、急いで手を伸ばした。
「こっち持ちます」
取っ手を掴むと特に何も言われなかったので、ほっと安心しカゴを引き取った。
「あの、私が」
てっきり任せてくれたのかと思いきや、長狭はなかなか取っ手を離してくれない。
「じゃあ一緒に」
頭上から届いた声に思わず手元を見つめ直すと、まるで2人仲良くカゴを持ちあっている構図が出来上がっていた。
「行こう」
再び先を歩き出してしまい抵抗する暇も与えてもらえず、なぜか一緒にカゴを持つはめになってしまった。
妙に恥ずかしくなり思わず赤くなってしまった遥希に対し、隣の長狭は何も気にしていないらしい。
普段と変わらない彼の様子に、変に1人意識している自分が余計に恥ずかしくなってしまった。
当然、帰りも問題だった。
何気に体力にはかなり自信がある遥希はスーパーから家まで15分の帰り道、抱えきれる程度の荷物を持ち歩くことなど特に困難ではない。
買い物バックはしっかり肩に下げ、10キロの米袋は両手で抱え込むように持てば十分歩けるものだ。
1人の普段なら当たり前のことを、今日は長狭がいるばかりにそうもいかない。
米袋と荷物を抱えた長狭は、さっさと車の駐車場に向かい歩き出してしまった。
当然車で家まで送ってくれるつもりなのだろう。
彼の後を追いかけながら悶々と頭を巡らせる。
ということは、当然遥希はこれから長狭の車に乗らなければならないという事だ。
わずかな時間でも狭い車内に2人きりなんて、あまりにも距離がなさすぎる。
想像するだけですでに耐えられない。
自分の車の後部座席に荷物を積み始めた彼を背後で見つめ、どうしようかオロオロと悩む。
とりあえず、荷物だけ持っていってもらう事はできないだろうか…………
結局うまい言い訳を考える暇もなく、荷物を積み終えた長狭がそのまま助手席のドアを開けてしまった。
「乗って」
「いや! 私は」
親切にドアまで開けてもらい車の中へ促され、とりあえず首を振り遠慮する。
口では遠慮しながら、内心はすでに諦めているのも事実だった。
この状況で遥希を置いて1人車で先に行くことなど、この長狭でなくても普通にありえないだろう。
しばらく何も言わずただ待っているだけの彼にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかず、車の後部座席に視線を向ける。
「すみません……じゃあ後ろに乗せてもらいます」
せめて助手席だけは勘弁させてほしく、正直にお願いする。
「後ろはもういっぱいだから、ここしか座れないよ」
あっさり断られてしまい、諦め悪くも再び後部座席を遠目から覗いた。
確かに荷物で軽く席は埋まっているが、詰めれば遥希1人くらい余裕で乗れるはずなのだが。
「乗って」
再び優しい口調で促され、ようやく傍に近寄った。
ここで再び抵抗してしまえば、それこそ長狭に申し訳ない。
「よろしくお願いします」
彼にお辞儀をすると、ドアを開けてくれた助手席にようやく乗り込んだ。