《6》
遥希がまだ小さい頃だ。
よく会社帰りにどこかで飲んできた父が、遅くまでやっている駅前のケーキ屋でケーキを買ってきてくれた。
小さな白い箱の中には3つ、遥希と弟の佑真、そして母の分だ。
3つ並んだケーキはいつも種類も決まっている。
苺ショートとチーズケーキ、残り1つは母の大好きなほろ苦いガトーショコラ。
小さい遥希は苺ショートが大好きで、箱の中を見つめそれが食べたいと心の中で思っていた。
母が皿の上に1つずつ、そっとケーキを載せていく。
皿に載った苺ショートをじっと見つめていると、母は笑いながら遥希の前に苺ショートを置いた。
隣にいた佑真が、ぼくもそれがいいと呟いた。
遥希と一緒で、佑真も苺ショートが大好きだった。
母は佑真の前に残ったチーズケーキの皿を置いた。
遥希は苺が大好きだから、佑真はこっちね。
母はそう言って、苺ショートが大好きな遥希を笑って見つめた。
遥希と一緒で苺が大好きな佑真は、静かに目の前に置かれたチーズケーキを食べ始めた。
酔っぱらった父がケーキを買ってくると、母はいつも苺ショートを遥希の前に置いた。
遥希は苺が大好きだもんねと、嬉しそうに笑っていた。
隣に座る佑真はいつも静かにチーズケーキを食べ始めた。
遥希はいつの間にか、苺ショートよりチーズケーキが好きになった。
父がケーキを買ってくると、母が皿を置く前に真っ先にチーズケーキを指差した。
それでも母はそんな遥希を見つめ、嬉しそうに笑っていた。
父と同じくらい、母の事が大好きだった。
母の嬉しそうな笑顔を、遥希はあまり好きじゃなかった。
夢から覚めた遥希は窓に意識を向け、すでに明るくなった外をカーテン越しに見つめた。
傍にある置時計を確認すると、いつもの起床時間より1時間程遅い。
仕事休みの今日、アラームをセットせず昨夜はそのまま寝てしまった。
ようやく起き上がった遥希は自分の部屋を抜け出すと、いつものようにリビングの暖房ヒーターをつけキッチンへ向かった。
今日の朝ごはんはどうしようかと、シンク前でぼんやり悩み始める。
目の前に昨日自分が置いたばかりの林檎があった。
数日前、わざわざ佑真がここまで持ってきてくれた。
朝に食べようとそこに置いたのをすっかり忘れていた。
大きな赤い林檎を手に取った遥希は、さっそく剥き始めた。
「おはよう……あ、林檎だ」
めずらしく今朝は起こされなかったパジャマ姿の葵は、テーブルに置かれた林檎を目敏く見つけた。
さっそく手を伸ばし、シャリシャリと音を立て嬉しそうに食べ始める。
「うん、今年も美味しいね」
「美味しいね」
向かいのソファに座る遥希も、今さっき食べたばかりだ。
ほぼ1年ぶりに食べた林檎は蜜が入っていて甘くほんのり酸味もあり、とても美味しかった。
「これ、いつもの伯母さんが送ってくれたやつ?」
「うん」
毎年2人で食べる林檎は東北の伯母が送ってくれるものがほとんどだ。
スーパーで売ってるものをわざわざ買いはしない。
「お父さん、うちに来たの?」
ごくたまに娘の様子を見にふらっとアパートを訪れる父が持ってきたと思ったらしい。
「ううん、弟」
「へえ、そうなんだ。めずらしいね」
弟の佑真と一度も面識がない葵は、林檎を食べながら意外そうに驚いた。
「……ねえ、遥希の弟ってさ、確か本沢校って言ってたよね」
弟の話になり、ふいに思い出したらしい。
昔遥希が教えたことを、今も葵はちゃんと覚えていた。
「じゃあ長狭君と一緒だったんだ…………ふーん」
意外な事実に1人納得したように頷く葵を、ただ黙って見つめた。
本当はずっと気付いてほしくなかったけれど、察しの良い葵が近いうち気付くことも何となくわかっていた。
「あのケーキも美味しかったね。長狭君いい人だね」
昨日家を訪れた長狭を思い出し笑みを浮かべた葵に、頷きで答えた。
葵の言う通りだ。
あのケーキはとても美味しいものだったし、遥希にも気遣ってくれた長狭はとても良い人だ。
けれど遥希は美味しかったケーキの味を覚えていないし、良い人の長狭と目を合わせることができない。
これ以上長狭と関わりたくないと思っている。
長狭を怖れている。
目の前の葵に正直に告白してしまえば、長狭から逃げられるだろうか。
全然大したことじゃないと、もっと気楽に打ち明けてしまえば、心は軽くなるだろうか。
けれど、自分以外の誰かに知られたくないと思っている。
確かに存在した過去のちっぽけな自分など、たとえ葵にだって知られたくなかった。
昼休憩に入るためロッカーから弁当を取り出すと、隣の休憩室に向かった。
この時間ほとんどの社員が押し寄せるので、すでに大部分の席が埋まっている。
いつも一緒に休憩する同僚達はすでに昼食を食べ終わり、遠い席でテレビに視線を向けていた。
作業が長引き1人遅れた遥希はどうしようかと一度立ち止まると、ちょうど窓際手前の席に座っていた彼女に気が付いた。
「お疲れ様。隣いい?」
「……あ、どうぞどうぞ」
小さく声を掛けると、すでに本に没頭していた彼女は慌てて席を勧めてくれた。
軽く礼を言い隣に腰を下ろすと、テーブルに置いた弁当をさっそく開き始めた。
「小野さん、今日は遅かったんですね」
「タイミング逃しちゃって」
「急がなくても、あと40分もありますよ」
急いで弁当を食べ始めた遥希に、隣の彼女は親切に時間を教えてくれた。
最近傍に寄れば喋るようになった彼女は青山と言い、昨年入ったばかりの新人だ。
高校を卒業したばかりの青山はまだ若く、遥希より6歳程下だろう。
化粧もせずまだあか抜けない印象のせいか、何となく自分とも似ているようで親しむのも早かった。
青山も遥希が傍に近寄ると、いつも嬉しそうに笑ってくれる。
大人しい青山は特に親しい同僚もいないのか、休憩時間は1人で本を読んでいる事がほとんどだ。
そんな彼女に対し意識して声を掛けたいと思うのも、職場の先輩として出来る役目かもしれない。
「それ新刊?」
「こないだ買ったばっかりです。小野さん見ます?」
ちょうど青山の読んでいた真新しい本を尋ねると、さっそく青木はどうぞと渡してくれた。
まだまだありますよと、今度は大きなバックから次々と取り出し始める。
嬉々として目の前に置かれた10冊程の本は、すべて若い女の子向けの少女漫画だ。
遥希が興味を示すと、いつも青山は嬉しそうに貸してくれる。
普段は漫画を読まない遥希も、青山が貸してくれる本はけっこう面白く読ませてもらう。
1日借りて持ち帰れば葵も喜んで読んでいるので、親切な青山には感謝だ。
「あれ」
置かれた本の中にすでに知っているものがあり、思わず反応してしまった。
「あ、それは古本屋で買ったやつです。結構前のですよ」
遥希が本を手にすると、隣の青山がちゃんと説明してくれた。
「小野さん、読んだことあります?」
「うん、昔持ってた」
連載物ではない読み切り一冊の少女漫画は、昔遥希が唯一持っていたものだ。
今もおそらく実家の押し入れに眠っているはずだ。
「結構前に立ち読みして、気に入って買っちゃったんです」
わずかに照れ笑いを浮かべた青山にとって、おそらくお気に入りの一冊なのだろう。
懐かしさを覚えた遥希もパラパラと捲り始めた。
高校生の時、もう読んだからと言われ友人からもらった。
なぜか心に残ってしまい、その後何度も繰り返し読んだ。
ごく単純な、ありふれた物語だ。
主人公の女の子は突然生まれた恋に戸惑い、勝手に誤解して傷つき、最後は相手と想いを伝え合い恋を実らせる。
どこにでもある、普通の女の子の小さな恋。
本をくれた友人はつまらないと言い、遥希に渡してしまった。
すでに10年前もそうだったように、刺激的な漫画が普通に売られている今の時代の女の子にはあまり受けないかもしれない。
けれど当時高校生だった遥希は、なぜかこの漫画がとても好きだった。
何度も繰り返したその話は、今でも大切な場面の登場人物のセリフを思い出せるほどに心の隅に残り続けている。
「私も好きだったんだ。これ」
今日再びこの本を思い出させてくれた青山に正直に告白する。
同じように気に入ってくれた彼女だから、素直になれるのかもしれない。
「男の子がカッコいいんですよね、優しくて……」
遥希に同意した青山は少しだけ恥ずかしそうに、小さな声で教えてくれた。
確かに青山の言う通り、相手の男の子はとても格好良かった。
誠実でまっすぐで、時に男らしくて、男の子が主人公の手に触れる1コマにいつもドキドキと胸が高鳴った。
そうだった、遥希はあの男の子が大好きだった。
「小野さん、貸します?」
ニコニコ笑って勧めてくれる青山に再び視線を向けた。
「これは家にもあるから、別なの貸してくれる?」
さりげなく遠慮し別の数冊を手に取ると、青山も快く頷いてくれた。
すでに大人になった遥希は、大好きだった1冊のあの本を最後まで読む勇気などまるでなかった。