《4》
「遥希さん、何か元気ないよね…………体調悪い?」
傍に近寄った大志が遥希の顔をのぞき込み、心配そうに尋ねた。
豆腐を刻んでいた包丁を一度止めた遥希は、そのまま大志と目を合わせた。
「ううん元気元気、お腹空きすぎて気持ち悪いくらい」
いつものように笑いながら再び包丁を動かし始める。
特別表情に出さないよう気を付けていたが、家に来たばかりの大志にまで悟られてしまうほど隠しきれてないのだろうか。
遥希の笑顔に安心した大志はようやく傍を離れると、収納クローゼットから普段使うことのない大きな折り畳みテーブルを運び出し、リビングで広げ始めた。
すでに時刻は夕方の5時に差し掛かり、そろそろ準備も急がなければならない。
「あれ? 大志、お酒は?」
葵は冷蔵庫をのぞき込みながらリビングにいる大志に尋ねた。
飲み物と軽いつまみはいつも大志が用意してるはずなのに、今日は見当たらないらしい。
「長狭先輩が買ってきてくれるって」
「え!? ちょっと大志、なんで断らなかったの? こっちが誘ったんだからさぁ」
「だって、鍋のお礼だって言うし……きっと先輩も気を遣ってるんだよ」
突然葵が怒り出したので大志が困り顔で宥め始めると、ちょうど玄関のインターホンが1つ鳴り響いた。
「長狭先輩だ。葵さん、しっ!」
慌てた大志は葵の口元に人差し指を当てとっさに黙らせると、急いで玄関へ駆け寄った。
すでに鍋の材料を切り終え手持無沙汰でシンク前に佇んでいた遥希は、急いで両サイドの髪をさっと前に撫でつけた。
たいした変化はないが顔半分くらいは隠れてくれたかもしれない。
最後まで諦めの悪い、遥希の無駄な悪あがきだ。
「先輩、どーぞ」
「長狭君いらっしゃい! さ、入って」
約束の時間通り家に現れた長狭を、さっそく大志と葵が中へ促す。
長狭はお邪魔しますと挨拶し、玄関内に足を踏み入れた。
今だシンク前から動かない遥希が3人の様子をそっと眺めていると、リビングへ向かい始めた長狭が気付き、軽く頭を下げられた。
「こんにちは、今日はご馳走になります」
「こんにちは……どうぞ中に」
長狭の挨拶にか細い声で答えると、再び頭を下げた彼はそのまま中へ進んでいった。
「すごーい、こんなにいっぱい」
「長狭先輩、わざわざすみません」
すでに長狭と共にリビングで腰を下ろした葵と大志は、長狭が持ってきてくれた飲み物とつまみに礼を言うと袋から1つ1つ取り出し始めた。
キッチンにいた遥希もとりあえず野菜が盛った大皿を両手に持ち、3人の傍へ近寄った。
テーブルの空いている場所に大皿を置くと、ようやく一緒に腰を下ろす。
斜め隣に座る長狭が、まだ自分の手元に置いたままの白い袋を遥希の前に差し出した。
なぜか突然自分の前に置かれてしまった遥希は、どうしてよいのかわからず困惑しながら白い袋を見つめた。
「よかったら後で皆で」
静かな長狭の声に教えられ、遥希は慌てて手を伸ばし受け取った。
「あ、ありがとうございます」
袋に入っているのは箱状だったので中身はおそらく洋菓子だろうとようやく気付き、すぐに礼を伝えた。
「長狭君わざわざありがとね。遥希、冷蔵庫入れておこうよ」
「うん」
酒の入った袋を手に持った葵と一緒に、そそくさと箱を持ち立ち上がった。
「お、いい感じに煮えてきた」
蓋を開け一気に湯気が立ち上ると、葵は嬉しそうにのぞき込んだ。
4人揃って囲うテーブルの真ん中に置かれた特大サイズの鍋はぐつぐつと音を立て、食欲をそそる美味しそうな香りを放ち始めた。
いつもはバラエティにとび最近は冒険しすぎる鍋も、今日は初心に戻りシンプルに寄せ鍋だ。
皆それぞれ好きな酒を手に取り、とりあえず乾杯を済ませる。
気を遣い飲み物とつまみを買ってきてくれた長狭本人はウーロン茶らしい。
今日車でこの家を訪れた彼は、最初から酒を飲むつもりはないようだ。
「長狭君、お先にどうぞ」
気配り上手の葵がさっそく手元のお玉と菜箸を勧める。
「どうも、頂きます」
長狭は丁寧に礼を言うと、菜箸を取り鍋に手を伸ばした。
「遥希、私ネギ多めシイタケ抜きね」
「はいはい」
葵が今日も変わらず自分の取り皿を差し出したので、思わず苦笑しながら受け取る。
豆腐は崩れやすいので、鍋をよそうのは苦手なんだそうだ。
バランス良く皿に具材を取り入れ葵に手渡すと、ついでに大志の分もよそう。
最後に手元にある自分の取り皿に手を伸ばすと、突然横から取り上げられてしまった。
「嫌いなものはある?」
斜め隣りに座る長狭が遥希に視線を向け尋ねた。
「……え! いやあの、自分で」
すでに取り皿を手に持った長狭は、どうやら遥希の分を自らよそってくれるつもりらしい。
慌てて遠慮しても一向に皿を返してくれない。
「遥希はなんでも好きだよ、特に豆腐とか。多めに入れてやって」
互いに引かない状況に、向かいの葵が早々に口を挟んだ。
葵にフォローされ、相手の厚意に遠慮するのは逆に失礼だとようやく察した遥希はすぐに諦め、大人しく待つことにした。
「はい」
「すみません、ありがとうございます」
わざわざ長狭によそってもらい、恐縮しながら受け取る。
豆腐が多めの彩り綺麗に盛られた自分の取り皿を、内心複雑な思いで見つめた。
どうして自分は今、この長狭に世話までかけさせているのだろう。
決して気付かれないようなるべく視線さえ向けないのに、何も気にしていない彼は遥希に対し自然な態度で接してくる。
さっきのように一々敏感に反応すれば、逆に要らぬことを悟られてしまうかもしれない。
下手に墓穴を掘るよりもう少し毅然に、堂々としていた方が良いのだろうか。
「長狭先輩、葵さんのカフェ行った事あります? ほら、ここに来る通り道に目立つのあったでしょ?」
「……ああ、確か白いコテージ?」
「そうそう、あそこで葵さん働いてるんですよ」
ここまで車で来た長狭もすぐ気付いたように、葵の働く近所のカフェはこのアパートを訪れる良い目印になってくれる。
近くに住む常連客も多く評判も上々で、遥希も休日を利用し遊びに行くことも多い。
「よかったら今度先輩も一緒に行ってみません?」
「長狭君って大志と違って忙しいんじゃない? 研究職でしょ?」
人懐こい大志が気さくに長狭を誘うと、葵がすぐに疑問を挟んだ。
そういえば共に製薬会社に勤める2人は、大志は営業だが長狭は研究職だとこの前耳にした。
遥希にはよくわからないが、葵の言う通り研究というくらいだから日夜忙しいのかもしれない。
「いや、基本は9時5時だからそうでもないよ。逆に大志の方が忙しいんじゃないか?」
「まあ確かに、仕事というより酒の付き合いが多いんですけどね……」
月曜もそうですと若干項垂れた大志は、それなりに忙しいらしい。
親しい者同士の飲みなら楽しいものだが、仕事絡みだと精神的にも大変だろう。
仕事仲間とは歓送別会程度で交友関係もせまい遥希は、そんな大志の姿に思わず同情してしまう。
「あ、野菜もうないね。遥希まだあったっけ?」
すでに具が乏しくなりつつある鍋は〆には少し早く、葵が心配そうに覗き込んだ。
「ちょっと待ってて」
「手伝う?」
「大丈夫」
すぐに立ち上がった遥希は葵に遠慮すると、1人隣のキッチンへ向かった。
冷蔵庫の前に佇み、ようやく安堵の息を吐く。
時間はそれほど経っていないはずなのに、緊張を維持した身体はすでに疲れを見せ始めた。
いつも自宅で鍋をやる時、葵と大志は深夜まで騒いでいる。
気持ちよく酔っぱらった大志は当然車で帰れるはずもなく最後は必ず寝てしまうので、そのまま家に泊まっていく。
今日もあの2人はその調子だとすると、はたしてこのまま夜までもつのだろうか自信がない。
せめてこうしてまめにキッチンへ逃げ込まなければ、耐えられそうもない。
しばらく気持ちを落ち着けると、ようやく冷蔵庫を開け残りの野菜を取り出した。
包丁を動かし始めてすぐ、リビングのテーブル傍に野菜を盛る大皿が置いたままである事に気が付いた。
とりあえず取りに戻ろうと一度手を止めた瞬間、突然まな板の横に大皿が置かれた。
驚いた遥希はとっさに背後を振り返ると、ピシリと身体を硬直させた。
「手伝うよ」
絶妙なタイミングで現れた長狭の姿に一瞬絶句すると、慌てて我に返った。
「いえ! だ、大丈夫です。1人で」
困惑した遥希が必死で遠慮しても構わず隣に立ってしまったので、思わず身を引いてしまった。
長狭はシャツの袖を軽く捲り流しで手を洗うと、まな板を自分の方へずらし手早く野菜を切り始めた。
何とも手際の良い包丁使いで、あっという間にまな板の上が埋まっていく。
彼の手先をただ呆然と見つめるばかりの遥希もようやくハッと気付き、切り揃えられた野菜を慌てて大皿に移し始めた。
「これで全部?」
「は、はい。すみません」
客である長狭に包丁を持たせてしまった遥希は、申し訳なく頭を下げる。
せめてこれ以上は何もさせまいと、さっそく大皿の野菜を部屋へ運ぶことにする。
確かにシンク隣に置いておいたはずの大皿が、なぜかこつ然と姿を消していた。
「あっ!」
すでに両手で大皿を持った長狭がさっさとリビングへ向かってしまった。
あまりの仕事の早さに再び呆気にとられてしまった遥希は、慌てて彼の後姿を追いかけ始めた。