《2》
「初めまして、柴原葵です。いつも大志がお世話になってます。ほら、遥希も」
自己紹介を終えた隣の葵から、軽く肘をぶつけられた。
ようやく我に返った遥希は慌てて男性から視線をずらした。
「……小野です」
今更どこにも逃げ場はなく、俯きながらボソリと呟いた。
「長狭です、初めまして」
向かいの長狭はそんな遥希をまったく気にすることなく、淡々と挨拶を返した。
初めましてと、今確かに長狭はそう言った。
すでに葵と大志から遥希の名前に触れ、ついさっき互いの目も合わせたばかりだ。
俯く遥希は目の前のテーブルを見つめたまま疑心暗鬼となり、ひたすら思考を巡らせ始めた。
もしかして、まだ気付いていないのだろうか。
それとも知らないふりをしてる?
いやそれ以前に、はたして彼は自分のことを覚えているのだろうか。
初対面だとはっきり口にした彼に、自分が忘れていなくても相手もそうだとは限らない事に今ようやく気付かされた。
すでにかなり昔の事だ。
おそらく彼の様子から察するに、名前すら記憶に残っていないのかもしれない。
まったく変化を見せない長狭の落ち着いた態度に一縷の望みが生まれ、今まで極度に張りつめた心がわずかにだが和らいだ。
それでも、これ以上ここにいてはまずい。
彼と向かい合っている状況は何も変わらない。
ここにいたくない。
遥希はひどく焦る気持ちを必死に押さえ、気付かれないように隣にいる葵の服をそっと引っ張った。
とっさに振り向いた葵に視線で訴える。
葵はすぐさま表情をわずかに尖らせ、軽く首を振った。
遥希の考えなど丸わかりなのだろう。帰りたいと必死に目で訴えても、彼女はすんなり許してなどくれなかった。
当たり前だ。今遥希が席を立ち逃げるようにこの場を去れば、相手に失礼なことくらい遥希も十分承知している。
自分が逆の立場だと想像すれば当然気分の良いものではないし、少なからずショックも受けるかもしれない。
けれどこれ以上彼の向かいに座り続ける自信など、今の遥希にあるはずもなかった。
どうしようかとひたすら悩みあぐねる遥希を置いて、さっそく3人は話を始めてしまった。
「大志から話はよく聞いてますよ。長狭さん、私達とは同い年なんですよね?」
「そのようですね、俺は大志より2つ上なんで」
「もしよければお互い敬語はなしでどうですか?」
「もちろん」
すでに親しんだ口調で話を始める葵に、長狭も快く頷いた。
「それじゃあ改めてよろしく。あ、遥希、長狭君ってうちらと同郷らしいよ」
すでに大志から聞いていたらしい葵に教えられ、ぎこちなく頷き返す。
内心いつ気付かれるかとびくびく脅える遥希は、すでに生きた心地さえしなかった。
「長狭先輩、確か本沢校出身でしたよね? 葵さんと遥希さんは麗陵女子高なんですよ。けっこう近いんじゃないですか?」
「そうだな。麗陵女子ならうちとは最寄りの駅も隣だったはずだ」
「へえ! そんなに近いんだ。だったら偶然、葵さん達とすれ違ってたりするかもしれませんよね?」
「長狭君って本沢校だったんだぁ。すごーい」
葵が思わず感心してしまうのも当然だ。
本沢校といえば県内でも一番レベルの高い中高一貫校だ。
遥希もよく知っている。
「長狭先輩と俺、大学のサークルが一緒だったんですよ。そのまま追っかける感じで、今同じ会社で働いてるんですけどね」
よほど彼に懐いているのか、それとも尊敬さえしているのだろうか、照れ笑いを浮かべ教えてくれた大志の言葉は決して冗談には聞こえなかった。
とりあえず大志のおかげで地元の話から一旦逸れたので、ほっと静かに息を吐く。
すでに逃げるタイミングを失くしてしまった今、せめてあと少しだけ我慢しようと膝にある手をぎゅっと握りしめた。
注文した酒と一部の料理が運ばれると、とりあえず4人はグラスを合わせ乾杯する。
遥希はちびちびとビールを口に含みながら、ひとり場を持て余すように他の3人の様子をさりげなく伺った。
すでに親しい大志を除き相手が今日この長狭でなくても、遥希は男性というだけで苦手意識を持っている。
そして親友の葵はもとより大志も、あえて聞かずともそんな遥希の心情をちゃんと理解している。
ただこの場でじっと黙っているだけの遥希に無理やり話を振ることもせず、わざと放っておいてくれるのも2人の優しさだった。
葵と大志が明るく笑いを交える中、常に落ち着いた態度を見せる長狭は静かな口調で2人に言葉を返していく。
黙って座っているだけの遥希に対しても、視線を向ける様子もなければおそらく意識すらしていない。
早々に遥希は見限られたようだ。
長狭の素っ気ないほどの自分への関心に、あれほど動揺をみせた心も今ようやく少し落ち着きを取り戻し始めた。
それでも、頭の天辺から足の指先すべてで向かいの長狭を強く意識している自分がいる。
こればかりはどうしようもない。
「でもおもしろいよねぇ、2人がそうやって並んでると」
「長狭先輩と俺? 何が?」
なぜか葵が失礼にもマジマジと向かいの大志と長狭を見比べ始めたので、大志は不思議そうに首を傾げた。
「なんていうか先輩後輩っていうより、兄弟ともまったく似てないし………………冷静な飼い主に纏わりつく甘えん坊なワンコって感じかな?」
「何それ、ワンコって俺の事?」
「だって全然タイプが違うんだもん」
ちょっといじけた大志にごめんごめんと謝る葵は、それでもおかしそうにケラケラ笑い始めた。
「2人は高校からずっと?」
突然向かいの長狭が葵に振った質問に、遥希の身体は再び緊張で強張った。
「ううん、ずっとではないよ。卒業して遥希はこっちに就職しちゃったから。私が短大出てからはずっと一緒だけど、ね?」
葵に笑顔で同意を求められ、ぎこちなく頷き返す。
「本当仲良いでしょ? 葵さん達ずっと一緒に暮らしてるんですよ」
「何? 大志もしかして羨ましいのぉ?」
葵が茶化すようにからかうと、大志も笑いながら素直にうんうん頷いた。
すでに4人で飲み始めてかなり時間も経過したはずだ。
葵も大志もピッチが早く、とうに軽く酔い始めている。
「あ、そうだぁ! ねえ、今度の鍋パーティーは長狭君も来ればいいよ」
すでにろれつもおかしくなり始めた葵の突飛な発言に、驚いた遥希は慌てて振り向いた。
一昨年の秋から始めた大志を家に招いての鍋パーティーは、3人の恒例イベントだ。
カフェで働く葵の定休が土曜日なので、それに合わせて毎月1度行っている。
寒い季節は大変喜ぶが夏の鍋はさすがに嫌だと大志が訴えるので、暑い時期や天気の良い日は外の川辺でバーベキューをしたりもする。
毎月3人で大いに騒ぎ盛り上がるこのイベントは、遥希も毎回すごく楽しみにしている。
当然それは相手が葵と大志という気を許せる仲だからだ。
酔った勢いからなのか、あっさりと長狭を誘ってしまった葵を信じられない思いで見つめた。
それだけはやめてと必死に目で訴えても、すでにでき上がっている葵はまったく気付いてくれない。
「いいですねぇ! 遥希さん、大丈夫だよね?」
「……え?」
先輩も一緒にいいよね? と無邪気に笑う大志に確認された遥希は、当然即答などできるはずがない。
わずかに困惑の表情を滲ませ、大志を見つめ返した。
まさか遥希が拒否するなど微塵も思っていないのだろう、期待の面持ちで返事を待つ大志の純粋な姿に、ギリギリまで返答を躊躇うも結局抵抗などできるはずがなかった。
「……そうですね、よかったら」
誰に言うでもなく弱々しい声で無理やり呟いた遥希に、葵と大志は無駄に盛り上がりを見せる。
「先輩、鍋大丈夫ですよね? 来週の土曜日なんですけど空いてます?」
「ああ、特に予定はない。お邪魔させてもらうよ」
せめて長狭本人に遠慮してもらいたかった微かな望みも一瞬で消え去り、目の前が真っ暗になった。
「じゃあ改めて、4人の新たな出会いと友情にかんぱーい!」
友情など一瞬も交わした覚えがない遥希を無理やり巻き込み、葵が声高らかにジョッキを持ち上げた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
遥希はとうとう絶望の思いを胸に抱え、自分のグラスを力なく持ち上げた。