《12》
父と母が離婚したのは遥希が9歳の時の事だ。
ある日突然、父は弟の佑真を連れて家を出て行った。
母と遥希が残された家に、父はそれ以降帰ってくることはなかった。
父と母が離婚した事実を遥希は知らなかった。
誰も教えてはくれなかった、母さえもそれは同じだった。
父と佑真がいない家に、母と遥希だけが残された。
父はそれ以降、母と遥希に会いに来てはくれなかった。
遥希は父が佑真だけを連れて家を出た理由を知らなかった。
母は教えてくれなかった。
母はいつも笑っていたから、何も聞かなかった。
母はいつも遥希に嬉しそうに笑って、父の話をしていた。
父は今日も帰ってこないのに、父の座った席には父の食事が置いてあった。
父は今日も帰ってこないのに、母はテーブル前に座って待っていた。
父が仕事から帰ってくるのを、いつまでもそこで待っていた。
今年は長く続いた寒さも、4月に入り急に暖かくなった。
陽気の良い昼下がり、暖かな光が差し込むベランダは程よく風もあり気持ちが良い。
冬の間、ベランダに置いたままにした何もない鉢を手前に並べる。
近くの花屋で購入した春の花は3種類、ビオラ、ペチュニア、マーガレット。
小さい鉢に1つずつシンプルに、土を掘り苗をそっと植えていく。
まだ蕾が目立つ花達も、この陽気が続けば来週には咲き始めるかもしれない。
3つ並べた鉢植えの隣に、この前長狭にもらった鉢も置く。
最初は蕾ばかりだったロベリアも綺麗に花開き、紫色の小さな花はとても可愛らしい。
できれば長く咲いていてほしいと、すでに気に入ってしまったその花を見つめた。
最後にすべての鉢植えにたっぷり水を掛け、部屋の中へ戻った。
休日土曜日の午後、急に暇を持て余した遥希はどうしようかと考え始める。
葵がいないこの時間、1人で家にいるのも何となく寂しいものだ。
定休が土曜日の葵だが、急に仕事が入ってしまった。
今日予定していた鍋パーティーも中止となった。
内心ほっとしたのも事実だが、準備の慌ただしさもなくシンと静まった部屋に少し気が抜けてしまった。
再びベランダの窓を見つめ、この前立ち寄った花屋でものぞいてみようかと思い立った。
近所にあった小さな店は、花を購入したその日まで訪れたことがなかった。
そうと決まれば気分も乗り、さっそく出かける準備に取り掛かった。
「あれ」
店の前に立つと、ドアに掛かるCLOSEDのプレートを見つめた。
店頭にあった花も今日はすべて中にしまわれ、扉もきっちり閉められている。
土曜日が定休日なのか、それとも臨時休業なのかもしれない。
残念な息を吐き、どうしようかとそのまま店の前で立ち止まった。
せっかく外に出たのだからどこかに寄り道して帰ろうと、近所にある店をしばし思い巡らせる。
少し先の葵のカフェを思い出し、久しぶりに寄ってみようと再び歩き始めた。
手元から音楽が鳴り、トートバックに入れたスマホを取り出した。
着信表示を確認した遥希はピタリと足を止めた。
突如どうしようどうしようと1人道端でオロオロ取り乱し始める。
知らないふりで決め込みたいが、そう言えば先週世話をかけた礼もまだ伝えてなかった事を思い出す。
覚悟を決め、しばらく待たせてしまったがようやく通話ボタンに触れた。
「はい、小野です」
相手は当然知っているはずだが、緊張のせいか丁寧にも名乗ってしまった。
『長狭です』
「こんにちは」
いつもの低く静かな声は、正真正銘やはり長狭だった。
とりあえず挨拶を返すと同じ言葉が返ってきた。
一体何の用件だろうと、この前の礼は後にしてとりあえず長狭の話を待つ。
『今、外に?』
「はい、外です」
今いる場所は車道沿いなので、走る車の騒音が電話越しに聞こえたのかもしれない。
『用事か何か?』
「はい、ちょっと寄るところがあって」
『もしかして柴原さんのカフェ?』
ずばり言い当てた長狭の勘の良さに驚いた遥希は、もしかしてどこかで見られてる?と失礼にも辺りをそっと見回した。
「……そうですけど、もしかして何かありましたか?」
いまだ長狭の用件がわからず、反対に聞き返した。
『今日はこれから時間が空いてしまったから、よかったらお茶でもどうかと思って』
「お茶、ですか?」
『カフェには一人で?』
「はあ…………まあ」
何だかとんでもない予感がして、なるべく曖昧に言葉を返した。
長狭の返答がすでに想像できて怖い。
『ちょうどよかった。だったら一緒にいいかな』
遥希の予感は残念にもズバリ的中してしまった。
一瞬カフェで向かい合い、長狭と2人きりでお茶を飲んでいる自分の姿が脳裏に過る。
「あの、でも……」
さすがに2人きりは絶対無理だと、何とか断るため必死に言い訳を模索し始める。
お茶の誘いを躊躇した遥希に、電話先の長狭はそれ以上続けずそのまま黙ってしまった。
互いの沈黙が痛い、あまりに重すぎる。
この間あれだけ世話になっておきながら今日まだ礼の1つも口にしてないくせに、ここで素気無く断ればあまりに薄情すぎじゃないだろうか。
結局痛い沈黙と良心の呵責に耐えられず、とうとう観念した遥希は再び口を開いた。
「じゃあ、良ければ一緒に」
お茶の誘いを受け入れた遥希の小さな返答に、電話先の長狭は詰めた息を一度深く吐いた。
長狭の安堵を耳元で強く感じ取ってしまった。
『今はどの辺に?』
「もうすぐ目の前です」
すでに20mほど先にカフェが見えている。
『20分程で着くから、中で待ってて』
「はい」
互いに挨拶を返し通話を切ると、再び歩き始めた。
窓からそっと中の様子をのぞき込む。
白の外装が一際目立つコテージのカフェは、この時間1人客の姿が特に目立つ。
接客中の葵の姿を視界に確認すると、ようやく窓から離れた。
さっきは店の中で待つと返事してしまったものの、葵の存在を思い出しそうもいかない事に気付いた。
とりあえずこのまま長狭の到着を待とうと決め、入口ドアの脇に移動した。
約束の時間通り20分程で長狭は店に着いた。
カフェの隣にある専用駐車場に車を止めると、足早にこっちへ向かってくる。
遠目に映る薄手シャツにジーンズ姿の長狭の姿はいつもより軽装で、普段の落ち着いた印象より若々しく感じた。
「ずっとここに?」
「はい」
遥希がいまだ入口傍に佇んでいたせいで、わずかに戸惑いを浮かべた長狭に着いて早々確認された。
「待たせてごめん。入ろうか」
申し訳なさそうに謝ると先を急いだので、慌てて引き止めた。
「あの、お願いがあるんです」
突然表情を硬くし俯いた遥希は、失礼を覚悟で再び言葉を続けた。
「葵にはここで偶然会った事にしてくれませんか? すみません、誤解させたくないんです」
正直な気持ちをぶつけると、そのまま頭を下げた。
本当は長狭にこんなこと言いたくなかった。
電話の時、最初から他の店を指定するべきだったのかもしれない。
けれどどっちにしろこの店を拒否すれば、長狭は遥希の気持ちに気付いたはずだ。
結局変わらない。
「入ろう」
長狭は短い言葉で再び遥希をうながした。
俯いた顔を上げ視線を向けると、彼は優しく頷いた。




