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《10》

 


 ワゴンタイプの車は目線が高く、車内もゆったりと余裕がある。

 普段葵の軽自動車しか乗る機会がないせいか、乗り心地は良いのだが慣れない感覚を覚え妙に落ち着かない。

 ソワソワと待っていると、運転席側に長狭が乗り込んだ。

 隣り合わせの席はこれ以上距離を離せないが、想像より車内が広かったおかげか互いもそこまで近く感じない。

 よかったと安堵し緊張で固まった心を少し落ち着けると、目の前を見つめた。


「シートベルト」

「あ、はい」

 隣から優しい口調で教えられ、ついうっかりしていた遥希は急いで横のベルトを引っ張った。


 互いにシートベルトをはめる際、近寄った手が偶然のタイミングで軽く触れてしまった。

 ほんの掠るような触れ合いなのに、一瞬で顔に熱がこもるのがわかった。

 触れた手の感覚がおかしく、誤魔化すように膝に戻しサイドの窓を見つめた。

 車内の密室が突然息苦しく、隣の長狭の空気を敏感に感じ取る。


「行くよ」

「はい」

 一々許可など取らなくても良いのに、親切な彼は発進する際も教えてくれる。

 時に大胆に行動する彼は、こうやって細やかな気配りも忘れない。


 すでに外は暗く、ライトを点けた車はゆっくりと車道を走り始めた。

 それほど揺れを感じない車もそうだが、まるで人柄を表すように長狭の運転は穏やかで静かなものだ。

 徒歩15分の距離も、おそらく車なら4.5分程で家に着くだろう。



「本当に歩くつもりだった?」

 サイドの窓だけを見つめていた遥希に、隣から静かに声が掛かった。

 2人だけの車内に一切会話がないのも気まずく感じたのかもしれない。


「はい、歩いてきたんで」

「……あの米袋を持って?」

 視線を前に戻し肯定すると、少しばかり訝しげに再び問われた。


「はい、あのくらいは」

 全然平気ですと続けたかったが、遥希の怪力を知らない長狭が驚くかもしれないので慎んだ。

 再び沈黙してしまったので、何となく気まずくなり視線をサイドの窓に戻した。


「今度から手伝うよ」

 気遣いの人長狭がとんでもない発言をかましたので、まさかの思いで隣を振り向く。

 思わず呆然とした表情でハンドルを握る長狭の横顔を見つめた。


「いつでもいいから」

「あの、本当に大丈夫なんで気にしないでください」

 今からでも冗談だと笑ってくれればいいのに、本気でそうするつもりかもしれない。

 すでに長狭の気質を知ってしまった遥希は、これは本気で止めなければまずいんじゃないかと内心ひどく焦り始めた。


「連絡して」

「…………はあ、じゃあその時は」

 よろしくお願いしますと蚊のなくような声で呟く。

 遥希の遠慮に引く様子がない長狭に、すぐさま思い直し気持ちだけ素直に受け取る事にする。

 単純だ、連絡などしなければそれで済む話じゃないか。

 それ以前に彼の連絡先自体知らない。


 

 前方にアパートが見えてほっと息を吐く。

 やはり5分程度で到着したが、異様に長く感じた一時だった。

 長狭はアパート前の客専用駐車場にゆっくり車を止めると、一度エンジンを消した。


「お世話になりました」

 隣に身体を傾け深々とお辞儀した。

 特に返答がない長狭は、着ていたコートから何かを探し出し遥希に向かって差し出した。


「連絡先、交換しておこう」

 当然互いの電話番号を交換するためだろう、手に持った彼のスマートフォンを目の前に見せられてしまった。

 笑みを浮かべる長狭に見つめられ、しばらく放心していた遥希は一気に後悔が襲いかかった。


 完全に失敗した。

 ついさっき長狭の気遣いにお気持ちだけ受け取ってしまったせいで、自ら事態を悪化させてしまった。

 彼への連絡に同意したのだから、当然彼の連絡先を知らなければならない。

 単純に了承した遥希があまりにも軽率で浅はかだった。


「あの、あの」

「今持ってる?」

「……はい」

 必死に言い訳を口にしようとあぐあぐしているうちに、さっさと出せと催促されてしまった。

 観念する暇も与えてもらえず、ただ言われるままにバックからもたもたとスマホを取り出す。

 あっという間に彼の名前が登録され、しばらく呆然と手に持ったスマホを見つめた。


 

 放っておけばキッチンまで運んでくれそうな長狭に、ここでお願いしますと玄関で必死に止めた。

 今回はすんなり引き下がってくれ、玄関の上がり口に買い物した荷物をすべて運んでくれた。


「ありがとうございました。本当に、最後の最後までお世話になってしまって」

 最後に玄関ドアの前で向かい合い、再び感謝のお辞儀をする。

 今回で何度目だろう。出会ってまだ数度しか会ってないのに、長狭には今まで一番頭を下げたように感じる。

 このまま帰すのも失礼だろうが家に上げお茶を勧められるはずもなく、お礼はまた今度考えることにする。


「少し待ってて」

 向かい合っていた長狭になぜか引き止められる。

 玄関前に遥希を残した彼は、そのまま車を止めた駐車場に向かってしまった。

 疑問に思いながらも様子を見守っていると、彼は再び遥希の元へ戻ってきた。


「よかったら」

 再び向かい合い、目の前に差し出される。

 長狭の手には小さな鉢植えの花があった。


「……ロベリアですか?」

「うん」

 まだ蕾ばかりの紫色のロベリアは遥希も知っている花だ。


「偶然見つけたんだ。もしかしたら好きかと思って」

「……え?」

「この前お邪魔した時、ベランダに鉢が置いてあったから」


 長狭の言う通り、家のベランダには3個の小さな鉢が置いてある。

 土だけが入った色のない鉢だ。

 昨年の秋まで、そこにはペチュニアとインパチェンス、アメリカンブルーの花がそれぞれ咲いていた。

 冬の季節はお休みした鉢に、今年の春は何を植えようかとそろそろ思い始めていた。


「遥希さんに」


 長狭に名前を呼ばれた。

 すでに遠くなった昔、あの時の彼は遥希をそう呼んだ。

 彼は今、あの時と同じ響きで遥希をそう呼んだ。

 あの時彼が紡いだ響きを、今も遥希は覚えていた。 


 間近に鉢植えを向けられ、無意識に手に取ってしまった。

 ぼんやりと花を見つめた遥希に、長狭は一言挨拶を残した。

 お礼を伝えるのも忘れ、すでに動き始めた車を視線で追いかける。

 すでに遠くなってしまった長狭を、ただ玄関前で見つめ続けた。





「米なら言えば買ってきたのに」

 すでに夜9時半過ぎ、仕事から帰ったばかりの葵はようやく遅い夕食にありついた。

 今日は手抜きしたカレーライスを口に運びながら、向かいに座る遥希に不満気な視線を向けた。


「だって今日安かったから」

 それも確かに事実なのだが、葵に買い物をお願いしたくないのも本音だ。

 米なんて頼んだら、金銭感覚が大雑把な彼女は高級ブランド米を平気で購入してくるだろう。

 今まで何度も後悔した経験があり、絶対に米だけはお願いしたくない。


「偶然長狭君に会えてよかったね」

「うん、助かった」

 今日長狭に買い物を手伝ってもらった事を葵にも正直に話した。

 後日万が一知られた時、それこそ面倒な事になる。


「今度ちゃんとお礼しなきゃね。でも何で長狭君、あそこのスーパーにいたの?」

「……あ、そうだ忘れてた。うちに用事あるって言ってた」

「うち? 何の用事?」

 葵も特に心覚えがないのか、不思議そうに首を傾げた。


「何だろう……特に聞かなかったから」

 すっかり長狭の用件を忘れそのまま帰してしまい、結局わからずじまいで終わってしまった。


「それ?」

 葵は遥希の手をスプーンで指した。


「……これ?」

 葵が教えたのは、遥希の手元に置かれたロベリアの鉢植えだ。

 最後に長狭から受け取った鉢植えを改めてまじまじと見つめた。


「長狭君がくれたんだから、用事ってそれだったんじゃない?」

 葵の出した答えが自分の手元にあって、再び新たな疑問が生まれた。

 これを渡すためだけにわざわざ家までやってくるだろうか。


「これのために?」

「だって、他に用事なんて思いつかないじゃん」

 俄かに信じがたいが、葵の答えも間違ってはいない。

 鉢植え以外の用事など、それこそ見当がつかなかった。


「遥希に早く渡したかったのかもね」

「え?」

「長狭君、来週まできっと待てなかったのかもしれないね」

 花だしね、と最後に付け足し笑った葵は、しばし止めていたスプーンを再び動かし始めた。


 来週、長狭は再び家を訪れる。

 もし本当に長狭の用事が鉢植えだったとしたら、おそらく来週彼はこの家で見つけるだろう。

 その頃になれば、今はまだ小さな花の蕾もすでに咲き始めているだろうか。

 それを見た彼は、遥希に鉢植えを渡した時のように嬉しそうに笑うのだろうか。


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