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《1》

 



 小さい頃、会社帰りにどこかで飲んできた父が、駅前のケーキ屋でケーキを買ってきてくれた。


 小さな白い箱の中には並んで3つ、 苺ショートとチーズケーキ、残り1つは母の分のガトーショコラ。

 苺ショートが大好きで、箱の中を見つめそれが食べたいと心の中で思っていた。


 母が1つずつ、皿の上にそっとケーキを載せていく。

 皿に載った苺ショートをじっと見つめていると、母は笑いながら目の前に苺ショートを置いた。


 遥希はるきは苺が大好きだもんねと、母は嬉しそうに笑っていた。

 




 夢から覚めた遥希は窓に意識を向け、すでに明るくなった外をカーテン越しに見つめた。

 傍に置いた時計を確認すると、すぐにベットから起き上がる。

 静かにカーテンを開き、そのまま自分の部屋を抜け出した。


 いつものようにリビングの暖房ヒーターをつけ、キッチンに向かう。

 小さな窓から差し込む朝の光が起きがけの冷えた身体に染み込むようだ。

 今日もいつもと変わらず遥希の朝が始まった。


 シンク前に立ちさっそく朝食の準備を始めながら、再び壁の時計を見上げる。

 あと1時間もすれば家を出なければならない。

 ようやく頭が働き出すと同時に、手早く包丁を動かし始めた。

 フライパンで目玉焼きとウインナー、ほうれん草のソテーを一緒に作り皿へ移す。

 ミニトマトを脇に添え、上から軽くラップをかけた。

 小鍋に作ったみそ汁は蓋をし火を止め、そのままにしておく。

 いつものように自分の朝食は味見程度でさっさと済ませ、20分程でキッチンを抜け出した。

 


 顔を冷水で洗いタオルで拭うと、癖のないショートカットの黒髪に櫛を通し整える。

 そのまま洗面台の鏡を見つめた。


 職業上特に化粧の義務はない遥希は、毎朝鏡で姿を確認するだけだ。

 口紅一本すら収納ダンスの引出しにしまい込み、手元に置いていない。

 成人をとっくに過ぎた今も化粧をのせた経験は、おそらく両手で数える程しかない。

 結局仕事など言い訳に過ぎず、自分を飾る事に今一興味を抱くことができない。

 出勤前の身支度など、着替えを含めて15分もあれば十分だ。


 残り時間ぎりぎりまで使い、簡単にリビングとトイレの掃除を済ませておく。

 すべての戸締りを確認すると、最後に彼女の部屋のドアを2度ノックした。


「おはよう、起きてる?」

 外から大きく呼び掛けても返事がないので、勝手にドアを開け部屋の中へ進む。


「朝だよ。そろそろ起きて」

 ベットの上で頭まで毛布に埋まり丸くなっている身体を、大きく揺さぶる。

 毎朝のことだが相変わらず反応がないので、しつこく何度も呼び掛けを繰り返す。


「遅刻するよ。早く」

「うん……もうちょっとだけ…………」

 か細い声で呟き返されたので、とうとう諦めの息を吐いた。

 ベットの脇に置かれた目覚まし時計を10分後にスヌーズで再びセットし、彼女の耳元に転がしておく。


「朝ごはん作っておいたから、起きたら食べて」

 毛布の中からボソリと返事が聞こえたのを確認すると、彼女の部屋から離れた。


 今朝のように遥希がこうして世話を焼かなければ、朝にはめっぽう弱い彼女の1日はなかなか始まらない。

 仕事を持つ一社会人として彼女を遅刻させるわけにはいかない、同居人である遥希の責任は重い。

 彼女への懸念を残したまま火の元を再度確認し、ようやく家を後にした。

 

 


 高校卒業後、当時18歳だった遥希は親元を離れると、同じ県内でも100km以上離れたこの町に越してきた。


 1人地元を出たのは就職のためだ。

 当時は今住んでいるアパートではなく、就職先の小さな社員寮から新たな生活を始めた。

 初めての土地、そして初めての仕事、寮でのまだ親しくない同僚との共同生活。

 すべてが初めて尽くしの戸惑いと緊張の日々も、数か月経つ頃には普通となった。

 早く慣れてしまわなければいけなかったし、元々が地元に強い未練を残していたわけでもなかった。

 新たな環境に適応するのも、今振り返れば同じく寮に入ったばかりの同期の同僚よりはるかに早かったかもしれない。


 高卒で働き始めた遥希は、今住んでいるアパートから徒歩30分程の場所にある縫製会社の作業場に勤務している。

 仕事は朝9時から夕方6時まで、途中2度の休憩を挟み、作業中は黙々とミシンを踏み続ける。

 1日の大半をそうしていると勤務が終了する頃にはさすがに目も疲れているし、じっとしている身体はそのまま放っておけばカチカチに固まってしまう。

 

 同じ作業場内で働く同僚のほとんどは女性だ。

 遥希より齢の若い子や同年代もいるが、大半が30代から50代の年齢層である。

 昨年25歳になった遥希もここで働き始め、すでに7年が経過した。

 以前社員寮で一緒だった仲間達とは今も年齢関係なく親しく、周りの人間環境にも十分恵まれている。

 何より縫製は日々同じ作業の繰り返しだが、まったく苦ではない。

 この仕事は自分の肌に合っていると実感している。

 おそらくこれから先も大きな事情さえ出来なければ、自ら辞めることはないだろう。

 運良くも最初に恵まれた環境で職を持つことができたのは、遥希にとって幸せなことに違いなかった。

 


 今日もいつもと同じように仕事を終えると、一度固まった身体を思いきり伸ばした。

 片付けを済ませたあと作業場を離れ、そのまま更衣室へ向かった。


 手早く身支度を済ませ同じく勤務上がりの同僚達と挨拶を交わすと、1人先に更衣室を抜け出す。

 ほぼ同じタイミングでバックに入れておいたスマホが鳴り出したので、すぐに取り出した。


『今日は大くら集合だからね』

 挨拶を省き、突然始まった相手の彼女の言葉をとっさに考える。


「……大くらって、西町の?」 

『うん、去年行ったの覚えてるでしょ?』

 確かに以前一度だけ連れて行ってもらった居酒屋のはずだ。

 自宅アパートから十分歩ける距離であったし、今いる会社からは更に近い。場所も記憶している。


「何時?」

『7時』

 簡潔に確認を済ませ了承すると、すぐに電話を切った。



 同居人の柴原しばはら あおいに飲みに誘われたのは1週間前のことだった。

 遥希にとって葵は、高校時代からの唯一親友と呼べる友人だ。

 遥希と違い地元の短大に進学した葵は、卒業と同時に今住んでいる遥希と同じ町にやって来た。

 それを機に社員寮を抜けた遥希は彼女と共同でアパートを借り、今現在も一緒に暮らしている。

 彼女との生活もすでに5年が経過した。 


 華奢で一見清楚なお嬢さんの葵は意外にも大雑把で行動的な性格で、ただ親友の遥希と一緒だと楽しいからという何とも単純な理由で地元を出てしまった。

 大胆な葵の行動に決して嬉しくないわけではなかった遥希だが、それ以上に責任を感じずにはいられなかったのも本音だ。

 葵の母親もわざわざやってきて、どうか娘を宜しくと深々頭を下げられてしまってはどうしようもない。

 葵に誘われるまま、アパートでの2人暮らしが新たに始まった。

 今借りている3DKの部屋は家賃も水道光熱費もすべて葵と折半なので、金銭的に特に問題はない。

 慌ただしく始まった葵との共同生活も小さな問題は諸々あったが、すぐに慣れ楽しいものとなった。

 元々葵とは互いの性格がまったく異なるせいなのか、逆に相性が良いのかもしれないと度々実感させられる。

 



 コンビニで暇をつぶし、約束時間19時の10分前に合わせ店に到着すると、すでに入口近くに葵の姿があった。


「葵早いね。待った?」

「ちょっとだけね。先入ってようよ」

 葵は傍に近寄った遥希の姿を確認するとさっさと中へ入ってしまったので、急いで後に続いた。


 意外に広い純和風のお洒落な店内をざっと見渡し、1年程前にここへ来た当時をようやく思い出す。

 この時間すでに客は半分程まで埋まっており、周りは早々騒がしい。

 店員に案内され、2人は奥の座敷へ向かった。


「お店大丈夫だった?」

 座布団に腰を落ち着けると、隣り合わせで座った葵に尋ねた。


「前から言っておいたから。それに私が遅刻したんじゃ遥希も居辛いでしょ?」

 遥希に比べ朝もやや遅い出勤の葵は今、自宅アパートから近いカフェの従業員として働いている。

 夜は8時半まで営業しているので、葵の帰宅時間はいつも早くて9時過ぎだ。

 まだ7時前のこの時間に帰れることは滅多にない葵だが、今日は遥希を気遣う意味でも予定通り早めに仕事を上がってくれたらしい。

 いつも大雑把な葵だが、気配り上手な所は昔から変わっていない。


「遥希、大志とはいつ振りだっけ?」

「えーと…………確か大志君がお正月に遊びに来て以来かな。半月振りくらい?」


 古谷ふるや 大志たいしは遥希より2歳年下で、葵の恋人である。

 大学卒業後、製薬会社に勤務する大志は2年ほど前、大学の知り合いが開いた合コンで葵と偶然出会った。

 その後2人は間を置くことなく交際を始めたのだから、よほど互いに好印象だったのだろう。

 葵を通じて大志と知り合った遥希も、彼の見た目素朴で人懐こい性格も幸いして、今では唯一気さくに話せる男性の友人でもある。


 

「あ、来た。大志こっちだよ!」

 廊下の先からこっちに向かって歩いてきた恋人の姿を一早く見つけた葵は、嬉しそうに合図を送った。


「ごめんね待った? あ、遥希さんこんばんは」

「大志君、こんばんは」

 目の前までやって来た大志は金曜日の今夜、会社帰りのスーツ姿だ。

 相変わらずニコニコ笑ってくれたので、遥希も明るく挨拶を返した。


 すぐに向かいの席に座るかと待っていると、大志は一度背後を振り返り気にし始めた。


「先輩、こっちです! こっち」

 大きく手を振る大志の行動に、どうやらここへ来たのは彼1人ではないことに気付かされた。

 とっさに困惑の表情を浮かべた遥希は、同じく廊下の先に視線を向けた。

 今日はいつものように葵と大志の3人で飲むと聞いていたはずだ。

 突然の参入者らしき存在に、遥希の心が騒がしく乱れた。


 静かに大志の背後から現れたスーツ姿の男性が視界に入り、さりげなく俯く。

 すでに親しい大志だから良いものの、プライベートで他の男性と接触する機会も少ない遥希はどうすればよいかわからず、戸惑いしか覚えない。


「先輩、紹介しますね。俺の彼女の葵さんと友達の遥希さんです」

「こんばんは。さ、どうぞ早く座ってください」

 大志の丁寧な紹介の後、隣に座っていた葵がすばやく立ち上がり相手の男性を同じ席へ促した。


「どうも、失礼します」

 大志と葵が明るく接する中、響く男性の声は低くとても落ち着いている。

 音静かに座敷へ足を踏み入れると、遥希の向かいの席に腰を下ろしてしまった。


 物静かな男性の雰囲気が何となく伝わってきて、いつも明るく笑っている気さくな大志ともタイプが違うらしい。

 男性はわずかに俯いたまま今だ視線も向けない遥希を気にする様子もない。

 強張った身体が、少しばかり安堵でほっと緩まった。

 せめてこれ以上は失礼にならないように視線を上げると、先輩らしき男性の隣に座った大志を見つめた。


「あ、先輩の紹介がまだでしたね。葵さん遥希さん、俺が大学時代からお世話になってる長狭ながさ先輩です」

 大志の丁寧な紹介をさりげなく耳に入れた遥希だったが突如ハッと反応すると、無意識に向かいを見やった。

 同様に向かいに視線を向けていた男性と、かち合うように互いの目を合わせた。

 今初めて男性の顔を真正面から見つめた遥希は驚くあまり、一瞬身体が小さく震えた。


 長狭――――確かに大志は、この男性を長狭と紹介した。

 そして今、確かに遥希は目の前の男性を知っている。

 心臓の高鳴りが怖ろしいほど全身に響き渡った。

  


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