第零夜
アンデルセンの童話「絵のない絵本」にもし前日譚があれば……と、想像して書いたものです。
「きのう」と、月が言いました。「わたしはコペンハーゲンの片隅に建っている小さな家の窓にさしこみました。ひとりの女がこの世界に新しい命を生み落とそうとするところでした。ベッドのまわりにはこの女の夫と、町の産科医と、髪をみつ編みにした少女がいて、その様子を見守っていました。この少女は自分が姉になる瞬間を心待ちにし、母の手をきつく握っていました。『お父さん、赤ちゃんの名前は、なんていうの?』父親は答えました。『赤ちゃんの名前は――』しかしわたしはその答えを最後まで聞くことができませんでした。なぜなら、雲がわたしを覆い隠し、光を遮ってしまったのですから! 再びその家にさしこんだとき、わたしは男の赤ん坊が産科医の腕に抱かれているのを見ました。そしてこの少女の顔は生命の奇跡と同じくらい新鮮な希望に満ち溢れていたのです!
その家からほど近い場所に、ひとりの青年が住んでいました。彼は小ぶりのキャンバスにみどりの野原を描いているところでした。それは暖かく、夢のような風景で、実際この青年の夢だったのです。この貧しい絵かきは灰色の町を見おろす家にたったひとりで暮らしていました。その絵は人々を惹きつけるにもかかわらず、彼は自分の描く絵が好きではありませんでした。青年は描き上がった野原をしばらく見つめていたかと思うと、黒い絵の具で絵を塗りつぶしてしまいました。
青年は窓の外を見ました。するとその顔が花の咲くようにぱっと明るくなりました。彼はそこに旧友の姿を見つけたのです。そう――わたしという友人を!」
教会にさしこむ月の光がかすかに震えたように思われました。
狼はぽろぽろと涙を流しました。コペンハーゲンの夜の景色が、あまりにも美しく、あまりにも遠かったからです。
そこは欧州の山奥にある、捨てられた教会でした。この場所に最後に人がいたのはもう百年も前のことです。狼は毎晩この教会にやってきては、朽ちた祭壇の前に座り、割れたステンドグラスの間に覗く月を見上げ、月のしてくれる話を聞くのでした。
「ところでわたしはこの青年とひとつ約束をしました」
月は言いました。
「わたしは今夜、きみにさよならを言わなければなりません」
狼は己の耳を疑いました。ガラスの粒がぱりんと音をたてて弾けました。
「なぜですか? あなたは何年もの間、毎晩わたしに会いにきてくれたではないですか! その青年と一体どんな約束をしたというのです?」
「わたしは明日から毎夜彼に会いにいき、わたしが見た世界の様々な話をするのです。ちょうど今まできみにしてきたのと同じように。そのためにわたしはもっと多くのものを見なければなりません。きみに話を聞かせている時間はなくなってしまったのです」
狼の目に、今度は別の涙が溢れました。それは教会の床に水たまりをつくり、狼の姿をうつす鏡となりました。
「あなたは人間がお好きですね。考えてみれば、あなたはこの数年間、人間の話しかしませんでした。だから明日からはわたしではなく、その青年のところにゆくのでしょう」
「わたしはきっと彼にきみの話を聞かせましょう。そして二度ときみに語りかけることはありません」
「最後にお願いをしてもいいですか?」と、狼は尋ねました。「わたしに名前をください。人間の名前をつけてください!」
狼は悲鳴をあげました。
月が雲に隠れてしまったのです。それは灰色の、重たい雲でした。狼は月が顔を出すのをじっと待っていました。心臓が絞めつけられたように息が苦しくなりました。
雲の向こうがぼんやりと明るくなったと思うと、一瞬、月の光がいつものように狼のもとに届きました。
「きみに、タイヨウと……」
狼はそう言う月の声を聞いたように思いました。
「タイヨウ? それがわたしの名前ですか? なぜ、なぜタイヨウなのですか?」
しかし月は永遠に見えなくなってしまいました。
狼は月にもらった名前を抱いてひっそりと教会を去りました。大事な名前は、ねぐらに帰ってからほくほくとした喜びに変わりました。
太陽には、遠い東方の国の言葉で、希望という意味があるのです。