赤い瞳の捕食者
七つの月が代わる代わる上り続ける夜。
終わりのない夜。
森に囲まれた村には火が焚かれる。
魔女たちが踊り、悪魔が笑い、邪悪なものどもが歌いだす。
今日は祭りだ。
新鮮な人肉が手に入った。
○
だいたい、魔界なんていうのは人間にとって暮らしにくい場所だ。
ルールなんてろくに無く、村があるだけましなくらいの無法地帯。食べ物がそこらに生えてくることはなく、強い魔族が弱い魔族を食べる、文字通りの弱肉強食だ。話のできる魔族は一部の上位種のみであり、たいていの場合、魔族に出くわしたら死ぬ他にない。おまけにその一部の上位種魔族でさえ、気まぐれで偏屈なものばっかり。命乞いなど無駄な行為でしかない。
魔界において、人間は餌でしかない。いや、弱いくせにふくふくと肥え太り、脂ののった人間は魔族たちのごちそうだ。普段は仲の良くない魔族も、人間を捕まえた時だけは村のものたちに分け与える。
すぐに切り分けられて美味しく頂かれるかもしれないし、悲鳴を聞きながら踊り食いかもしれない。趣味の悪い上位種は、命乞いや悲鳴を聞くのを前菜に楽しむこともある。そしてそれは、魔界においてめったにない娯楽でもある。
人間は餌だ。
人間はごちそうだ。
稀にしか魔界に足を踏み入れない人間の入手に、村は狂喜している。
○
村の喧騒を聞きたくなくて、私は村の外れの森に足を踏み入れた。夜の明けない森は暗く、深い影を落としている。足元の草や木の根に足を取られ、何度も転びそうになる。慎重に歩かなければ、魔界の森にはそこら中に毒草が生えているのだ。
そう思っても、なかなか意識するのは難しい。今はただ、村から離れたい。覚束ない足取りで当てもなく走る。
そうしてしばらく走った先だった。ぼすん、と重い感触を全身に受けて足が止まる。
「あ、すみませ……」
思わず謝ってしまうのは、長年の癖だ。ポストにぶつかっても謝るくらいだから、温かさと多少の柔らかさを持つものに対してはなおさらだ。謝罪の言葉を言いながら、気まずさに顔を上げる。
目の前にいたのは、巨大な毛のかたまりだった。出てきた言葉が途中で詰まる。
明らかに人ではない存在がそこにいた。獣でもない。毛むくじゃらのそれは、強いて言うなら熊に似ているかもしれない。頭らしい突起が丸く大きな体のてっぺんに一つあり、蜘蛛のように並んだ八つの赤黒い瞳と裂けた口を持つそれが、熊に見えるならそうかもしれない。
「あ……」
思わず後ずさると、まぶたのない突き出た瞳が追いかけてきた。底知れないぎょろりとした黒目が、私の姿を一斉に捕える。
「どうも人間くせえと思ったら、てめえか小娘」
「は、はい」
体を硬直させ、私は答えた。無意識の恐怖が湧き上がる。見た目だけではない。私はこの、目の前の毛のかたまりのことを知っていた。
少し前に村を放逐された男だった。おおよそ力が全ての魔族ではあるが、村を作るようなタイプの魔族は、比較的良識がある。最低限、村のものには手を出さない。村の人間とは争わない。村に迷惑をかけないという決まりがある。
彼は、少し前にふらりと流れて移り住んできた魔族だ。挨拶もそこそこに村の外れに家を構えて数日。村に住む他の魔族の獲物を横取りし、それを非難されると大暴れした。猛りながら腕を振り上げ、素手で家々を破壊して回るこの男の恐怖を、私はまざまざと覚えていた。
「ちくしょう、村では人間が手に入ったらしいな。本当なら俺もありつけるはずだったのに、クソったれが!」
男がいら立った様子で腕を振ると、近くにあった木がなぎ倒される。びくりと震え、私は逃げようと足を引く。本能的に危険を悟る。彼は危険だ。彼は捕食者で、私は食べられる側だ。
だが、そんな私の姿を八つの目は逃さない。ぎろりといくつもの瞳に睨みつけられる。
「おい、待てよ」
「はい」
反射的に答える。答えなければ死ぬと思った。
「お前も人間なんだよな。俺は別に、お前でもいいんだよ。あっちから俺を追い出したんだ。お前に手を付けたって村の連中は文句言わねえよなあ」
息をのむ。熊のような足で、男が近づいてくる。
「だいたい、おかしいと思ってたんだよ。なんで人間のてめえが魔界の村でのうのうと生きてんだってな。魔貴人にでも拾われたらしいが、酔狂なことだ。目の前を餌がふらふらしてて我慢できるかってんだよ」
まったくだ、と心の中で頷いた。その通りだと私も思う。
五年前、私は不意に人間界から魔界へ落ちた。当時十二歳。幼いと言えるほどの年でもなかったが、魔族たちにとっては随分と小さい子供に見えたらしい。酔狂な村の酔狂な一人が、私を拾って育て始めた。
私を拾ったのは美しい女性形の魔族で、魔貴人と呼ばれる、魔族上位種の中でもさらに特殊で酔狂な種族だった。人とほとんど変わらない容姿に秘めた力は、魔界の中でも頂点に位置する。永遠に近い寿命と高い生命力を持つ彼らは、子供を必要としない。ごくごくまれに魔界に自然発生するのみだ。だからたぶん――子供が欲しかったのだと思う。
娘扱いするその魔族を、私は保身のために母と呼び慕った。そうするうちに、村を作るような酔狂な魔族たちもまた、私を幼い生き物として可愛がりはじめた。おかげで、すっかり育ってしまった今でも、私は村の中で生活を許されている。十二年間培ってきた、人間としての自分自身と、魔族との違いに怯えながら。
「自分たちも人間を食うくせに、お前は食うなってのはおかしいよなあ?」
私の正面で足を止め、男は裂けた唇で笑みを作った。
「あっちも美味いもん食って楽しんでるんだ。俺が楽しんだっていいだろう?」
男が足を踏み出す。同じだけ私も足を引く。が、恐怖のためか足がもつれた。
浮遊感の後で、自分が転んだのだと気がついた。尻もちとともに地面に手をつくと、とげとげしい草で腕を切る。痛みを感じる余裕はなかった。私を見下ろす、光を通さない黒い複眼が真上にある。
「人間なんて、数年ぶりだなあ。村にいた時からずっと、美味そうだと思ってたんだよ」
「ひっ」
喉からしゃっくりのような声が出る。悲鳴を上げることさえできなかった。捕食される恐怖だ。
村を出なければよかった。私は弱い人間で、村に庇護されていたのだ。外に出ればこうなることなんて、目に見えていたのに――――だけど、後悔しても遅い。
にやりと笑う男の裂けた口。振り上げられた腕。それを最後に目に映し、私は目を閉じた。
最期の時は来ない。
腕が私をかき切る感触もない。奇妙な静けさが一瞬森を満たし、すぐにかき消された。
蛇口から水があふれるような、勢いのある水音。頭から降りかかる生温かい滴。私の断末魔の代わりに、聞こえたのは落ち着いた声だった。
「トーコ」
私の名だ。低い声で、どこか非難するような口調だった。
「トーコ、また一人で外に出たな。危ない目に遭うとわかっているだろう」
おそるおそる目を開ける。私の正面にあるのは、頭のなくなった熊だった。私を恐れさせた複眼も、避けた口も消えて、代わりに赤黒い血が噴き出している。鈍重な体はそれでも倒れることなく、毛を血に濡れさせながら立ち尽くしていた。喉から悲鳴がせり上がる。
だけど、その姿もすぐに見えなくなった。熊と私の間に、割って入る姿があった。
年のころは私と同じか、少し上くらいだろう。黒い髪に、赤い瞳を持つ青年が、私を覗き込んでいた。蠱惑的な二つの目、彫像めいた一つの鼻、薄い唇は、何か言いたげに少し開いている。端正な顔の下には、やや未成熟な人の体。人間と同じ姿――いや、人間にはあり得ないほど整った姿がそこにあった。
「ルウ」
吐き出しかけた悲鳴を飲み込み、代わりに私はぽつりと呟いた。名前を呼ばれて、ルウはほっとしたように息を吐く。
「祭りのときにいつもいつも抜け出して。いつか危ない目に遭うと思っていた。俺が来なかったらどうするつもりだったんだ」
言いながら、ルウは私に手を差し出した。少し筋張った男性の手だ。はじめは血にまみれた赤い右手を。どろりと赤黒いその滴に驚くと、きれいなままの左手を差し出してきた。
彼の右手から腕にかけ、まだ生々しい血が付着している。端正な頬には返り血が飛び、荒く拭った跡が見えた。
たぶん、返り血に塗れているのは私も同じだろう。粘性の液体が、額からゆっくりと垂れ下がる気配があった。手で撫でると、人間の血よりも重い泥のような赤がこびりつく。
「うひぁ」
上擦った、悲鳴にもならない悲鳴を上げた。慌てて服の裾に擦りつける。
「みんな心配していたよ。祭りが嫌でも家にこもっているならいいけど、村の外はトーコには危険すぎる」
む、と黙り込んだ私の手を、ルウは無理やりに掴んだ。そのまま腕を引いて立ち上がらせる。彼の手には体温がなく、ひやりと冷たかった。
「だって」
ルウに助け起こされて、私は言い訳をしようと口を開いた。だけど開いただけで、続く言葉は出ない。だって。人間を食べるなと言えるだろうか。ここは魔界で、彼らはみんな魔族なのだ。異常なのは私の方。彼らの楽しみに水を差すことはできない。それをここで暮らした五年の間に、よく学んだ。
「だって……」
沈みかけた声で、私は繰り返す。目の前のルウから目を逸らし、逃げるように瞳をさまよわせ、はっとした。
血まみれの巨躯が動いている。毛むくじゃらの腕を振り上げ、目もないくせにまっすぐにルウを狙っていた。
「ルウ!」
私が叫ぶよりも先に、腕を引かれた。よろめいた先は体温のない冷たい胸。思わず「すみません」と言いそうになる。
だけど言葉は出なかった。ルウは私を自分の胸に押し付けて、抱えるようにして背後に跳ねた。
次の瞬間、獣の腕が私たちのいた場所を掻いた。地面ごと抉られ、土が舞う。
「なに……」
怯える私が見たのは、苛立たしげに私たちを探す頭のない熊。すでに血は止まっていて、もともと頭があった場所が良く見えた。
確かに、私を恐れさせたあの頭はなくなっていた。
だけど同じ場所に、小さく盛り上がった突起がある。そして粒粒とした八つの小さな目と、亀裂のような口が見えた。トカゲだ。トカゲの尾のように、再び頭が生えてきたのだ。
「クソがァあああ!! 殺してやる人間! 魔貴人、貴様もだ! 気取るだけの変人どもめが!」
未成熟の口が割れ、小さな突起から声が発せられる。少し甲高く、だけど憎しみのこもった声だった。ひ、と喉から声が出る。
「魔族の癖に人間みたいに群れて村なんて作りやがって! ずっと気に食わねえと思ってたんだよ! てめえも! あの村の連中も! いくら魔貴人とはいえ、てめえ一人くらい俺が捩じ切ってやる! 手足をもいで目を潰して、好色な下級種の巣にでも放り込んでやらァ!!」
叫ぶ間にも、できたばかりの濁った目はきょろきょろとあたりを探っていた。そして言葉を吐き終えると同時に、私たちの姿を捕える。はじめは突起のような頭を捻り、それから体をまっすぐに向ける。
「そこにいたのかぁ」
怒りに塗れ、罵声を吐いていたその口が、今度は愉悦に大きく歪む。
「大丈夫」
戦慄する私を安心させるように、ルウは言った。私を抱いたまま、子供をあやすように優しく背中を撫でる。
「あの程度、俺の敵にはならない。それに、トーコはあんな下品な魔族にはもったいないからな」
ひやりとした体温のない手に、気づかないうちに安堵する。思わず息を吐く私を見て、ルウは微かに微笑んだ。
「待ってろ」
一度、強く私を抱き寄せると、ルウは私から腕を離した。それから私に背を向ける。ルウの前には巨大な魔族。怒りに咆哮し、裂けた口から唾を飛ばす。
だけどルウは少しも怯まなかった。森の木々ごと横薙ぎにする腕を避け、軽い足取りで跳躍する。とんだ先で器用に木の枝を掴み、そこからまた跳ねる。勢い任せに腕を振っていた男は、そこでルウの姿を見失ったようだ。苛立たしげに眼を動かし、声を張り上げる。
「どこだ、どこだァ!」
「ここだ」
涼しげな声は、男の間近で聞こえただろう。それとも、もう聞こえなかったかもしれない。男が叫んだ時にはすでに、ルウはその頭に手をかけていたのだから。
枝から跳ね、ルウは男の肩に飛んだ。そのまま迷うことなく、人間と変わりない腕で頭に似た突起を掴む。そしてそのまま、なんでもないように引っ張った。
男の、できたばかりの頭がちぎれる。肌の継ぎ目が破れて、ぶちぶちとおぞましい音を立てた。男は悲鳴を上げさえしない。体から引き離された後に、驚いたようにルウの顔を瞳に映す。
「本体はこっちか」
瞳ごと頭を握りつぶすと、ルウはそのまま引きちぎった首の方へ目をやった。そして迷わず、血の吹き出す首に手を突っ込む。吹き出す血とは逆方向に、肉を分けて男の体の奥に手を伸ばした。ぐじぐじと生々しい音を立てながら、ルウの二の腕まで肉に沈む。
体内で、ルウは何かを見つけたらしい。わずかに表情を変え、力を込めてそれを引き出す。
ルウが血まみれの手に持つのは、同じく赤に染まった、おそらくは臓器だ。ルウの片手に収まる、まだ脈動を続けるそれを一瞥し、ルウは「ふん」と興味もなさそうに鼻を鳴らした。
男の死に際に、ルウがとった態度はそれだけだった。やはり何気ない調子でその臓器を握り潰し、もはや動かない毛むくじゃらの男の肩から降りる。あとは振り返りもしない。巨躯が、今度こそ地面に倒れて冷たくなっていっても、眉一つ動かさなかった。
代わりに私に、肩をすくめてみせる。
「トーコ、大丈夫か?」
「う……」
喉から出かけた悲鳴を飲み込み、私は声を絞り出した。
「うん……」
「汚れたな。戻ってきれいにしないと」
ルウは私に小走りに駆け寄ってきてそう言った。何気ない調子で私に手を伸ばしてくる。が、すぐに、ばつが悪そうにひっこめた。
「トーコは血が嫌いだからな」
私は口を結んで頷いた。ルウの姿を直視できず、両手を握りしめて地面を睨んだ。ルウがやれやれと息を吐く。たぶん困ったように笑っているのだろう。
「村に戻る前に、泉にでも寄って軽く血を流そうか、トーコ?」
○
泉の水を両手に掬うと、肌がひりひりと痛んだ。
泉は酷く澄んでいた。暗い森の月明かりだけで、底が透けて見えそうなほどだ。魚も、水草すらも生えないほどに透き通っていた。弱い酸を含み、水の中で暮らすことを許さないのだ。
それでも、村に近いこの泉は、他の水に比べたらよほどましだ。森の奥の湧水は、周囲の草木を水が届く限り枯らす。流れる川には水生の魔族が住み、水に近づいてきた獲物を引きずり込むという。それに比べれば、指の皮膚がふやける程度、大したことではない。
私は水際に膝をつき、手を拭い、額を洗い流す。隣で同じように、ルウが血を落としている。澄んだ水が途端に赤く染まり、淡く溶けていった。
ぼんやりと水面越しにルウを見ながら、腕まで水をかけ――私はうめいた。
「い……った」
鋭い痛みに腕を見れば、細い傷がついていた。転んで尻もちをついたとき、草で切ったあの傷だ。肘の下から手首の近くまで、意外に大きく切れている。
あちゃあ、と苦い思いをする。魔界の草はほとんどが毒草だ。どんな草だったか記憶にないが、さて、焼けるかただれるか。どんなひどいことになるだろう。
そう思っていると、腕を取られる。勢い引かれて前のめりになり、顔を上げればルウがいる。私の手首を握りしめ、眉を顰めて傷を見ていた。顔を洗ったためか、前髪から水がしたたり落ちている。睫毛の先に水のしずくが集まっている。
「本当に、ずっと見ていないと危なっかしくてしかたない」
「ルウ」
私が声をかけるより先に、ルウは傷口に顔を近づけた。驚く間もない。肘に唇を寄せ、まだ血のにじむ傷を舐める。ひやりと冷たく、そのくせ生き物めいた動きをするその感覚にぞっとした。
「る、ルウ、なに!?」
「怪我をしているだろう?」
答えになっていない。
「怪我って。そこら辺の草で切っただけだよ!」
「じゃあ、毒を吸い出さないと」
「それなら自分で――」
私の言葉を遮るように、ルウは傷口に歯を立てた。瞬間的に走る電気的な痛みに、私は唇を噛んだ。
瞬間の痛みは、次第に染みるように広がっていく。同時に、熱を持った血が流れ出るのを感じた。傷を増やされたのだ。
私が睨むのも気にせず、ルウは流れた血を舐め、軽く吸う。驚いて体を引こうとするが、ルウに捕えられた腕はぴくりとも動かせなかった。手首を掴まれたまま、いつの間にか肘の方にもルウの手が添えられている。私の腕を両手で抱くルウの様子は、どこか恭しささえ感じられた。
目を見開き、様子を見る私に気がついたのだろう。ルウはちらりと私を見やり、わざとらしく舌を出してゆっくりと舐め上げる。赤い舌がくちゅりと私の傷に埋もれ、肉を撫でているのがわかった。それからまた唇を押し付ける。
血を吸われている。そのことが、不思議なくらい鮮明に分かった。軽く口を押し当てているだけなのに、体中の血を抜かれるような心地がした。
「る、ルウっ! もういぃいいいよ!」
あわててルウを振り払う。ルウも、意外なくらい大人しく私を放してくれた。心臓が痛むくらいに胸を打ちつけ、荒い呼吸を繰り返す私とは対照的に、ルウは穏やかに微笑みながら喉を鳴らす。飲んだ。
「飲んだ!? 毒は!?」
「あの程度が毒になるのは、トーコや人間くらいなものだよ」
う、と口をつぐむ。魔界の生物は、当然ながら魔界の植物に耐性を持っているものが多い。そうでなくとも、魔族は人間よりよほど頑丈にできているのだ。私にとっての毒なんて、ほとんどの魔族にはなんてことないのだろう。
「それに、吐き出すなんてもったいないからね。せっかくのトーコの味だ」
「ルウ!」
満足そうに目を細めるルウを見て、私は顔を歪ませた。
「味って……味って!」
赤くなるのも妙だと思うのに、頬が熱い。そのくせ胸の奥は、すーっと潮が引くように冷えていく。ルウのさらりと放った言葉は、口説き文句にも似ていたし、捕食者らしい脅し文句にも聞こえた。
私は頭を振ると、歪んだ表情と思考を振り払う。
「え、ええっと」
わざとらしいくらい高い声が出た。この妙な話題を打ち切ろうと、力みすぎたのだ。勢いに任せて立ち上がり、赤い顔を押し隠してルウを見やる。
「か、勝手に村から出てごめん。助けに来てくれてありがとう。……えっと、村の方は?」
今、どうなっているだろう。ルウが探しに来たということは、私がいないことも知れ渡っているのだろうか。
「俺が出てきたときは、まだ祭りで騒いでいたよ。人間なんて久しぶりだからな」
祭り、人間、久しぶり。なにが起こっているかを想像して少しぎくりとするが、考えないふりをした。無理やり逸らした話題に、ルウも乗ってくれているのだ。先ほどまでと違って声が明るく、綻びた空気に息を吐く。魔界は心臓に悪いことが多すぎる。
表情を緩めた私を見上げ、ルウは苦笑した。それから自分自身も立ち上がり、軽く膝をはらう。
「でも、さすがにそろそろトーコがいないことにも気づいているかな。祭りも終わりかけだったし、シエラあたりが探し回っているかもしれない」
「シエラお母さん……心配してるよね」
心配性な魔界での母を思い浮かべ、私は少し声を落とす。魔界で何度も死にかけたおかげで、彼女は本当に過保護になった。
せっかくの祭りだからと、今日くらいは娘離れした彼女だが、それが仇になった。楽しさに水を差したことへの罪悪感と、それでも彼女は魔族なのだという実感が同時に湧き上がり、また沈み込みそうになる。
彼らにとっては、今日は楽しい祭りだ。十二年の人間生活が、あまりに長すぎたせいだ。食人がタブーなのも、人間を脅かす存在がいないのも、人間界だけのルール。そしてここは人間界ではなく、魔界だ。そんなことを、頭に言い聞かせる。
「えと」
祭り。今日は魔族たちの歓びの日。
なのに、そういえばルウはどうしてここにいるのだろう。
「ルウは、どうして私がいないって気づいたの? 私を探しに来てくれたけど、お祭りは良かったの?」
私の視線を受け、ルウは瞬く。なにが、と言いたげなルウに、私はためらいがちに続けた。
「だって…………人間はごちそうなんでしょう?」
村を上げて騒いだり、短気な魔族が暴れ出したり、憎み、奪い合うような食材なのだ。人間はごちそう。それは魔族であるルウも同じはず。
「なんだ」
だけどルウはなんてことはないように肩をすくめる。
「そんなこと、気にしないでいいんだ、トーコ。トーコが無事な方がよほど大事だ」
「ルウ」
いつものように私の手を取り、ルウは笑った。「それに」と言いながら、ルウは冷たい指で私の手を撫で、握りしめる。少し、ぞっとするような力だった。
「それに、俺が食べたいのはあの人間ではないから」
私の顔を細めた瞳に映し、ルウはそう言った。
私を捕えた手はびくともせず、赤く蠱惑的な瞳が揺れる。呼吸さえ止まるような静けさが、私とルウを包んだ。
静寂は一瞬だったような気もするし、随分と長かったようにも思う。
見つめ合うのに耐え切れず、誘うような瞳から逃れて私は目を伏せた。ルウは気分を害した様子もなく、子供にでも語りかけるように穏やかに言った。
「そろそろ戻ろうか。みんな心配しているだろう」
「……うん」
歯切れ悪く、怯えを含んだ相槌を返す。つないだ手からルウの冷たさが染みて、熱を持ちそうな心の奥を冷やしていく。
ルウと一緒に居る時はいつもこうだ。ぽーっと熱くなると思うと、ルウの言葉にすぐに冷やされる。ふわふわした感情と明確な恐怖が、心の中でせめぎ合っている。いつもいつも少し恐怖が勝って、いつもいつもルウが少し怖くなる。
ルウと手を繋いで帰る道すがら。このまま、村ではなくてどこか遠いところへ、連れて行かれてしまうのではないかと怖くなる。
○
村に戻ると、キャンプファイヤーみたいな篝火もすっかり消えていた。そのくせ騒ぎだけは収まらず、村の中心に人だかりができている。集まっているのはほとんどが魔貴人で、あとは魔女や悪魔のような、比較的人間に近しい――いわゆる、酔狂と呼ばれるような変わり種の魔族たちだ。彼らはみんな顔を突き合わせ、あれやこれやと話し合っていた。
そんなところへ、気後れする私を引いてルウが近づいていく。
気まずい私とルウの姿に、人だかりの一人が気づいたらしい。近所に住む悪魔のおじさんだ。どす黒い肌の、感情のないような顔に驚きを浮かべ、「おお!」と声を上げる。
「トーコ! なんだ、ルウと一緒に居たのか!」
「トーコ?」
その声に、人だかりもぽつりぽつりとこちらに視線を向ける。人間みたいな姿の魔貴人に、邪悪な顔つきの悪魔や魔女に、人の形ですらない魔族たち。申し訳なさに私はごまかし笑いを浮かべる。
「トーコ、どこに行っていたんだ」
「心配したんだぞ」
「また、一番にルウが見つけたんだなあ」
「ルウはどうやってトーコの居場所を見つけ出すんだ?」
思い思いに口を開く魔族たちに、ルウも困ったように苦笑した。私を横目で見て、首を傾げて見せる。どうしようか、と声に出さずに口を動かした。どうしよう。
どうしようと言われても、などと思っていると、魔族の誰かが妙なことを言い出す。
「もしかして、逢引きしてたのか?」
「えっ」
その一言で、魔族の私を見る視線が変わる。「まさか」「服に血がついているじゃないか」「どこぞの馬鹿な魔族にでも襲われたんだろう」、そんな、冷静な声は少ない。服に血がついていることは魔界では日常茶飯事だし、特別に気に掛けるほどのことでもないのだ。
「……そう言えば、トーコもそんな年なのか」
「あんな小っちゃかったのになあ。もう、ルウと並んでもお似合いになっちまったか」
「えっえっ」
戸惑う私に向けられているのは、なんというか、そういう目だった。えっえっ、と救いを求めてルウを見れば、意外にまんざらでもない顔。否定をする様子もない。私は瞬き、周囲を見回し、頬を熱くさせた。この場で、困惑しているのは私だけらしい。
なんでこんなことに、と考えてみれば、ルウと手をつないだままであることに気づく。原因はこれだろう。慌てて振り払おうとするが、払えない。ルウはどこか底の知れない表情で、逃げようとする私を見下ろしていた。なぜだかぞっとする。まるで捕食者の顔だ。
おののいていると、魔族たちの人ごみにも変化があった。誰かが「どいてどいて」と叫びながら、集まった魔族を押しのけて近づいてくる。
「トーコ!」
人ごみから姿を現したのは、息を切らせた女性形の魔族だった。淡い金の巻き毛に白い顔。魔貴人特有の、血を垂らしたような赤い瞳が印象的な彼女は、私を見てきれいな顔をくしゃりと歪ませた。
「ど、どこに行ってたの! 心配したのよ、村中探し回っても……いない、し……」
怒りまみれの声が、次第に震えて途切れる。泣き出しそうな彼女の姿を見て、私は今日はじめて、心底安堵した。今度こそルウの手を振り切り、駆け出す。
「シエラお母さん!」
転げるように走ると、私はシエラの胸に飛び込んだ。冷たくて柔らかい肌の感触に頭を押し付け、目を閉じる。体温がないのに心臓の音はする。音に耳を澄ますと、ルウが助けに来てくれた時とはまた違う、穏やかな安心感に包まれた。
「トーコ、もう、トーコ! 無事でよかった……!」
シエラもまた、私を抱きしめ返してくれる。十二年間親しんだ、温かな母のものではないけれど、彼女の抱擁もまた、泣きたくなるくらい心地が良い。
「お母さん……」
心地よいから泣きたくなる。私は顔を上げないまま、ずっとシエラにしがみついていた。
頭を撫でられ、シエラにくっついたままの私の耳に、魔族たちの揶揄する声が聞こえる。「相変わらず」「甘ったれ」「男よりは母かあ」と笑っているのか馬鹿にしているのかわからない勝手な言葉が次々に飛んできた。
「なんだかんだ言って、やっぱりまだまだトーコは子供だな。残念だったな、ルウ」
いやいや、と苦笑交じりに答えるルウの声がする。
「ああいうところが可愛いんだよ」
「る、ルウ!」
ぴったりへばりついていた頭を思わず持ち上げ、私は赤くなって叫んだ。ルウはときどき、さらりと妙なことを言う。私を真っ赤に照れさせるような言葉だ。
「お、顔上げた」
ルウを黙らせようと周囲に目をやれば、私とシエラを取り囲み、にやにやと笑う魔族たちに気がつく。シエラはどことなく不機嫌で、魔族はみんな楽しそうだった。ルウはやはりなんということは無いように、私を見て微かに笑む。私が唇を噛んで睨みつけてもおかまいなしだ。
「男ってどういうこと」
つんとした声で言ったのは、私以上に強くルウを睨むシエラだった。乱暴に私の肩を抱き寄せると、私に代わって周囲の好奇を牽制する。
「ルウ! トーコになにしたの!」
「なにも。村の外にいたから、探してきただけだ。そうだろう、トーコ?」
シエラのとげとげしい口ぶりに、ルウはおどけた様子で答えた。確認を取るように呼びかけられ、思わず頷く。確かに、ルウは私を探しに来て、助けてくれた。ルウがいなかったらきっと私はあの魔族に食べられていただろう。命の恩人でもある。
「それだけ? 変なことされてない?」
「う、うん」
私はシエラの確認に応えながら、泉のことを思い出していた。でもあれは毒を吸い出すためで、変なことではない。たぶん。変なことだと言うには、自意識過剰な気がする。たぶん。少し顔が熱くなる。
私の返答に、シエラはようやく硬い表情を崩した。つまらなそうな外野とは裏腹に、そうよねえ、と笑みを見せる。
「トーコにはお母さんがいるもの。まだそんなの早いわよねえ」
シエラはそう言って、私の前髪をくしゃくしゃに撫でた。子供と言うよりは動物扱いされている気もしたけど、魔貴人にはそもそも子供がいないのだからしかたがない。きっと、人間と同じことを求めたらだめなのだ。
「でもねえ、シエラ」
くしゃくしゃ撫でられる私の様子を見ながら、魔族の一人が呆れたように口を挟んだ。
「トーコだっていつまでも子供じゃないんだよ。特に人間は、育つのがずっと早いからね」
「そうだなあ」と他の誰かも加わる。
「もう年頃にもなるし、そろそろ考えた方がいいんじゃないか?」
考えるって?
瞬き、首を傾げる私に、魔族たちは視線を巡らせた。ピンと来ていないのは私だけらしい。私を取り囲み、口々に好き勝手に説明を加えてくる。
「人間のままじゃいられないだろ? このままだと、トーコは俺たちよりも先に老いて死ぬんだぞ」
「人間から魔族になる方法は、意外にあるからなあ」
「……あ、俺がトーコを食い殺せばいいんじゃないか? 不死者だし、俺と同じになって目覚めるぞ」
「あんたたまに失敗するじゃないか」
目覚めなかったらどうする。周囲から一斉に否定され、不死者の男が鼻白む。代わりに別のものが前に出て、これはどうかと提案する。
「そういえば、魔族の子を孕めば、その女は魔に染まるとか言うよな」
言ったのは魔貴人だ。最後に、「俺たちは子供を作れないけど」と付け加える。
「この村はそんなやつばっかりだな。不死者とか、自然発生するやつとか。そうでないなら雌ばっかりだ」
「ふむ。わしは子を成せるぞ」
「あんたは卵生じゃないか」
名乗り上げた竜族の雄は、「うむ」と太い尾を思案げにくねらせる。そうするとまた代わりのものが出て、「吸血鬼に知り合いがいるんだけど」などと言い出す。
一人が意見を言うと、他の誰かが異を唱える。私をめぐり、意外なほどに白熱した議論が交わされているが、当の私は戸惑いながらシエラの服の裾を握りしめるだけだった。
私、どうなるんだろう。私、なにをされるんだろう?
こわごわと震えていると、黙って人だかりに混ざっているルウと目が合った。だけど視線が合うのは一瞬で、すぐに顔を逸らされる。
「人間でいいんだよ」
代わりに、意見を言い合う魔族たちにそう言った。穏やかでよく通るその声に、論争に熱を入れていたものたちも顔を上げる。
「無理に魔族にする必要はない。トーコは人間だから、こんなに可愛いくて美味しそうなんだ」
なんてことなくそう言って、ルウはまたにこりと微笑んだ。
シエラが「そうだそうだ」と私を抱きしめ、魔族たちが「そうかなあ」と疑問交じりに納得する。ルウはいつものように優しい顔で、私を見ている。捕食者めいた、赤い瞳で。
人間を食べるのは、魔界では当たり前のことだ。
人間が美味しそうに見えるのも、魔族にとっては当たり前のことだ。こうして生きて育てられていることの方が、明らかな異常なのだ。
だからきっと、いつかルウが私を食べても、それは当たり前のこと。
いずれ、ルウは私を食べるのだろう。そう思うと、ふわふわとして熱を持った気持ちが冷えていく。
暖かい感情とと冷たい恐怖に心が満ちて、いつも少しだけ恐怖が勝つ。
少しずつ、ルウが怖くなる。
ルウの視線から逃れるように、私はシエラにしがみつき、その胸に顔を押し付けた。
まあまあ溺愛