‐prologue. おとぎの国の不文律
‐prologue. おとぎの国の不文律
二人の男女が対峙していた。
男は年齢不詳、片眼鏡とインバネスコートの正装が特徴的な、威厳のある風体だった。
「舐められたものよな。この私がデモンストレーションの噛ませ犬とは」
不服そうな言葉とは裏腹に、冷然とした眼差しは崩さない。敵として相対する者が女子どもであっても、彼は油断したり見くびったりはしなかった。名実ともに超一流の『悪の総統』である彼にとって、それがたとえふざけているとしか思えない敵だったとしても。
「それで……『ご当地ヒーロー』が私に何用かな」
女のほうは、まだ年若いセーラー服の少女だった。
ツンと澄ました顔。意志の強そうな黒目がちの目。艶やかな黒いセミロングの髪は、少し高い位置でポニーテールにしている。穢れを知らないまっすぐな双眸の少女は、まるでゲームや漫画に出てくる青くさい勇者のようだ。
彼女は何も口にせず、特殊な強化ガラスのバリケードを肩越しに振り返った。
《私ことアカシ・リクドウは国家の威信をかけ、とあるプロジェクトを秘密裏に進めてきた。ここにいる世界で最高のブレーンの持てる叡智を結集した、わが国の今後百年をうらなう、悠遠なる国家大計だ》
かつて製鉄業が栄えたころ、そこは国の心臓のひとつだった。しかし企業が東南アジア諸国連合に製造の拠点を移すトレンドが一段落した今となって、この工場はすでにずっと過去の遺物だった。
年中無休で操業を続けていたころからは想像できないほど寂れた大型工場。圧倒的なスケールのオブジェと化した広大な工場を、特殊な強化ガラスのバリケードがくまなく取り囲んでいた。二人の男女はバリケードの中。そしてバリケードの外では、特設ステージに上がった男が工場を背景にしてやや熱っぽく語っている。
《すでに案内状でプレゼンスしたとおり、この赫機関は今までわが国がその存在の百パーセントを内外に隠し通してきた、諜報機関だ》
男は大勢の報道陣に向かって冗長に話し続けている。
報道陣はにこやかな顔に容赦なくフラッシュを浴びせた。スーツ姿のその男の後ろには、同じく高級そうな身なりの、いかにも頭脳明晰そうな中年男性が五人ほど控えている。いずれも科学や物理学などの学問で著名な人物だったが、権威としての名前と同時に、変わり者としての顔も一般に知れ渡っていた。
突如として世に現れた諜報機関――すなわちスパイ組織に、騒然となる報道陣。アカシと名乗った男は冷静に対処する。
《みなさんの胸裏はお察しする。その秘密組織が、どうやって存在を気取られずにきたのか、そしてなぜその存在を公にしたのか、疑問を抱くところだろう。申し訳ないが私は疑義に十分答えられる立場にはない。だが今後はわれわれの活動を通して赫機関の名前を耳にすることも多くなるはずだ。質問はまたの機会にしよう》
軽く手を振って合図すると、シャッターチャンスにフラッシュが集中した。
《今日はわれわれの組織と研究成果をお披露目するためにお集まりいただいた》
《ここからは僕から説明しちゃおうかね。さっそくだがスオウ君、待機を解く》
合図に進み出たのは、茶目っ気のある笑みを浮かべる恰幅のいい男性だった。
「はい」
そして呼びかけに応える、長らく沈黙を守っていた少女。
《さて、ラキ伯爵。今日は僕たちの研究成果の発表にうってつけだと思って、勝手ながら君をキャスティングさせてもらった。まずは気分をうかがいたいね》
安全な場所から語る男を、『悪の総統』ラキ伯爵は特段の感情を込めずに一瞥にした。
「国際凄王大学名誉教授の柚木寛彦か。このような愚劣きわまるシナリオを書くようでは作家に転向するのは諦めるべきだと忠告しよう」
距離は離れているのに平叙する声の大きさだ。だが声は届いているらしい。取り囲む記者たちにもやりとりが聞こえているのを見ると、どこかにマイクでもあるのだろう。
《僕の名前を知っているとは光栄だね。ご忠告には感謝するが今のところ作家に転向するつもりはないよ。しかしあのシンプルな招待状で君ほどの大物が本当にみずから出てくるとは、なるほど僕には文才があるのかもしれない。将来は物書きもいいかも知れないな》
「やめておけ。あの不遜なる挑戦状が、完全に透明だった組織から届いたから気まぐれに応じたに過ぎん。貴様の児戯にも劣る力量では、おとぎ話ていどのものしか書けんよ」
ふむ、とわざとらしく一呼吸置き、柚木はにやりとなった。
《おとぎ話か。それは僕たちの研究テーマと符合する》
「――っ!」
ラキは、なぜ自分が後ろに下がったのかとっさには分からなかった。
セーラー服の少女が、ポニーテールを留めていた白いリボンを無造作に解いていた。先ほどまでは彼女を飛び越してその向こうと会話していたのに、今では看過できない存在感を放っているのだ。
《おとぎ話に当たり前に出てくる現象。例えば空を自由に飛んだり、火や水など自然を操ったり、植物と対話したりといった、それぞれのおとぎ話の世界にのみ通ずるルール。僕たちの研究テーマは、それらおとぎの国の超常現象を『取り出す』ことだ。これはオカルトやサイエンスフィクションの話ではない》
学問の世界的権威が口にするとは思えない、子ども騙しの内容だった。そのはずが、誰かが疑問を差し挟む前に、彼は得意気にこう続けた。
《その証拠を今からご覧に入れよう》
少女がリボンを投げ上げるとほぼ同時――どこからともなく飛んできた真紅の剣が彼女の足元に突き立つ。
少女は大きく息を吸い込んだ。
「アカシック・レコード、ダウンロード!」
これまでずっと大人しくしてきた少女が、俄かに大音声で叫んだ。リボンが光の粒子に分解され降り注ぐと、それを浴びたセーラー服が格子状に分解・変換されていく。
望遠機能のついたカメラを構えた者たちは、目の前で起こるSFとしか思えない現象にみな息を飲み、はっと我に返って夢中でシャッターを切った。