前編
夕暮れ時。
まだ夏の匂いの残る湿気の多い空気から一転。自動ドアを抜けた先は、適度に冷房が効いていて、汗ばんだ肌に心地良かった。見慣れていたはずのフロアは、どこかよそよそしく感じられる。一人だけなら、このデパートに足を踏み入れる事にまだ抵抗があったかもしれない。
「緋天?」
涼しかった車から暑い空気の駐車場へ出ても、こちらの右手をしっかりと繋いでくれた蒼羽が、ものすごく有難い。首を少し横に倒して、訝しげに自分の顔を覗きこんでくる彼に、大丈夫、という意味で頷いてみる。
無事に一日を終えて、家に送ってくれるという蒼羽に甘え、彼の車に乗り込んでしばらくした頃。
運転中の蒼羽の代わりに、自分の携帯へと電話をかけてきたベリル。彼は切羽詰った声で、TV録画用のビデオテープを蒼羽に買ってきて欲しい、と口にした。ベリルは電話の向こうで、手を離せないんだ、と言って、値段も品質も高い商品名を指定。蒼羽に伝えると、彼は心底面倒そうな表情を浮かべて嘆息した。
大型店でなければ置いていないと分かっていたので、このデパートならあるだろうと蒼羽に教えたのだ。その時点で車が走っていた位置からも近くて、寄り道する事を提案した。
彼と一緒にいられる時間が少しでも増えるのは嬉しかったけれど。
行き先は、以前、自分勝手にアルバイトを辞めた店がある場所。蒼羽に諭された後、一度だけ謝りに訪れたのだが、やはり後ろめたい思いは拭いきれなかった。
正面玄関を通ってきて、自分が今立っている、吹き抜けの広場。
左に行けば、家電製品や生活雑貨、食料品のフロア。右に行けば、何度も行き来した、テナントの入ったフロア。
ベリルの用事を済ませるだけなら、左に進むだけ。右側に足を運ぶ事はない。
「・・・・・・」
知らず知らず、蒼羽とつないだ右手に力が入っていた。動かない自分を、少し目を細めて不思議そうに見ているけれど、ただ黙って、待っていてくれる彼。
「・・・蒼羽さん」
「ん?」
「あの、・・・あのね? 蒼羽さんがお買い物してる間に、前にバイトしてた所に挨拶してきていい?」
ここで蒼羽と一緒に左に進めば、またひとつ、逃げる事になるような気がして。
優しい目で見下ろしてきた蒼羽を見上げる。一人でまたここへ買い物にでも来れる、そんな気分になる為の一歩を手に入れたいから、と。
「えっと、テープが売ってるのはこっちで、バイトしてたお店があるのはあっちなんだけど・・・」
彼の小さな微笑は了解の意だと捉えて、空いた左手で進む先を指差す。
「判った」
頷きながら蒼羽がつないでいた手を離して。素早く、本当に一瞬、こめかみにキスを落としてくれた。
買い物客がたくさんいる中で。いつもの蒼羽なら、自分が困るだろうと判断してそういった事はあまりしないのだけれど。今は、彼が自分の躊躇いや後ろめたさを判って、それで、元気付けるような、そんな合図。
「入れ違いにならないように、緋天は動かないで待ってろ」
「うん。じゃあ後でね」
足を動かして、蒼羽に背を向ける。
先程まで包まれていた右手が、心許なさを訴える。
振り返ってみたら、蒼羽がにっこりと笑って見送ってくれているのが見えた。
「はぁ~」
左側で、派手に溜息を吐く音が聞こえた。
発信源の、自分よりも十歳若い、毛先をワックスで立てた髪型の男を見る。彼がこの店でアルバイトを始めてから二ヶ月も経っていないのに、カウンターの半分を作業台に、慣れた手つきでPOPを作成していて。
「何だよ、その目」
黙々とその作業をしていたはずなのに、彼の目は恨めしそうに自分を見ていた。
「店長~、何ですか、その自分は何も判りません的な素振りは。だいたい、店長がオレの天使を虐めるから」
「・・・またその話か。いい加減、諦めてくれよ」
「はっ、男としてどうかと思いますよ、そんなお客様第一な態度」
「あのね、ここは思いっきり客商売なの」
ぶすっとした顔で自分に遠慮なく文句を言う彼。いつもの事なのだが、そんな風にされても不思議と腹はたたなかった。無邪気というか、憎めないというか。客の前ではにこにことするので、女性客の評判もすこぶる良い。
「そんなだから彼女がいないのよ」
「増田さん・・・何で知ってるんですか・・・」
カウンター前の、小さな菓子を掬い上げるゲームの中身を補充していた副店長が、鍵を閉めながらこちらも不機嫌な顔で言ってくる。彼女は自分よりも年上で仕事もできるので、尊敬すると共にどこかしら畏怖の念を抱いてしまう。
「見てれば判るっての。私も井原君の意見に賛成だからね。ちなみにパートのお母様お二人もそうだから。女からしたら、店長のあの対応ってかなりショックよ」
あちこちから、ゲームのサウンドが飛んでくる。賑やかな店内で、眉をしかめる増田と、横で彼女の言葉に頷く井原の視線が痛い。彼らが口にしているのは、五月の初旬に辞めてしまった女の子の話題。彼女は仕事中に客に絡まれ、思わず相手を撥ね退け、その勢いで転ばせてしまったのだ。
自分達は客にサービスをする側だから、冷静でいなければ駄目だったのだ、と。デパート側の人間の手前、厳しく彼女を叱ったのだけれど。それをここの店員全員に非難された。表立って言ってきたのは、副店長の彼女だけだったが。増田以外の店員は、その後の自分への態度が少し冷たくなったせいで分かった。あげくの果てに、当時その場にいた常連の客にも、バイトを辞めてしまった彼女が可哀想だと、いまだに文句を言われる始末。
常連客の一人だった井原が、高校卒業後の進路が決まったからと、アルバイトに応募してきたのも、そもそもは彼女との関係をもっと近しいものにしたかったからで。採用された時には既に本人が辞めてしまっていたので、何かにつけて、こうやって恨めしい顔で見てくるのだ。
「・・・井原は他にモチベーション持ってくれよ・・・」
「はぁ? 何を言ってるんですか、このモテない店長は。オレの天使は一人しかいないんだよ!」
「まぁね・・・でも私は澱んだ人間がいっぱい来る場所で、あの子を働かすのって心苦しかったのよね。だから緋天ちゃんが辞めた事は良かったと思ってるんだ・・・いつもにこにこしてたけど、たまーに辛そうな顔してたし」
「あー、その気持ちはオレ分かりますよ・・・」
何となく、二人の会話でしんみりとしてしまい、沈黙が訪れる。
確かに彼らの言う事も正しかったのだ。優しい女の子だったから、ああやってきつく言う必要はなかったと今では後悔している。辞めた後に、しばらくして彼女が謝りにきた時に、ものすごく心が痛かった。
「・・・こんにちは」
煩いとも言える店内で、彼女の泣きそうだった表情を思い浮かべていると、小さな声が耳に入った。カウンターを挟んで目の前に立つのは、当の本人。
「え、・・・え!? 緋天ちゃん?」
隣で目を丸くした井原が大声を出す。補充用のカゴを抱えた増田も同様に驚いた顔で彼女を見ていた。もちろん自分も。
「あ、えっと・・・立野高校の・・・」
「井原っす。オレ、ここのバイトになったんですよ!」
当時は客だった彼が今は店の制服を着ているから驚いたのだろう、彼女は戸惑いがちに井原と挨拶を交わしていた。それに我に返って、増田は嬉しそうに笑う。
「びっくりした・・・元気そうね。今日はどうしたの?」
「ビデオのテープ買いにきたんです。ついでにちょっと覗いてみようかなって」
「そう・・・なんだか綺麗になった? ちょっと雰囲気変わったのかしら」
「ええ? そんな事ないですよ!」
増田の言葉に首を振る彼女。否定はしているが、彼女の雰囲気が変わったと、自分も思っていたのだ。以前よりも、どこか輝いて見える。
「うーん、何か違うのよねぇ・・・彼氏でもできた?」
「えっ!?」
彼氏、という言葉で井原が驚愕の声を上げ、その一方で彼女の頬は赤く染まっていく。
「ははーん。やっぱりそうか。ふふ、真っ赤になっちゃって可愛いんだから。ね、店長?」
俯いてしまった緋天の、その赤い頬をつつきながら。増田が自分へと顔を向けた。思わずその様子に見入ってしまっていた。増田の言う通り、可愛く見えてどうしようもなくて。
「ねぇ、私これから上がるんだけど、よかったらご飯でも食べにいかない? ここまでどうやってきたの? 歩きだったら送っていけるし」
「増田さんズルい! オレも行きてーよ!!」
「あんた、閉店まででしょう。しっかり働きなさい。で、緋天ちゃん時間あるの?」
「あ、すみません。一緒に買い物に来た人がいるので・・・今日はちょっと」
「そっか。それは残念。じゃあ、また今度ね。あ、そうだ、今はなんか変わった所で働いてるって聞いたけど」
まだ薄赤い頬を上げて、一生懸命に説明する緋天を、井原と増田が熱心に聞いている。彼らの輪に、何となく入りそびれて、カウンターの汚れた部分に目を落とした。以前とは違う緋天に話しかけにくいというのが、本音だろうか。
表面上、笑顔を取り繕って彼女を見やる。
今の仕事が楽しそうなので良かった、と思えた自分にほっとした。
不安そうにする緋天を見送って、家電製品の並ぶ一角へと足を向ける。
彼女の中に残っていた小さな最後の棘。それを抜く為に出掛けた緋天の背中は、自分には寂しいものだったのだけれど。今の緋天に必要な事だからと言い聞かせて見送ったのだ。
棚に並ぶビデオテープを眺めて、製品名を読み取る。
緋天の以前のアルバイト先、そこは彼女と初めて外に出掛けた時、車の中で話していた場所で。その時、自分は偉そうに彼女が間違っていたと言い切ったのだ。お前が悪い、と言って。
三本が一括りにされているものを見つけてから、棚の角に、ダンボールごと高く積まれた十本が一箱になったものを発見した。手に持った小さなそれを棚に戻し、取っ手のついた箱を持ち上げる。レジへ向かおうとして、緋天がこのメーカーの製品は、小さな店には置いていないと言っていたのを思い出した。またベリルにこんな用事を言われるなら面倒だと思い直して、もう一箱を手にした。
緋天が客を撥ね退けたせいで、相手が転んだ。それに上手く対応しなかったのは、緋天が悪いと確かに自分は言ったのだ。そんな事を思ってもみなかったと言って、緋天は反省をし、後日謝りに言ったと自分に報告をして、その時、彼女の髪に触れて、そして。
甘い記憶が甦るとともに、何か引っかかりを覚える。
そもそも、彼女が客を突き飛ばしたというのは、普段の緋天ならありえない事で。その後、相手を転ばせたという事実に驚き、動顛して、すぐに謝りに出る事ができなかったのも、彼女の性格を考えれば、今の自分には容易に想像がつく。そんな彼女を叱った上司は、客商売としては、当然の事なのだけれど。
今となっては、その時点での緋天の気持ちが痛いほど良く分かる。当然の事だと頭では理解できるが、相手はあの緋天なのに。厳しく叱るというのはどうなのだろう。
レジを打つ店員にカードを差し出し、そして、車の中で震えていた彼女の声を思い出した。あんな風になっていたのは、叱られた事に対してではなく、それ以前に起こった、客の行動に怯えていたのだ。彼女が相手を撥ね退けたのは、絡まれたからではない。その後に、体を触られたと、そう言っていたではないか。
「っっ、早くしてくれ・・・!」
完全に思い出して、嫌な気分が体を襲う。正当防衛だと、緋天自身もそう言っていたのに。よくも偉そうに、お前が悪い、などと口走ったものだ。重量のある二箱をひとつの紙袋に入れたそれを受け取り、急いで踵を返す。緋天が辞めたのは正解だった。彼女の体に触れた人間が、今もまだその店にいるかもしれない、緋天自身が怖くて近寄りたくないかもしれない。それなのに、何故一人で行かせたりしたのだろう。とんだ愚行だ。
かつての自分の浅はかな考えに、吐き気がする。
一刻も早く、緋天の無事を確認する為に、足を進めた。




