皇女様の不吉な予感
ウェスター伯爵が退室した後も、エリーシャは次から次へと面会を求めてくる人たちに対応し続け、ようやく一息つくことができたのは昼食の時間になってからだった。
「お部屋に戻ってお休みになりますか?」
アイラが問うと、エリーシャはわずかに首を縦に動かす。
「さすがに、たて続けに人に会うと疲れるわね。昼食を食べたら、またでしょう? 弔問を断るわけにもいかないし」
ぐったりした様子ながらも口早に言うと、エリーシャは立ち上がる。隣室に下がらせた侍女たちも呼び集めて、再び皇女宮までの長い道を歩き始めた。
皇女宮までの道のりを歩いている間、アイラは何だか首の後ろがちくちくするような気配を感じずにはいられなかった。この気配、何か嫌だな。そう心の中でつぶやくけれど、他の人たちがこの気配に気づいている様子はない。
皇女宮の入口には、所属が変更になったイヴェリンが待ちかまえていた。
「何かあったの?」
エリーシャが問うと、イヴェリンは少々困ったような顔になって手にしていたバスケットを持ち上げた。
「夫が差し入れに行くようにと」
「さすが、わかってるわね。あなたたちは、下がっててくれる? 午後の面会の時にまた呼ぶから」
軽く肩をすくめて、エリーシャは皇后宮から派遣されてきた侍女たちを追いやった。
エリーシャが居間に足を踏み入れた時には、簡単な昼食が用意されていた。パンに、香草を詰めて焼いた白身の魚、チーズと数種類の野菜を盛り合わせたものにスープ。食べやすい大きさにカットした果物が、丸い皿に山になるほど大量に盛りつけられている。
卓についたエリーシャは腕を広げた。アイラは肩から胸、スカート、それに腕まで覆うようにきちんと布をかける。着替えている余裕はないので、服を汚さないための配慮だ。
「……それで? その差し入れって?」
「夫が焼いた菓子――もちろん、魔術研究所によるチェックはすませてありますが、エリーシャ様のお口に合うかどうか」
そう言いながら、イヴェリンはバスケットの中身を持ち上げて見せる。焼きたてのクッキーの香りがあたりに漂った。
「最近、ベリーのタルトにはまってまして。よろしければ、こちらも」
そう言いながら、イヴェリンはテーブルの上には四人分くらいはありそうなタルトを載せる。三種類くらいのベリーが、シロップと共にタルト生地に載っていて実においしそう――いや、今はそれどころではないとアイラは首を振る。
「こちらの方が、エリーシャ様のお口には合うかもしれませんね」
一番下から、折りたたんだ紙が出てきた。
「これ、楽しみにしてたの」
エリーシャはにこりとして、イヴェリンの差し出した紙を受け取った。
「でも、わざわざこんな風に隠して持ってくる必要ってあったの?」
その言葉に、イヴェリンはちょっと困ったような顔になって眼鏡を押し上げた。
「――秘密めかした方が楽しいだろう、とのことで。こんな馬鹿みたいな真似をしなくても、問題はないはずなのですがね。今時こんな手を使う密偵はいませんよ」
どうやら、今エリーシャの手に渡ったのは、とても大切なことが書かれた紙らしいのだが――。
「ま、楽しいのはいいことよね。こんな時だもの」
不意に発したエリーシャの言葉に、アイラは何だか申し訳ないような気になってくる。仲がよくなかったとはいえ、エリーシャの祖母が亡くなったのだ。思うところはいろいろとあるだろうに。
「アイラ、お菓子はしまっておいて」
けれど、そんなアイラの感傷は、一瞬にして消し飛んでしまった。パンに齧り付いたエリーシャが、受け取った紙を見るなり顔をしかめたからだ。
「国内に戻ってくるまで、時間がかかるはずよ。この場所、見覚えない?」
エリーシャは、アイラの前に紙を突き出した。アイラは描かれた地図をまじまじと眺め、考え込む。これはどこだっけ? 頭の中をぐるぐると回っていた情報が、一つになった。
「……これは」
イヴェリンが届けに来た紙に記されていたのは、アイラがダーレーン国内に調査に赴いた際、侵入した屋敷だった。
エリーシャが個人的に使っている密偵のパリィが捕らえられていた場所であり、動く死体と戦いになった場所でもある。あの時、乳が来てくれなかったらどうなっていたことか。
「この、お屋敷が何か?」
「ウェスター伯爵の奥方。彼女の実家がここなのよ」
エリーシャの言葉に、アイラは目を見はってしまった。まさか、あの屋敷と、先ほど弔問に訪れた客人が関わっているとは思わなかった。
「あれ、でも奥方は実家に帰ってるって……」
知らせはやったものの、国内に戻るにはまだ時間がかかるだろうという話だった。
「そう、実家に帰ってるって言ってた。わざわざこの時期に国境越えて実家に帰る必要なんてあるのかしら」
行儀悪くパンをかじりながら、エリーシャは考え込む。
「喧嘩になって、『わたくし、実家に帰らせていただきます!』とか何とか言ったんですかねえ」
「夫婦喧嘩ごときで、いちいち国境越えていられるか!」
本気でアイラは口にしたわけではなかったけれど、イヴェリンに後頭部をはたかれた。イヴェリンの方もこれがアイラの軽口であることはわかっているだろう、たぶん。
「まあ夫婦喧嘩じゃないにしても……ちょっとやそっとで帰れないでしょ?」
貴族の奥方の移動ともなれば、持って行く荷物も莫大な量になる。馬車を何台も連ね、護衛の兵士も連れて行くのが普通であって、遠方の実家に帰る機会なんてそうないはずだ。
「わたしが気になるのは、この時期ってことよ。アイラたちがあの屋敷を調べた時には動く死体と戦いになったのでしょう? おばあさまが亡くなった時期にあっちにいるなんて何かあるんじゃないかって疑わない方が不自然でしょ」
イヴェリンと会話しながらも、エリーシャの手も口も休むことなく、卓上の食べ物を片づけていく。
「エリーシャ様の密偵は、今どちらに?」
「ダーレーンに潜入中。時々情報だけ送られてくるの」
イヴェリンの問いに、エリーシャは返すのと同時に最後の一口を飲み込んだ。
「イヴェリン」
ナプキンで口元を押さえたエリーシャは真剣な表情になった。
「ジェンセンが、貴族たちが弔問に来る時に注意って言ってたの」
「それはわたしも聞いています。宮廷魔術師たちに全力で警戒させています」
「ならいいわ――だけど」
エリーシャはふぅっとため息をついた。
「イヤな予感がするの。もう一度チェックして」
「かしこまりました」
イヴェリンが頭を下げる。イヤな予感がする、というエリーシャの言葉にアイラもまた不安を覚えずにはいられなかった。