魔法陣の秘密
アイラが寝室に戻った時には、エリーシャはもう眠った後だった。アイラがいなかった間は、たぶん他の人がエリーシャのために働いていたのだろう。居間には、空になったワインの瓶と食べ散らかされた皿が残されていた。
アイラはそれを見てため息をついた。
「……やれやれ」
きっと、これはアイラが片づけなければならないのだろう。気楽にやりたいからとアイラの代わりにきた侍女はさっさと追い払われてしまったのだろう、たぶん。
テーブルに残された皿を片づけようとしていると、メモが残されているのに気がついた。「夜食! 片づけは明日!」見れば、布巾のかけられた皿がテーブルの隅に置かれている。
「……いただきます」
そう言えば、夕食を食べる暇もなかった。魔法陣を少し描いては休んで、描いては休んで、でその繰り返しで。
エリーシャの気遣いがありがたかった。
「遅かったじゃないの」
手を合わせて、エリーシャが置いておいてくれたサンドイッチを食べていたら、隣の部屋からふらりとエリーシャがあらわれた。
皇宮に戻ってきてからのエリーシャは、寝る時でさえもゆったりとしたものではあるが、寝間着ではなく外に出ることのできる衣服を身につけている。
今も、飾り気のないブラウスに裾をくくったズボンという格好で、アイラの前にあぐらをかいた。
「……なんだか変なんですよね」
「変って?」
「魔法陣を描くのって、正確に描かなければいけないってところでは大変なんですけど、体力的にはそうでもないんですよね……描くだけなので、魔力の発動はないはずなんです」
天才と言われるジェンセン・ヨークの娘であっても、アイラは彼の魔力を受け継いではいない。だから、カフェで働いていたわけではあるが。
「でも、今日描かされた魔法陣ってなんだか描けば描くほど体力を吸い取られるみたいで……疲れたんですよね」
「今まではなかったの?」
「なかったですね。でもまあ、後宮の守りだから特別な魔法陣なのかもしれないですけど、どう特別なのかは聞いてないし」
エリーシャの手が、アイラの前に置いてある皿に伸びた。まだ手をつけていなかったサンドイッチをさらって自分の口へと運ぶ。
「……そうね。明日からは葬儀が始まるし……普段は人が入らない後宮までたくさんの人が入るものね」
「ああ、そうか。そうですよね、そりゃ、父さんも後宮の守りを固めなきゃって思うはずだ」
タラゴナ帝国では、皇帝と皇后が死去した場合には葬儀に一年間の期間が設けられる。遺体は魔術的な防腐処置を施された上で、死者への別れを告げるために貴族達が訪れてくる。
普段は皇族やその家族、ごく限られた客人のみが入ることを許される後宮だが、この期間に関しては一部が解放されることになる。
もちろん、入ることができるのは国内の貴族の中でもそれなりに高位の者に限られているから必要以上の大人数が押し寄せることにはならないのであるが。
「……嫌になるわね」
不意にエリーシャがつぶやいた。世にも珍しい何かを発見したかのように、かじりかけのサンドイッチを見つめている。
「おばあ様が亡くなったって言うのに、少しもかなしくないのよ……ここに来たら、何か感じるかもしれないと思ったけど、そんなこともないし」
「でも、それは」
それきりアイラは何も言うことができなかった。皇后はエリーシャを亡き者にしようとしたことがある。そこには普通の祖母と孫という関係では考えられないような感情があるのだろう。
「頭が痛いわね。ダーレーンの出方もわからないし……きっと、ダーレーンが手を回したんでしょうけれど。ジェンセンが守りを固めてくれて本当によかったと思うわ」
「……あれで固まったのかどうかはわかりませんけどね」
八方向に描いた魔法陣が、どんな効果を持つものかアイラにはわからない。防御を固めているのには間違いがないのだろうけれど。
「何はともあれ、しばらくの間は気を引き締めておかないといけないわね。後宮に外部の人が入ってくるなんて危険きわまりないものね」
「……その心配もごもっともですな」
「だからー! いちいち転がり落ちるのはやめなさいっ!」
エリーシャのすぐ側に、ごろんと落ちてきたのはジェンセンだった。床に転がった父親をアイラは容赦なく蹴り飛ばす。
「いてて。娘よ、少しは父を敬いたまえ」
「敬われるようなことしたの?」
「うーん」
「そこで、首を捻るんじゃないっ」
ぎゃあぎゃあ騒いでいる父と娘の間に冷静にエリーシャが割り込んだ。
「それで、今日アイラを連れ出して描かせた魔法陣は何なわけ?」
ずれかけた魔術師のローブをきちんと直してから、ジェンセンはエリーシャの方へと向き直った。
「あれはですね……結界を破って入り込んできた者がいた場合の番人を置いた、と言ったところでしょうかね」
「……番人?」
今の今まで手に持ったままだったサンドイッチの最後のひとかけらを口に放り込んで、エリーシャは首を傾げる。
「ユージェニーとわたしが共同で開発した新手の魔法陣、といったところでしょうかね。あいつがどう使うのかは考えたくもありませんがね」
ジェンセンが話を続けるのを、アイラもエリーシャも口を挟むことなく聞いていた。ごくまれにジェンセンは生真面目な表情になる。今、彼は魔術師としての顔をしていて、口を挟むのははばかられた。
「皇宮に張り巡らされた結界が破られた場合、ユージェニーの作り出した魔法生物が目をさますようにしかけてあるというわけで――」
「……その魔法生物って、危険なんじゃないの?」
「そりゃ、まあ」
何事でもないように、ジェンセンは肩をすくめた。
「敵と見なした相手を全て破壊するまで動きをとめないのでね――対象者は魔力を有する者、皇宮魔術師は別として、ですが――まあ、欠点と言えば、魔法陣を描くというのに恐ろしく体力を消耗するということでしょうな」
「そういえば、何で疲れたのかしらね」
「ああそりゃ、軽く生命力吸い取られてるからだろ。何しろ魔法生物をしかけているからなあ。時々、魔法陣に餌をやらなきゃならん」
「ちょっ!」
思わずアイラは立ち上がった。
「疲れたと思ったら! 二度とやらないんですからね!」
「だーいーじょーうーぶー。パパ、そっちは手配済みだから」
アイラのその言葉を軽く受け流し、ジェンセンは来た時同様さっと姿を消してしまった。