新しい生活が始まる
自分の部屋に戻ると、エリーシャは腕を組んでジェンセンを見た。
「とりあえず、ここの警備状態は確認したんだもの――さて、ジェンセン。わたしが出かけたくなった時の警護はどうするつもりなの?」
「お出かけですか」
ジェンセンは額に手をあてて嘆息した。
「危険なことはなさらないようにとお願いしたはずなのですがね、皇女殿下。それなら娘を使ってやってください」
「やーよ」
エリーシャは唇を尖らせた。
「何のために後宮を出たと思ってるの。好き勝手に飲みに行くために決まっているでしょうが!」
「後宮にいたってやってたじゃないですか」
アイラのツッコミは、当然のことながら完全に黙殺された。
「いけません。庭までとお願いしたはずです」
珍しくジェンセンは一歩も引かず、エリーシャはふくれっ面になったのだった。
◆ ◆ ◆
こうしてエリーシャの隠遁生活が始まった。セルヴィスに何かあれば皇位継承者に復帰する可能性もあるから、隠遁したと言ってもだらだら過ごしているわけではない。
朝はフェランとライナスを相手に剣の稽古。それが終わったら休む間もなく家庭教師の授業が入っていて、昼食の間だけ一時中断。それから午後半ばまで再び授業だ。
それが終わるとようやく自由時間になって、ダーシーと過ごしたり、こちらに設けた書庫で調べ物をしたりという時間が取れるようになる。
「あいかわらず不細工メイクなのよねぇ……」
剣の稽古をしているエリーシャを眺めながら、アイラは嘆息した。こちらに来てからは、皇宮内にいた時のように短刀二本ではなくて、長剣をメインとした稽古が行われている。
さんざんフェランに叩かれて、エリーシャとライナスが打ち合っているのを眺めているところだ。
「アイラは素顔の方が可愛いもんなー」
フェランの軽口を、アイラは苦笑いでかわした。
朝化粧しなきゃいけないのが面倒なんですよ、とアイラは心の中だけでつぶやいた。街中に暮らしていた頃なら、化粧なんてしないで素顔のままカフェに立っていたのに。
いざという時、エリーシャの身代わりに立たなければならない身だから、不細工を装うのにもそれほど抵抗はないけれど――どちらかと言えば、朝化粧をする方が面倒だ、なんて口には出せない。
「アイラ、もう一度フェランとやりあうの?」
どうやらエリーシャがライナスから一本取ったらしい。こちらに向かって手を振るエリーシャの後ろで、ライナスが悔しそうな表情を一瞬だけ見せた。
「叩かれるから、嫌です」
アイラは即答した。
「ライナス様、お疲れでなかったらお願いできますか?」
「俺ならかまわないぞ」
叩かれる、という点ではフェランもライナスも変わらないのだけれど。アイラの相手をしていれば、ライナスはエリーシャに今みたいな表情を見せないですむだろう。
一応、アイラもライナスに気を使っているのだ。アイラ自身は関係のないところから見物しているだけだけれど、身分違いの恋に身を焦がすというのは多分つらいものだろうから。
◆ ◆ ◆
エリーシャはこちらに来てからは以前よりも自由時間が増えたと喜んでいた。
「あら、ウォリン・ゴンゾルフから手紙よ。珍しいわね」
詰め込まれている授業の数は以前と変わらないものの、国内外の要人に会うための時間がなくなったので、授業さえ終わってしまえば毎日自由に過ごせるのである。
「そのお手紙、どうやって届けられたんですか?」
「さっきベリンダが持ってきてくれた。彼女、毎日皇宮に飛んでいるでしょ。そこで預かってきたんですって」
「えー」
アイラは真っ赤になった。エリーシャが起きているのに自分がぐぅぐぅ寝ていたのでは侍女失格だ。おまけにベリンダが入ってきたのにも気づかないなんて鈍いにもほどがある。
皇女近衛騎士団のトップだったゴンゾルフ夫妻は、というと所属が変更になっていた。フェランとライナス、それにその他にエリーシャ付きになるために皇女近衛騎士団を退職した者はいるけれど、残った者の方がはるかに多い。
残った者たちも引き連れて、二人はセルヴィス付きの皇子近衛騎士団所属となっている。以前の近衛騎士団長はもともとゴンゾルフの部下だった男で、ゴンゾルフがトップに立つのに何の抵抗もなかったらしい。
ゴンゾルフが騎士団長、元からの騎士団長が副団長へと移動。イヴェリンは、というと皇子付き騎士団では女性騎士の必要はそれほど高くないことからゴンゾルフの秘書的役割に移動したらしい。というのは、全部エリーシャから聞いた話だ。
「二十四時間一緒でも飽きないんだから、あの二人羨ましいわね」
手紙を読み終えたエリーシャは、便箋をきちんとたたむと封筒にしまった。
「何か皇宮で問題があったんですか?」
「ないない!」
エリーシャは手をぱたぱたと振る。
「セルヴィスが結婚することになったくらいで」
アイラは目を瞬かせた。けれど、よく考えてみれば皇帝の孫はエリーシャとセルヴィスの二人だけだ。この二人に何かあれば血が途絶えることになってしまう。
皇帝の正式な跡継ぎになったというのなら、さっさと結婚するのが正解なのだろう。そうしなければ、妻の実家から援助を受けることもできない。
「ひょっとすると、お父様の従兄弟が生き残っている可能性もあるのだけれど……行方不明だし、セルヴィスに頑張ってもらうしかないわよねー」
「亡くなったエリーシャ様のお父様の従兄弟、ですか」
皇帝家の家系図はどうなっていたのだっけとアイラは記憶を探る。亡くなった皇太子の従兄弟というからには、現皇帝の弟の息子ということになるけれど――
「おじいさまにはジュリアスっていう弟がいたのよ」
「……いらっしゃいましたっけ?」
アイラは皇宮の住人にそれほど興味がある方ではないけれど、エリーシャ付きの侍女になってからは後宮内を歩き回る機会もあった。
けれど、ジュリアスという男性の存在を示すものを今まで見たことは一度もない。
「廃嫡されたのよ。だから、彼の存在はなかったことになっているの」
「廃嫡されるってよっぽどですよねぇ。何かやらかしたんですか?」
たとえば、自分が即位するために兄を殺そうとしたからとか。
そんなアイラの疑問を、エリーシャは首を横に振ることで吹き飛ばした。
「まずは生母の身分が低かった。わたしの曽祖父にあたる人がお忍びで街に出かけた時にお付き合いしていた女性らしいわ。生母の身分だけならともかく、ものすごく自由奔放な人でね。皇族としては不適格もいいところだったし、貴族としてもやっていけないだろうって」
「……そんなことがあったんですか」
アイラは自分の父親のことを思い浮かべた。彼も自由奔放な人間だ。もし、彼のような人間だったとしたら皇宮で生活していくのは無理だっただろう。
そんな人が皇宮にもいたとはちょっと信じられなかった。