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出立前夜

 神聖タラゴナ帝国皇女エリーシャの、皇位継承権の一時預かりが決定されたのは、皇宮が襲撃されるという前代未聞の事件があってから半月後のことだった。

 エリーシャ自身の皇位継承権は皇帝家預かりとなり、彼女が皇位を継ぐことはなくても、子どもたちの継承権までは奪われない。これは、現在皇帝家の血を引く者が限りなく少なくなっているために行われた苦肉の策だった。


 皇女エリーシャは、近頃の心労がたたり、病がちになって寝込んでいることが多い。

 そのために、皇子セルヴィスが次期皇位継承者と定められた。

 もし、セルヴィスの身に何かあればエリーシャがもう一度皇位継承者に返り咲くこともあるかもしれない。それはその時になってから考えるべき問題として、ひとまず棚上げという前例のない措置である。


「……誰が病がちなんでしょうねぇ?」

 エリーシャの私室にいたアイラは、腰に両手をあてて嘆息した。皇位継承権預かりが決定した後、慌ただしく出発の準備が整えられている――それでも一月以上かかった――のだが、その間エリーシャは自室で暇を持て余しているのだ。


「わたしよ、わたし。あ、お代わり取って」

「かしこまりました」

 エリーシャの部屋のテーブルには、少なくとも五人分はありそうな料理が載せられている。

 外に出ることのできない皇女殿下の楽しみと言えば、飲むことと食べることに集約されてしまっていて、皇女宮で働いているアイラは一日に何度も厨房まで往復させられていた。


「こんなに元気な病人がいるものですか」

 そう言ったアイラだったけれど、エリーシャが焦っているのもわかるからそれ以上の言葉はやめておいた。

「後手後手なのよね」

 エリーシャの視線が落ちる。手にしたグラスには、赤ワインが並々と注がれていた。

「敵がどっちを先に殺しに来るのか……それによって動き方を変えなくてはね」


 隣国の聖女――魔女セシリー。そして、蘇ったクリスティアン・ルイズ――エリーシャのかつての婚約者だった男。この二人はタラゴナ皇家に対し、非常に強い憎しみを持っている。

 セシリーの方はおそらく皇帝を殺せば気が済むのだろう――けれど、クリスティアンの方はどうだろうか。アイラは襲撃してきた時のクリスティアンの様子を思い出そうとした。


 エリーシャより少し年上の、はっきり言えば美青年だったと思う。だからこそ、彼の放つ禍々しい雰囲気はアイラを恐れさせた。

 あの時は夢中で、そんなことを気にかける余裕さえなかったけれど。


「わたしを先に殺しに来るか――、それとも皇宮に残った人たちを先に殺そうとするか」

「縁起でもないこと言わないで下さいよ」

 いつの間にかエリーシャがグラスを空にしていたから、アイラはそこにすかさずお代わりを注いでやる。

「そうでなくたって、すっかり寂しくなっているんですから」


 エリーシャについていた侍女イリアとファナ――この二人は行儀見習いのために後宮に上がっていた地方貴族の娘たちだ――は実家に帰った。これから先には巻き込むまいというエリーシャの判断だ。

 前にも同じことを言われた時には反対した二人だったけれど、今回はおとなしくエリーシャの言うことを聞いた。

 そのかわり、後宮に戻ってきたならもう一度働かせてほしいと何度も何度も言い残して。


 おかげで、エリーシャの身の回りのことはほぼ全てアイラの肩にかかっているのだ。

 エリーシャはたいていのことは一人でできるから、それほど大変ではないと言えば大変ではないけれど。


「正装用のドレスを着る機会がないだけよかったと思いなさいよ。あれは着るのがすっごーく大変なんですからね!」

 エリーシャはわずかに胸を反らす。ドレスのきつけはとても大変だという点にはアイラも完全に同意だった。

 あれを一人で着せろとエリーシャに命じられたら、ちょっと――ではなかった、かなり困ってしまう。


「結界の方はどうなっているのか聞いてる?」

「父とベリンダさんとユージェニーで頑張ってるみたいですよ。ユージェニーが、『料金分の働きはする』って張り切っているそうですから」

 セシリーやクリスティアンが攻撃してくるとなれば、魔術による攻撃が第一だろう。そのために、魔術による攻撃を跳ね返し、他者が立ち入れないようにしなければならない。

 アイラの父であるジェンセン・ヨークとその姉弟子であるベリンダ・キースの二人はついた師匠が同じだ。だから術式の組み方も似通っている。


 ユージェニーは二人とは違う流儀の師匠の下で学んだから、彼女の術式は二人の組み方とは違う。

 そんなわけで、アディリアというエリーシャ個人の領地にある別荘には二種類のやり方で結界が施されることになっていた。その方が強固になるからだ。


「エリーシャ様、入ってもよろしいですか」

「だめ」

 気安くエリーシャに呼びかけて部屋に入ってこようとしたのはダーシーだった。父の死によりレヴァレンド侯爵家を継いだダーシーは、正式なエリーシャの婚約者である。


 本来なら婚約者のうちは皇女宮にまでは入れないはずなのだが――どこでどういう手を使ったのか、エリーシャの私室にまで入り込む許可を皇帝から取り付けてきた。

 それをいいことに、彼は皇女宮内をふらふらとしているのである。

 もっとも、皇宮を離れてアディリアにまで同行しようというのだから、ここで制限しても意味はないのかもしれない。


「婚約、と言っても便宜上のものですからね? わたしの寝室に入ったらぶっ殺す……こういう言い方でいいのだったかしら、アイラ?」

「間違いじゃないけど、使わなくていいです」

 エリーシャとダーシーが実際にやりあったとしたなら、首が落ちるのは間違いなくダーシーの方だ。エリーシャの剣の腕は一応護衛ということになっているアイラのはるか上を行っている。

 剣を持って打ち合ったなら負けるというのを彼も承知しているから、入口のところに寄りかかるようにして立ったまま、そこから入ってこようとはしなかった。


「この部屋もすっかり寂しくなりましたね」

「かなりのものを持っていくんだもの。しかたないわ」

 エリーシャの気に入っていた家具はほとんどが運び出されて、今はアディリアに向かっているところだ。


「皇帝陛下に最後のご挨拶をしてまいりました」

 ダーシーが言うと、エリーシャは微笑んだ。

「――そう、わたしはもうすませたわ。出立まで時間がないものね」


 ここからアディリアまでは馬車で十日以上旅することになる。普段なら馬車でゆっくり行くところなのだけれど、エリーシャは魔方陣を使って転送してもらうことに決めていた。

 その方が楽だ――というより、道中での襲撃を恐れてのことである。宿泊先に被害が及ぶのは、エリーシャとしてもっとも避けたいところではあった。


 そして、その出立の日は明日と定められている。

「いよいよ……明日、ね」

「明日、ですね」

 複雑な関係の婚約者たちが顔を見合わせる。

「……お酒がなくなりますね。ちょっとワイン蔵まで行ってきます」

 アイラはそっと席を外すことにしたのだった。

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