まだ、負けてはいない
「アイラ。イリアとファナを呼んできてくれる?」
エリーシャの命令に、アイラは急いで立ち上がった。控え室にいるはずだった二人のことは、完全に頭から抜け落ちていた。無事だろうかと急ぎ足に廊下を歩いていくと、向こうからベリンダが二人を連れて戻ってくるのが見えた。
「敵は、非常に冷静だったようですね。この子たちは、無事でした。イリアの私室に身を潜めていたそうですが、危害は加えられていません」
少しおびえた様子のイリアとファナだったけれど、必要以上に取り乱すことなく落ち着いていた。エリーシャに一礼し、黙って壁際に控える。
クリスティアンの名を出さず、あえて「敵」という言葉を出したベリンダもまた、壁際へと身を寄せた。
急に静かになったエリーシャは、手近にあったクッションを引き寄せてそこに顔を埋める。いつになく打ちのめされた彼女の様子に、アイラはどう声をかけたらいいのかわからずその場から動くことができなかった。
クッションに顔を押しつけたまま、エリーシャは何かを口にする。それは、おそらく元婚約者の名前だったのだろうけれど――誰もエリーシャに不用意に近づこうとはしなかった。
「……ジェンセン」
クッションを押しやったエリーシャは、アイラの父の名を呼ぶ。
「ユージェニー」
続いて呼ばれたユージェニーは姿勢を正した。
「二人で、新しい屋敷に結界を張ったらどうなるの? 内部にいる者の安全は保障できるかしら」
ジェンセンとユージェニーは顔を見合わせた。
「……期間はどのくらいいただけるのですか」
「一月」
エリーシャの回答は明快なものだった。
「皇都から二週間ほど行った場所にアディリアという場所があるのは知っているかしら?」
「ダーレーンとの国境近くですな。確か、エリーシャ様個人の領地では? 屋敷もお持ちでしたね」
ジェンセンが言うと、エリーシャはにこりとした。話をさっさと進められるのが気に入ったらしい。
「皇女宮を出て、そこに移ろうと思うの。療養ってことでどうかしら」
「女帝の槍はどうなりますの?」
「ユージェニー、あなたは黙ってなさい。報酬はちゃんと払うわよ。タラゴナ皇家の者は約束は守るんですからね!」
エリーシャは話に割って入ろうとしたユージェニーを邪険に押しやった。
「あの、エリーシャ様」
恐る恐るアイラは口を挟んだ。
「皇女宮を出て、領地に移るって――皇位継承権はどうなさるんですか?」
「セルヴィスに譲るわ……というか、預けておくわ。それで、おばあ様も少しは安心するでしょ。安心はするだろうけれど……暗殺者を送り込まれない保証もないし、クリスティアンも敵に回ったわけだから――」
そこでエリーシャは黙ってしまった。表情が崩れるのを恐れているかのように唇をぎゅっと結ぶ。けれど、見事なまでの自制心ですぐに立て直した。
「後宮を出る以上、守りは完全にしておきたいのよ。命を落とすのはごめんだもの。クリスティアンとセシリーが、わたしとセルヴィスのどちらを先に狙うのかはわからないけれど、このまま皇女宮にいたんじゃ身動き取れないわ」
「……よろしいのですか」
この男にしては珍しく真面目な顔でジェンセンがたずねた。
「いい。セルヴィスにこの国を任せることはできないと思っていたけれど、それより先にやらなきゃいけないことがあるもの。死者の魂をもてあそぶ輩をこの国に入れるわけにはいかないわ。だって、わたしは皇女なんだもの」
決断したエリーシャは、きっぱりと言い切った。それから隣にいる婚約者の顔を見上げる。
「ねえ、もう一度聞くわよ? わたしは女帝の座を諦めるけれど、あなたはどうする?」
「わたしの返事も変わりませんよ」
エリーシャと同じようにきっぱりとした態度で言い返したダーシーに、アイラは少しだけ驚かされた。
「皆、よく聞いて。わたしは皇位継承権をセルヴィスに譲って、後宮を出る。アディリアからなら、ダーレーン側の動きも、ここにいるよりは調べやすいでしょう。イリアとファナは、実家に戻りなさい……あなたたちは、わたしと一緒にいるより、離れていた方が安全だと思う」
何か言いたそうに口を開きかけたファナをイリアが制した。
「皇宮にお帰りの時には、もう一度お仕えさせてくださいませ」
イリアのその言葉に、ファナも同意したようだった。
「アイラ、あなたは一緒に来てもらうわよ。ジェンセンの娘である以上、あなたが狙われる可能性は否定できない。結界に守られた場所にいた方が安全だし――」
「いざという時の影武者も必要でしょう、エリーシャ様? 言われなくてもついていきます」
アイラの口から出た言葉にエリーシャは驚いたようだった。そう口にしたアイラ自身も驚いていたのだけれど。
まさか自分がエリーシャの身代わりを買って出ることになるとは思ってもみなかった。死者を相手に戦った時、あれほど怖いと思っていたのに。
視線に気が付いて顔をそちらに向けると、何故かジェンセンがとても満足げな顔をしてこちらを見ている。妙に面映ゆくなって、アイラはつんと顔を反らした。
「それでね、聖女の槍のことなんだけど」
エリーシャは、ユージェニーの方へと身を乗り出した。
「今すぐには貸してあげられないの。だって、あれに近づくことができるのは皇帝だけなんだもの。わたしが生き延びて皇帝になったら貸してあげるけど、今すぐには無理だわ――前払い分は、別のもので支払おうと思うんだけどどうかしら。契約はまだ有効?」
「そうだと思いましたわ」
ユージェニーはむくれた表情になった。
「ジェンセン。あなた、魔晶石を作るつもりある?」
「作れって言うならね――面倒なことこの上ないが」
「ベリンダ、術の間結界を保持してくれる?」
「……やれっていうならやってもいいけど」
ユージェニーに話を振られたジェンセンとベリンダは、ユージェニーが何を求めているか完全に理解しているようだった。
「今回はそれで手をうちますわ、皇女様」
ユージェニーはわかっていない様子の皆に説明した。つまり、若返りの術を使うのにジェンセンとベリンダの協力を得ることで対価とする、ということだ。
「悪いわね、二人とも」
エリーシャが二人にそう言うと、ジェンセンは胸に手を当てて一礼して見せた。
「さあ、忙しくなるわよ。皆、警戒は怠らないように――カーラはどうしようかしら……」
意識を失っているカーラをエリーシャが見やると、ダーシーは肩をすくめた。
「睡蓮邸でお預かりいたしましょう。一人増えても、二人増えてもたいして変わりませんしね」
「そうね、じゃあ、お願い」
エリーシャの瞳がアイラの瞳とぶつかった。
「……頼むわね」
「……はい」
状況は圧倒的に不利だ。でも、エリーシャはまだ敗北宣言をしていない。
――それならば、アイラはアイラの役割を果たそう。アイラにたいした力なんてないけれど。
精一杯の決意とともに、アイラもまっすぐにエリーシャを見つめ返したのだった。
「後宮に売り飛ばされたら皇女を押しつけられました」にお付き合いくださってありがとうございました。ひとまず、第一部完、ということで完結ボタンを押しておきます。全体で文庫本三冊くらいの分量かなと思っていたのですが、現時点で一冊よりちょっと増えてしまったので四冊くらいの分量になるかもしれません。
先日活動報告に書かせていただきましたので、ご存知の方も多いかと思いますが、7月20日に別バージョンが「侍女アイラの後宮事件簿 身代わり皇女は波瀾万丈!?」として一迅社文庫アイリスから発売される予定です。発売後もWEB版は残りますし、引き続き更新も行っていきます。
仕事の方が思いがけずばたばたしてしまったり、書籍化の作業に時間を取られてしまって更新が数か月単位で停滞してしまったのはあまりよくなかったと反省していますので、二部に関してはある程度書き溜めてから再開しようと思っています。
これまでお付き合いくださってありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。