レヴァレンド侯爵邸の謎
ジェンセンとパリィがダーレーンに入った後、アイラのところに彼らからの連絡が入ることはなかった。
アイラが密偵としてかの地に入った時、父から渡された青い宝玉。それはまだアイラの手にあって、呼びかければきっと父は応じてくれるだろうけれど、二人の身に危険を及ぼすことになるかもしれないと思ったら、それもできなかった。
ただ、連絡を待つだけの日々というのはアイラだけではなく皇女宮の皆を消耗させている。
エリーシャは皇女宮の外に出ることは極力控えていたけれど、アイラはライナスとフェランに頼んで剣の稽古を再び始めていた。
いつ、エリーシャの身代わりになる必要が出てくるかわからない。父のせいでこんな大事に巻き込まれることになったけれど、たぶんそれをアイラ自身は苦にしていない。
遠い人だと思っていたエリーシャに、気が付いたら忠誠心を抱いていた。こんな感情が自分に芽生える日が来るなんて思ってもみなかったけれど。
「アイラだったか、頼みがある」
剣の稽古から戻ろうと急ぎ足に中庭を歩いていると、背後から声をかけられた。
素性を知られるわけにいかないから、皇女宮に戻ってからは常に不細工メイクだ。ずり落ちた太い縁の眼鏡を元の位置に戻しながら振り返るとダーシーが立っている。
「……何でしょう、ダーシー様」
「皇女殿下にお目にかかりたいのだが」
「エリーシャ様は……」
どう返したものか、しばらくの間アイラは迷った。
「いや、婚約者としての面会をもとめているわけではないのだよ。我が家の使用人たちの記憶が戻ってきたのでね」
「……それはよかったです」
レヴァレンド侯爵家の使用人たちは、セシリー教団の手によって殺され、死体を操られ、あるいは生きたまま意志を失って従わされていた。
ダーシーが保護されるのと同時に遺体は皇宮内の魔術研究所に運び込まれ、生存者たちもそちらで手当を受けていたのである。
「ダーシー様の記憶は、戻ってきたのですか?」
アイラがたずねると、ダーシーはわずかに口角を上げた。
「少しだけ、戻ってきた。できることなら思い出さない方がよかったとも思うよ」
「あら、まあ」
なんだか今日のダーシーはいつもより疲れて見えるとアイラは思った。三十超えたばかりの男性をつかまえて、疲れているというのも失礼な表現だけれど。
「皇帝陛下の許可はいただいてある。この皇宮の中で一番安心できるのは皇女宮の書庫だろう? そこでお会いしたい」
「でも、今日は午前も午後も公務で埋まっているんです。夜にならなければ……」
さすがに夜に皇女宮にダーシーを入れるのもどうかと思って、アイラは困ってしまった。
「わかった。では、エリーシャ様になるべく早く、とお伝えいただけるかな? カーラは宮に入る許可が下りなかったけれど、ベリンダがいれば問題ないはずだ」
「かしこまりました」
そういうことならアイラとしても異存はない。ダーシーと別れて皇女宮に戻る。
「あら、ずいぶん遅かったのね」
外出のためのドレスに身を包んだエリーシャは、アイラが室内に入るのと同時に声をかけてきた。
「途中でダーシー様に呼び止められまして。皇女宮の書庫でなるべく早くお会いしたいとのことなんですけど。皇女宮に立ち入る許可は皇帝陛下からいただいたそうです」
「そう……、わかったわ」
エリーシャの決断は早かった。
「夕食後に、と伝えて。それから書庫を片付けてお茶の用意を」
皇女宮に閉じこもっていた間に書棚の数も増えて、今では床に散らばっている本はない。テーブルを入れれば食事をする場所くらいは確保できそうだ。
「あ、テーブルは低い方を入れるのよ。床に座るんだから。イリアとファナは夕食終わったら自由時間にしてもらって」
「かしこまりました」
居間でくつろぐ時には、エリーシャは床に直接座ることを好む。それがわかっているから、アイラはエリーシャの指示に驚いたりしなかった。
今日のエリーシャは前宮で、外国から来た高官たちと一日中会談しなければならないらしい。帰ってきた時には疲れて怒りっぽくなっているんだろうなぁと思いながら、アイラはイリアとファナと協力して食事の場を整える。
「あー、やっと終わった」
外国の高官に会うから、と今日のエリーシャはきちんとした装いをしていた。今日はイヴェリンが警護についていて、皇女宮の中まできちんとエリーシャを送り届ける。
イリアが淡い水色の衣服を持ってきた。皇女宮の中でエリーシャが好んで着る裾を縛ったズボンと共布のベストの組み合わせた。
「それでいい。あと髪をお願い」
エリーシャが身につけていた宝石類は、ファナの手によって片付けられる。アイラはエリーシャが脱ぎ捨てたドレスを隣室へと片付け、その間にイリアの手を借りてエリーシャの身支度を終えた。
ダーシーは未だにアイラの素顔は知らないし、これ以上知っている人間を増やすわけにもいかないから、アイラは不細工メイクのままエリーシャに従って書庫に赴く。
「お待ちしておりました」
エリーシャを見るなり、先に着いていたダーシーは恭しく頭を下げた。
「で、どうなの?」
「単刀直入ですね、エリーシャ様」
苦笑いでダーシーはエリーシャと向かい合うようにして座った。
べリンダは部屋の隅に陣取り、アイラはお茶の用意をしてテーブルに着く。
「我が家にセシリー本人がいたのは事実のようです――わたしは別邸の方にいると思い込んでいたのですが。わたしの記憶も使用人たちの記憶もとびとびで、それらの記憶をつなぎ合わせての推測ですが、間違いないでしょう」
そう切り出したダーシーの口調は重かった。エリーシャは首を傾げて彼を見る。
「……亡くなった人たちは?」
「ダーシー様、それはわたしから説明した方がよさそうだ」
隅に控えていたべリンダがわずかに身を乗り出す。
「恐らく、クリスティアン様の件にも関わってくることでしょう」
口調を変えたべリンダの言葉に、エリーシャは唇を噛んでうつむく。けれどそれは一瞬のことで、すぐに表情を変えて顔を上げた。
「続けてちょうだい」
エリーシャの声音に含まれる決意を感じ取って、思わずアイラの背も伸びた。