戻ってきた日常
ようやく日常に戻ったような気がする。午前中はエリーシャともども剣の稽古。それから公務や家庭教師との勉強時間を過ごすエリーシャに付き添って、午後のお茶。イヴェリンと出かけていた間は化粧なんてしなかったから、不細工メイクを施すのも久しぶりだ。
「やれやれ、くたびれるわね」
ダーレーン公用語の勉強時間というのは、エリーシャが一番嫌いなものらしい。ダーレーンの人間に命を狙われているらしい今となってはなおさらなのだろう。
「ダーシー様がお見えですが」
「客間に通しておいて」
イリアがダーシーを客間へと案内している間に、エリーシャは「婚約者に会うのにふさわしい」上品なドレスへと着替えて身なりを整える。
「おや、アイラはずいぶん久しぶりだね?」
アイラが付き添っているのに気がついたダーシーは、快活な声をかけてくる。初対面の時の半分死んだような姿とは別人のようだ。
アイラは侍女らしく控えめな微笑みを浮かべて一礼するにとどめておいた。
「彼女にもいろいろやってもらうことがあるのよ、ダーシー」
髪を結い直し、青に近い水色から、ごく薄い水色まで三色の水色を使い分けたドレスに着替えたエリーシャはダーシーを手招きした。
「まずはお茶をいただきましょう」
ファナが無言のまま立ち働いて、お茶のテーブルを調えていく。アイラはワゴンから大量の菓子を取り出してファナの指示に従ってテーブルに置いていった。
「……これはまた、大量ですな。エリーシャ様」
ダーシーの顔がひきつっている。
「今日は昼食を食べそびれたのよ。その分もかねているの」
エリーシャはしれっとした顔で嘘を吐く。アイラはとっさに俯いて表情を隠した。昼食を食べそびれたなんて嘘だ。しっかり二人前食べていたのを侍女たちは知っている。
皇女様が大食いだなんて知られたら、いろいろと外聞がよろしくないであろうことはわかっているので誰も口を挟もうとはしなかったが。
昼食兼である、との言葉通り菓子だけではなく食事用のパンにチーズやハムといったものも用意されていて、エリーシャはそちらに手を出すつもりらしい。
「アイラ、蜂蜜ちょうだい」
「かしこまりました」
大量にバターを塗ったパンにエリーシャは胸焼けしそうなほどの蜂蜜をかけた。
「それで? わざわざ出向いてきたからには何かあるのでしょ?」
たぶん昼食食べそびれたなどと言っても無意味な気がする。いっそ心地いいほどの健啖家ぶりを発揮してエリーシャは蜂蜜をつけたパンを食べ終えた。チーズとハムも手元の皿に移動させる。
「ここのところ、機嫌のよくなかったあなたが、剣の稽古の時にはずいぶん機嫌がいいようでしたのでね。何かあったのかと」
「わたしのことをよく見ているのね」
「一応、婚約者ですから」
なんだかこの人も腹の底が見えないなぁと壁際に控えたアイラは失礼なことを考えた。皇宮内の人間は、どいつもこいつも常に腹を探り合っているような気もする。
それは、セシリーのことを探っている父やウォリーナの槍と引き替えに協力を受け入れたユージェニーもそうなのかもしれないけれど。
「まあ素敵。愛されてるっていいわ」
完全な棒読みである。ダーシーはそれを気にした様子もなかった。遠慮なくマドレーヌに手を伸ばし、それを口に放り込んだ。
それはともかくとして、エリーシャの方もアイラたちが戻ってきてからのことを話す。ユージェニーのことは意図的に口にしなかったようだった。
とりあえずセシリーはジェンセン・ヨークに匹敵するほどの魔術師であり、宮廷魔術師が協力してセシリーに対抗する必要があること。
そのためには祖父である皇帝に宮廷魔術師を動かす許可をもらわなければならないことだけを告げた。
「なるほど。それではわたしは皇帝陛下にお話させていただきましょう――このくらいしかお役に立てそうにはありませんしね」
ダーシーはカップを持った手を上げてお茶のお代わりを要求する。心得顔でファナはお茶を注いだ。
「そうしてもらえるのなら助かるわ。おじい様をどうやって動かそうか考えていたところなの」
ダーシーの言葉に、エリーシャは素直に礼の言葉を述べる。
「それでは、わたしはこれで」
お茶の時間を過ごしたダーシーは、自分の宿泊場所へと戻っていく。
「こういう時のために彼と婚約したのよね!」
率直な意見をエリーシャは口にした。レヴァレンド侯爵家の現当主であるから政治的なことでは彼と彼の家の力が大きく物を言う。皇帝をどうやって動かすのかは、ダーシーの腕にかかっている。
「ダーシー様に、それが可能だと思います?」
アイラにはダーシーの手腕というのはよくわからないので、それを一番よく知るであろうエリーシャにたずねた。
「さあ。おじい様を動かすのはなかなか難儀なことよ。証拠もないことだしね――」
セシリーの手の者がタラゴナ帝国内で暗躍しているというのは、エリーシャのつかんだ情報でしかない。エリーシャ自身が別荘で襲われたという事実はあれ、犯人は今のところ不明だ――皇后が手引きしたのだろうということもエリーシャの憶測だ。
「まあ、なんとかするでしょうよ。そうでなければ困るんだもの」
結局エリーシャはそう言うにとどめておいた。
皇后が何も言ってこないのは不気味だとアイラは思った。もし、本当にエリーシャの命を狙い、ユージェニーを送り込んできたのが皇后だったとしたら。
ユージェニーが裏切ってアイラについたことを知ったなら、どんな手を打ってくるのだろう。
「そんな不安そうな顔をしないのよ、アイラ」
エリーシャはアイラの心情を見抜いたかのように微笑みかけた。
「前宮ならばともかく、後宮にいる間はおばあ様も下手なことはできないんですからね!」
後宮の守りは堅い。ジェンセンとユージェニーの二人がエリーシャについたならエリーシャは一番守られていることになる。皇帝をのぞいて。
「問題は、いつまでも皇女宮にとどまっているわけにはいかないってことよ!」
外に飲みに行けないのは大問題だ! と騒ぐエリーシャはこれから先のことを心配などしていないようだった。