ついには皇女役を押しつけられました
まだ、剣の稽古に戻ることのできていないアイラをゴンゾルフが近衛騎士団の団長室に呼びつけたのは、翌日のことだった。
稽古の時の動きやすい格好ではなく、侍女たちが身につけるお仕着せのまま皇女宮を出る。
団長室には、クッキーの甘い香りが漂っていた。
「いらっしゃい。ちょっとお話しましょうよ」
「はぁ……」
並べられたクッキーはどれもおいしそうなきつね色に焼けている。
「ご用ではなかったのですか?」
「ん? 用もあるのだけどね」
妙にしなしなとした動作でゴンゾルフはお茶を注ぐ。見てくれは熊男なのに、だ。
「昨夜、ジェンセンが来てたのですって?」
ぎくりとしてアイラは上目遣いに騎士団長を見やった。イヴェリンがいてくれればいいのに。救いをもとめて室内を見回しても、彼女は騎士たちとの稽古に行ってしまっている。
「あうー、あのですねぇ」
バカ親父がごめんなさい、と頭を下げようとした時だった。
「呼んでくれればよかったのに――まあ、それはともかくお茶にしましょ。お砂糖は? ミルクは?」
「……ミルクをお願いします……」
ミルクをたっぷり入れた紅茶のカップを口に運んで、アイラは息を吹きかけてさまそうとした。
「今朝焼いたの。クッキーもどうぞ」
「いただきます」
さくっと焼けたクッキーは甘さ控えめだった。
「それでね、今日あなたを呼んだのは――」
ぎくりとして、アイラは三つ目のクッキーに伸ばしかけた手をとめる。
「エリーシャ様の影武者として、やってもらいたいことがあるからなのよ」
「――影武者、として?」
「そうよ。影武者として」
アイラはしかめっ面になった。アイラが後宮にいるのには、影武者としての役割もあるのだけれど、アイラを保護する意味もあったのではないだろうか。
「バカね」
アイラの表情で気づいたらしく、ゴンゾルフは笑った。
「あんたの命より、皇女様の方が大切に決まっているでしょうが」
――言われてみれば、確かにそうだ。平凡な町娘より、皇女の方が大事に決まっているに。
「影武者って何をすればいいんです?」
ため息を一つついて、アイラは言った。おいしく焼けているはずのクッキーが、急に砂のように感じられる。
「――公式の場に出る時のエリーシャ様の代役すべて」
「む――無理ですよ!」
アイラはわめいた。
「エリーシャ様の代役なんて、わたしにつとまるはずないじゃないですか!」
とっさの時に、エリーシャの身代わりになって逃げるのとはまるで違う。
公式の場に立つとなれば、エリーシャとアイラの違いに気づかれる可能性ははるかに高くなるだろう。
そのための教育を受けてきたエリーシャでは立ち居振る舞いがまるで違う。
「わ――わたしは、ただの町娘ですよ! 平凡な!」
「誰が平凡なんだか」
ゴンゾルフは足を組み――妙に洗練された仕草でカップを口に運ぶ。
「平凡な、ただの、町娘が後宮に放り込まれてこんなに馴染むはずないでしょうが。あなた、自分が思っているよりはるかに図太いわよ」
「――それは、あの父と暮らしているからだと思います」
放蕩親父と一緒に暮らしていれば、嫌でも図太くなろうというものだ。
「はいはい、そこまで。いいわね? あなたに嫌という権利はないってわかってるでしょ? これはね、命令よ、命令」
ゴンゾルフがアイラの目の前でひらひらさせてみせたのは――父の借用書。そう言えば、借金は現実のものだった。
黙り込んだアイラは首を左右に振る。それから、ゴンゾルフに何をすればいいのかとたずねた。
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「――背筋をまっすぐ伸ばせ。エリーシャ様はそんな風には歩かないぞ」
ぴしり、と鞭の先が床をうつ。まさか本当にそれで殴られるとは思わないが、アイラは思わず身をすくませた。
「顎を引きすぎている! 時間がないんだ、さっさとやれ!」
イヴェリンは鬼だった。
騎士団所属――並の男よりはるかに剣の腕が立つ――ではあるが、もともとは貴族の令嬢だ。行儀作法に関しては、アイラのはるか上をいく。おまけに、アイラよりエリーシャと過ごした時間はずっと長いのだ。
「笑え!」
「笑えませんよ!」
アイラの唇がひきつった。
今、アイラが身につけているのは皇女のドレス。それも公務につく時の正装用だ。ゆるやかなラインの白いドレスの上に、金糸がたくさん使われたずっしりとした上衣を羽織る。
さらにその上に、宝石をじゃらじゃらと――ちなみに本物だ――つけているのだから落ち着かないことこの上ない。
その横についたイヴェリンは、騎士団の制服ではあるが、上着は脱いで側のテーブルに置いてある。
皇女宮の中の一室で、イヴェリンはアイラの特訓中だった。この部屋の周囲には、ベリンダが結界を施している。
この中で何が行われているのか、他の人に知られる恐れはない。
「アイラ! 背中を伸ばせと言っているだろう!」
また、ぴしりと鞭が鳴る。背中を伸ばせるものなら伸ばしたい。けれど、今着せられている衣装があまりにも重すぎてそれもままならない。
「――思いきりコルセットを締めつけるとかした方がよさそうだな」
あまりにもへなへなしているアイラの背中を手で押さえて、イヴェリンはイリアを呼びつけた。