後宮にたどりつきました
店主はアイラが後宮に仕えることになったと聞いて、涙ながらに送り出してくれた。人手がなくなるのは困るとは言っていたけれど、皇宮からの召し出しには逆らえない。
仕事を早く終わらせてくれた上に、夕食まで持たせてくれたのだからイヴェリンがよほどうまく口をきいてくれたのだろう。
アイラが家に戻った時には日は沈みかけていて、家を出る支度をするのに残された時間は少なかった。
「……娘を売り飛ばしておいて、自分は留守かっ」
大声を上げるが、返ってくる声はない。
アイラの父ジェンセン・ヨークは、昔は宮廷に仕えていた魔術師だと言うが、アイラからすればくそ親父でしかない。
気に入った魔術書を買うための費用は惜しまないくせに、その出所についてはまったく気にしない。あげくのはてに娘を売り飛ばすのだから、手のつけようがない。
父が戻った気配はないかと研究所内を見回したが、アイラが朝出て行った時と何のかわりもなかった。
「……どうしようもないなー」
アイラははたきを手にすると、父の魔術研究所へと足を踏み入れた。彼は、家の半分を研究所にしていて、そこには彼が集めた魔術書が山と積まれている。
「――本当に後宮に行っちゃうんだから」
アイラはつぶやいた。
研究所は、床の上に魔術書があちらこちらに散らばっている。足の踏み場もないそこで、たまにまじめに研究している父の姿だけはアイラは尊敬していた。
「……父さんが帰ってきても、掃除する人はいないんだけどね」
少しだけアイラもしんみりしてしまう。先ほどイヴェリンが言っていた。後宮に入ったら自由に出ることはできない、と。
父が戻ってきたと噂で聞いても、簡単に会うことはできなくなるだろう。
後宮に入って、何をさせられるのかは知らないがとにかくできることをやるだけだ――アイラはしんみりしかけた自分を奮い立たせると、猛然と研究所の掃除を始めた。
研究所の掃除を終えてから、着替えと生活用品を鞄に詰め込み、長期で留守にする家の始末を大家に頼む。
深夜近くにばたばたと眠りについて、目が覚めたのはイヴェリンが迎えにくると言っていた時間の少し前だった。
† † †
馬車の音に気がついて外に出ると、家の前に立派な馬車が停まったところだった。
「アイラ・ヨーク?」
問われて、アイラはうなずく。馬車の中から軽々と飛び降りたのは、昨日のイヴェリンと同じように白を基調とした皇宮騎士団の制服に身を包んだ男だった。
年は十七であるアイラより少し上に見える。短く切りそろえた金髪がまぶしい。アイラに向かって微笑みかけると白い歯が煌めいた。
「……目の保養!」
そんなことをぼんやり考えている間に、もう一人続いて降りて来た。こちらは最初に出てきた青年とは違って黒い髪をきっちりと束ねている。彼の方はむっすりとした顔でアイラを見る。
「目の保養その二!」
もう少し愛想よくてもいいんじゃないかとは思うのだが。
「フェラン・レイシー」
金髪の騎士が名乗った。容姿と同じように、話しかけてくれる声までまぶしい。
「……ライナス・ミラーだ」
むっすりとしている方の黒髪は、低い声で名乗る。
「荷物を運ぶよ。どれ?」
フェランが手を差し出した。
「……いや、自分で運べますから」
荷物といっても、着替えや日記に生活用品少々といったところで、たいした量ではない。フェランの手は断って、アイラは鞄を自分で持った。
「女の子に荷物運ばせるのはしのびないんだけどなぁ」
「……くだらないことを言ってないでさっさと乗れ」
ライナスはアイラを馬車に押し込み、フェランをせかして御者に馬車を出すように命じる。アイラの右隣にフェラン、正面にライナスが腰を下ろした。
「ねぇ、ねぇ、君、彼氏とかいないのー?」
「……はぁ、今のところは」
何だろう、こいつの緊張感のなさは。アイラはフェランが不愉快で、身体が密着しないようにじりじりと馬車の端の方へと身体をずらす。
それを見ていたライナスは、軽く肩をすくめたが何も見なかったことにしたようだった。
馬車の座席は普段乗ってる乗合馬車よりずっと柔らかくて快適だし、中の装飾も立派なのだが落ち着かない。
そうこうしているうちに、三人を乗せた馬車は皇宮の門をくぐっていた。馬車の窓から見える皇宮は、どっしりとした造りの白亜の建物だ。真っ赤な花が建物と地面の境目を飾っている。
「――降りろ」
ライナスが馬車の扉を開く。アイラは一つ、呼吸をすると足を踏み出した。
建物は無駄に――無駄に、と言っては悪いのだろうが広かった。廊下の床には赤いカーペットが敷かれている。
壁には一定の間隔で、皇族たちの肖像画がかけられている。
タラゴナ帝国の始祖女帝ウォリーナの赤いドレスをまとった姿。今でも即位の儀式の際には使われる巨大なルビーをはめ込んだ宝冠を頭に載せたその姿はりりしく、美しい。その隣に並ぶのは女帝の夫だった騎士の姿。
それから何代もの皇帝やその伴侶の前を通り過ぎて、アイラは巨大な扉の前にたどりついた。
「アイラ・リードを連れて参りました――団長」
「どうぞ、入って」
聞こえてきた男の声に、アイラの身が引きしまる。扉がゆっくり開かれた。