逃亡の果てに
「フェラン、先に行け」
追っ手たちが近づいてくると、ライナスは剣を抜いた。
「ここは俺が引き受ける」
「ライナスさ――」
振り返りかけたアイラを引きずるようにして、フェランは先を急いだ。
「振り返るんじゃない」
フェランは、厳しい声音でアイラに言う。
「でも――!」
「今の俺たちは『皇女殿下』を、追っ手から逃がそうとしてるんだ。殿下なら何が何でも守り抜かなければならないだろ?」
「――無事に逃げられた、かしら?」
いつまで逃げ続ければいいのだろう。アイラは木の根に足を取られて転びかける。強引にフェランに引きずり上げられた。
「大丈夫だろ。あっちには副団長がついてる」
いつの間にか、森の奥深くに紛れ込んでいたようだった。剣を打ち合わせる音もどんどん遠のいていく。
「――少し、休むか?」
アイラの足が動かなくなったのを見て、フェランはアイラを座らせた。
「五分だけだ。追いつかれたら困る」
「ライナス様は?」
「彼なら大丈夫――大丈夫だ」
自分自身が、そう信じようとしているかのようにフェランは言う。
「――行くぞ」
五分の休憩では、アイラにはぜんぜん足りなかった。けれど、足を引きずるようにして、またフェランに導かれるままに森の奥を目指す。
「どこまで行けば――」
「朝までだ」
フェランの答えは短い。朝まで何とか逃げ延びるしかない。彼はアイラにそう告げていた。
動物の声しか聞こえない森の中、逃げ続けるのは怖い。
握られているフェランの手を、ぎゅっと握ってみても返事はなかった。
「――もうしばらく行けば、少し休めそうだ」
やがて、フェランがゆっくりと言う。アイラがほっとして大きく息を吐き出した時、肩に鈍い痛みを感じるのと同時に何かに突き飛ばされた。
フェランとつないでいた手が強引にふりほどかれる。
「フェラン様!」
アイラは痛む左肩を押さえながら、よろよろと立ち上がる。フェランはアイラとは逆方向にはねとばされていたようだった。
彼は立ち上がった時には、もう剣を抜いていた。
「エリーシャ様! お下がりくだ――!」
アイラの側に駆け寄ってきたフェランは、アイラをかばうようにして立つ。油断なく、彼は左右に注意を向けていた。
アイラも剣を抜いた。皇宮内にいる時には、スカートの下に隠している短剣二本だが、今は腰に吊った長剣だ。毎朝エリーシャの稽古につき合って、腕の方は以前より上がっているのはわかる。
けれど、実際に戦いの場に立つのは初めてで――深呼吸を繰り返しながら、震える手や足を落ち着かせようと努力する。
異臭がする。
腐った卵のような。
臭いのもとを探りだそうと、アイラは左右に忙しく視線を走らせた。暗闇の中で見えるはずもないのに。
ふいにフェランが動いた。
左から来た敵と剣を合わせ、すぐに右からきたもう一人に立ち向かう。彼の動きに無駄はなかった。
いつの間にかアイラも敵と激しく切り結んでいた。震えていた手も、足も、こうなれば覚悟を決めてくれたらしい。
臭い。
アイラは顔をしかめながら剣を振り下ろす。相手はアイラの刃を交わしそびれ、アイラは相手の肉体を捉えたのを確かに感じた。
――いや、確かに捉えたはず、だった。
「いやぁぁぁぁぁ!」
こんなに甲高い声が、自分の喉から出るなんて思わなかった。手応えが肉を切った時とはまるで違う。
エリーシャとの稽古では、吊した豚肉に切りつける、という訓練も何度か行った。さすがに生身の人間を切るわけにはいかないから――その手応えとはぜんぜん違う。
ぐしゃりと崩れた肉体が異臭を放つ。アイラはもう一度、悲鳴を上げた。深々とわき腹に剣を突き立てられて、地面に倒れ込む。
顔から倒れたのに痛みを感じることもなかった。ただ、刺されたわき腹が熱い。フェランがアイラの名を呼ぶのが聞こえたような気がした。
違う違う――こんなの護衛侍女の役目じゃない。影武者だといっても、こんな化け物を相手にするなんて聞いてない。
アイラの目からぼろぼろと涙が落ちる。立ち上がる気力なんてなかった。
後宮に上がった時に、剣を持つとは聞いていたけれどこんなことに巻き込まれるなんて聞いてない。
フェランは正面から来た兵士を、一刀のもとに斬り伏せていた。けれど、斬り伏せられた兵士は、痛がる様子も見せずに、再びフェランに立ち向かってくる。
フェランは敵に囲まれながらも、何とかアイラのもとへとたどりついた。
「……おや、外れを引いたかしら」
木々の間に長いローブをまとった女が姿を見せる。彼女の表情は、フードに隠れてうかがうことはできなかった。
女が手を振ると、兵士たちは――兵士と言っていいのだろうか――暗闇の中へと消えていく。
「皇女を追ってきたつもりだったのにね」
くすり、と笑うと彼女はアイラの方に指を向ける。フェランがアイラの前に立ちふさがるのにかまわず、女はにこりと微笑んだ。
「偽りの姿を解きなさい!」
女の指から閃光が走ったように見えた。暗い森の中が一瞬、明るくなる。
エリーシャに似せたアイラの姿は、完全に元に戻っていた。黒い髪、黒い瞳。
「困るのよねぇ~皇女を殺せって言われてきたのに、侍女じゃ意味ないじゃない」
女はフードを払い落とした。暗闇の中に女の金髪が明るく浮かび上がる。
「そこの騎士さん、ちょっとどいてくださる? ここにいるのが侍女なのはわかるけど、一応始末しなくっちゃ」
ぎり、と歯ぎしりをしてフェランは女をにらみつけた。
「困るんだよねぇ~、ユージェニー。うちの大事な娘を傷物にしてくれちゃって、この責任はどうとってくれるつもりなんだい?」
完全に場違いなのんきな声がする。それが父親のものであるのと気づく前に、アイラの意識は失われていた。




