父、ジェンセンの研究
同僚の侍女たちをアイラは見送った。夜、エリーシャの側にいるのはアイラだけだ。アイラは護衛も兼ねているし、夜中の一人酒にもつきあっている。
側から見ていれば、アイラが一番の『お気に入り』の侍女であるわけだが、イリアもファナもそれをねたんだりはしなかった。
「エリーシャ様についていくのは大変だもの」
「それに、夜側にいたってエリーシャ様の護衛ができるわけでもないしねー」
昼の間は彼女たちが率先してエリーシャの世話をしてくれるから、アイラは彼女たちの後についていくだけでよかった。
そんなわけで、普通なら最後に入った侍女が一番『気に入られている』という状態であっても、皇女宮は平和であった。
アイラの日常生活は、最初にイヴェリンから話を聞いた時に感じたほど恐ろしいものというわけではなかった。
エリーシャの少し前か同じくらいに起床。ファナとイリアがエリーシャの身支度をしている間に自分の身支度をして、朝食に同席する。
それからエリーシャの剣の稽古に同行して、アイラもフェランもしくはライナスに稽古をつけてもらう。
基本的には、短刀二本を使っての稽古なのだけれど、最後に長剣も練習するので、かなりきついものだった。
エリーシャは時々先に稽古を切り上げて皇女としての公務に赴くこともある。午後はたいてい家庭教師との授業の時間だ。政治や経済など学ばなければならないことがたくさんあるのだそうだ。
しばしば後宮を抜け出して、夜の繁華街に出かけているエリーシャだったが、そういった義務をさぼることはあまりなかった。
アイラや他の侍女たちはエリーシャの公務に同行することもあるし、皇女宮で待機していることもある。
基本的には、平和な日常といえた。
アイラの父、ジェンセンの研究室から持ち出された資料は、皇女宮の一室に並べられている。
エリーシャは、しばしばそこに引きこもっていたが、何を探しているのかアイラたちに教えようとはしなかった。
ある朝、エリーシャは稽古を終えるとアイラを呼んだ。
「これから、ジェンセンの本を置いた部屋にこもるわ。あなたは、後から来てくれる? イリアにお茶の用意をさせて、ついでに持ってきてちょうだい。あと、クッキーは山盛りでお願い」
「かしこまりました」
アイラは頭を下げる。
「アイラ、あの方は何をするつもりなんだ?」
エリーシャを見送って、ライナスがアイラの背後から声をかけた。
「わかりませんよ、そんなこと」
ライナスはエリーシャを心配しているようだが、アイラにだってわからないこともある。
「エリーシャ様のことは、エリーシャ様におまかせしておけよ、ライナス。それよりアイラ」
フェランが話に割り込んできた。アイラの肩に手をかけようとするのをアイラはするりとかわす。
「非番の日の話なんだけどさ」
「非番の日?」
「一緒に出かけようよ」
アイラは微笑んだ。フェランが誘ってくれるのは、嬉しいが絶対に何か裏があると思えば受けるわけにもいかない。
「遠慮しておきます、フェラン様。ご自分のご身分にふさわしい女性をお探しくださいな」
こんなところでいつまでもフェランにつかまっているわけにもいかない。足早に立ち去ろうとするアイラを今度はイヴェリンが呼び止めた。
「すまないが、団長室まで来てもらえないか――エリーシャ様にはこちらから連絡を入れておく」
首を傾げながら、アイラはイヴェリンについていった。
「悪かったわね、忙しいところを呼びつけたりして」
「いえ、それはいいんですけど。何かご用ですか?」
アイラはこっそり目の前の二人を比べる。背が高く、ほっそりとした体型のイヴェリンは皇女近衛騎士団の制服に身を包んでいることもあって、知的で優美な男装の麗人といった雰囲気だ。
その夫であるゴンゾルフは、今はアイラのために手ずからお茶を用意しているところだった。慎重に茶葉をはかる手つきも、ポットにお湯を注ぐ手つきも、いたって穏やかなものだ。
がっしりとした体格と、褐色の髪と同色の髭をもじゃもじゃと生やしていることもあって、大きな熊のように見える。
「いつまでかかるんだ」
いらいらとイヴェリンがたずねた。
「ん、もう少し。それでね、アイラ――エリーシャ様のことなんだけど」
茶葉が開いていい香りがするまで十分に蒸らしてから、騎士団長はそれぞれのカップにお茶を注ぐ。
「今は何をしていらっしゃるのかしら?」
「わかりません。父の本を強引に皇女宮にお持ちになって、何かお探しになっているのは確実なんですけど」
「アイラ。お父上は何を研究していたんだ?」
今度はイヴェリンがたずねる。
「それもわかりません。だって、わたし魔術師じゃないですし――でも」
アイラは顎に手をあてた。
「ひょっとすると、幽霊を呼び出すとか――死者と話をするとか――死んだ人を生き返らせるとか――そういった類のことなのかも」
「なぜそう思う?」
眼鏡の奥のイヴェリンの瞳が鋭い光を発した。
「何でって――」
アイラは目を閉じる。頭の奥に父の研究所を思い浮かべた。
「このところ、父が集めたがっていた本は、魂とか幽霊とかそういった言葉が入った本が多くなっていて――」
騎士団長と副団長は顔を見合わせた。静かにイヴェリンが一つの名前を口にする。
「クリスティアン様」
ゴンゾルフは重々しくうなずいた。