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「君が決めてよ」を、断ることに決めました

作者: 瑠璃ひより
掲載日:2026/07/21


「エルザ、君が決めてよ」


 婚約者であるジュリアン・アードラー伯爵令息からその言葉が発せられた瞬間、エルザの胃の奥は不快感で満たされた。


 いつものサロン。ジュリアンは隣に座る男爵令嬢のマリアンヌの腰にこれ見よがしに手を回し、熱っぽい視線を交わしている。


「ねえ、ジュリアン様。来週の観劇のあとのディナー、どこにする? 私、お洒落で特別な場所が良いわぁ」


 マリアンヌが甘ったるい声でジュリアンの胸元に寄り添う。

 するとジュリアンは、エルザを値踏みするような小馬鹿にした目を向け、当然のように言ったのだ。


「エルザ、君が決めてよ。マリアンヌを満足させられるような、とびきりセンスの良い店をね」


 エルザの頭の中で、何かが冷えていくのが分かった。


 これまで、何度も何度も同じことが繰り返されてきた。


『君が決めてよ』

 そう言われて、エルザが彼の好みや格式、予算を必死に考えて手配した一流のレストラン。しかし、彼は一口食べるなり「なんだこの味は。苦すぎる。君のセンスは相変わらず壊滅的だな」と不快そうにカトラリーを置いた。


『君が決めてよ』

 そう言われて、エルザが彼の領地で行う慈善活動の企画を寝る間も惜しんで調整した。だが、ほんの少しでも計画に想定外の事態が起きれば、「計画性がない。これだから女の考えることは浅はかなんだ。君が決めたんだから、失敗はすべて君の責任だからね」と嘲笑した。


 自分で決める責任からは全力で逃げるくせに、他人が出した結論には上から目線で難癖をつける。そのくせ、物事が上手くいった時だけは「僕の婚約者ならこれくらい当然だ」と、自分の功績のように振る舞うのだ。

 その卑怯で、身勝手で、底の浅い人間性。


 マリアンヌが、エルザの沈黙を「困惑」と受け取ったのか、くすくすと扇の陰で笑った。


「あら、ジュリアン様。エルザ様にお任せして大丈夫かしら? ご自分では何も決められない、主体性のないお人形のようですわ。いつもジュリアン様からご指導されていらっしゃると噂で聞いておりますもの」

「はは、手厳しいね、マリアンヌ。まあ、エルザは僕が指示してやらないと、何一つ気の利いた選択ができないからね。ほら、エルザ。黙っていないで、早く店を決めなさい」


 二人が小馬鹿にしたような目で見つめてくる。どうせ自分達の命令を聞くしかないと思っているのだろう。


 他の女と一緒になって侮辱し、その上で自分たちの逢瀬の段取りまで決めさせ、気に入らないことがあればまたエルザのせいにして難癖をつける気なのだ。


 家のためと思って代わりに決めてやっていた。だが、これは明らかに契約外だ。


 張り詰めていた糸が、ぷつりと音を立てて切れる。


 エルザは、手にしていた紅茶のカップをそっとソーサーに戻した。磁器の重なる澄んだ音が、室内に響く。


「――いいえ。もう二度と、私は決めません」

「は……? 今、何と言った?」


 ジュリアンが不機嫌そうに眉をひそめる。


「聞こえませんでしたか? もう二度と、私はあなたのために何も決定しない、と言ったのです。店選びも、領地の書類も、今後の社交の予定も、すべてジュリアン様、ご自身でお決めになってください」

「何を言っている! 僕が君に『決める権利』を与えてやっているんだぞ!?」

「権利ではなく、責任の押し付けでしょう」


 エルザは冷ややかに微笑み、彼をまっすぐに見据えた。


「お気に召さない選択をされると、あなたはいつも私を責め立て、難癖をつけてこられました。自分で決定する責任から逃げ、他人の努力を貶めるだけ。そんな方の世話役を演じるのは、本日限りで辞めさせていただきます」

「エルザ様、なんて無礼な……!」


 マリアンヌがわざとらしく怯えてジュリアンの陰に隠れるが、エルザは意に介さない。


「ジュリアン様、あなたの人生ですもの。これからはご自分の頭で決定なさることね。お二人の仲睦まじい逢瀬の場所も、どうぞお二人でお決めになって。それでは、ごきげんよう」


 エルザは立ち上がり、深く礼をしてその場を後にした。

 親同士が交わした婚約であるため、今すぐの破棄は叶わない。けれど、彼に関わるすべての事柄から手を引くことを、固く決意した。


◇◇◇


 それからの日々、エルザの耳にはジュリアンの無様な噂が次々と飛び込んでくるようになった。


 エルザを失ったジュリアンは、すべての選択を自分で行わなければならなくなったのだ。


 ジュリアンの底の浅さが露呈するのは一瞬だった。


「ジュリアン様が、隣国との交易ギルドとの商談で提示する価格の決定を誤り、大赤字を出したそうですわ」

「お茶会の手土産に、重度の小麦アレルギーを持つ大公妃殿下へ小麦をふんだんに使った焼き菓子を贈ってしまい、大問題になっているとか……」


 サロンの隅で、令嬢たちがひそひそと噂しているのをエルザは聞いた。

 あらゆる選択を迫られ、そのすべてで間違いを犯すジュリアン。自分で調べることも、責任を負う覚悟もないため、彼の決定は常に場当たり的で最悪なものばかりだった。


 困り果てたジュリアンは、ついに新しく仲睦まじくしていた男爵令嬢、マリアンヌにすがるようになったらしい。

 ある日の茶会で、かつての余裕を失い、青白い顔でマリアンヌの袖を引くジュリアンの姿を目撃した。


「マリアンヌ、君が決めてくれ! 僕にはもう分からないんだ!」


 マリアンヌは得意げに「お任せください、ジュリアン様。私、とっても良いアイデアがありますの!」と胸を張っていた。マリアンヌは確かに流行に詳しく、異性の気を引くという面では正しい選択を示せる女性だ。だが、格調や礼儀が求められる場面ではどうか。

  

 盲目的に他者にすがるジュリアンが、取り返しのつかない失敗をするのは目に見えていた。

 

 だが、彼の面倒を見る義理など既にない。

 エルザは父伯爵と、アードラー伯爵家に依存しない領地経営を完成させていた。


 もしジュリアンが何か大きな失態を犯せば、すぐさま縁を切る。

 それができるだけの経済体力は備蓄していた。


◇◇◇


 そして、王家主催の式典の日が訪れた。


 会場は、煌びやかな光に包まれた大広間。エルザは実家の両親と共に、一歩引いた場所から会場の様子を眺めていた。ジュリアンはすでにエルザの婚約者としての体をなしておらず、今日もマリアンヌをエスコートして出席している。

 周囲の目が集まるのは当然だった。


「驚いた。アードラー伯爵家のご令息は血迷ったか」

「あれでは婚約者が可哀想だ。この場に来られるだけでもご立派というものよ」

「うむ。しかし、相手のご令嬢もこれまた派手な……式典をなんと心得ているのだ」


 貴族たちはひそひそと二人を品定めする。彼らの評を聞いて、エルザはこの場における力学を感じ取っていた。二人は受け入れられていないのだ。


 蔑みとも哀れみともつかない視線を浴びて居心地悪そうにするマリアンヌとは対照的に、ジュリアンはまったく気にしていない。「友人」として、マリアンヌを紹介して回っていた。


 やがて、彼が王太子殿下への献上品を手渡す瞬間がやってきた。

 マリアンヌが「絶対にこれが目立ちますわ!」と自信満々に選んだという献上品。

 ジュリアンが恭しく差し出した箱が、王太子殿下の前で開けられた。


 箱に収められていたのは、巨大な紫色の宝石があしらわれた長剣だった。


 王太子が取り上げて高々と掲げる。

 その瞬間、周囲の貴族たちから、一斉に息を呑む音が響いた。


 その長剣の細工は、かつて反逆罪で取り潰された旧王家の意匠そのものだったのだ。しかも紫は、現在の王家においては忌み色とされ、公式の場で献上することは不敬の極みとされている。


 王太子殿下の顔が、一瞬にして氷のように冷たくなるのをエルザははっきりと見た。


「アードラー伯爵令息。これは、我が王家に対する宣戦布告と受け取って良いのだな?」

「え……? いや、紫は高貴で好まれると……!」


 ジュリアンはガタガタと震えだし、血の気が引いた顔で傍らのマリアンヌを見た。


「マリアンヌ! お前がこれが良いと言ったんだぞ!」

「ひっ、私は、私はただ、お洒落だと思っただけで……!」

「静粛に!」


 王太子殿下の側近の鋭い声が響き、瞬く間に近衛兵たちがジュリアンを取り押さえた。


「連れて行け。不敬罪、および国家反逆の疑いで尋問する」


 床に押し付けられたジュリアンは、必死に周囲を見回し、エルザを見つけた。その目は狂気に満ちていた。


「エルザ! エルザ、そこにいるんだろう!? お前だ! お前が決めるのを放棄したからだ! お前がいつも通り献上品を決めていれば、僕がこんな目に遭うことはなかった! 全部、全部お前のせいだ!」


 大広間のすべての視線が、一斉にエルザに集まる。

 エルザは冷ややかな、けれど凛とした声で、彼に向かって言い放った。


「滑稽なことをおっしゃらないでください、ジュリアン様。私はあなたのために何でも決める世話役でも、都合の良い責任転嫁先でもありません。ご自分で選択した結果です。どうぞ、ご自分で責任をお取りくださいませ」

「な、何だと……!?」


 周囲の貴族たちからも、呆れたような囁き声が漏れる。


「なんと見苦しい。自分で選んだ献上品の責任を、婚約者に擦り付けるとは」

「さすがは『何も決められない無能』と噂されるだけのことはあるな」

「早く連れて行け!」


 ジュリアンは絶叫しながら引きずられていった。

 そして、彼に無知な吹き込みをして、事態を決定的に破滅させたマリアンヌもまた、「私は悪くありませんわ!」と泣き叫びながら、共犯者として衛兵に連行されていった。


 こうして、二人の投獄により、エルザとジュリアンの婚約は、エルザに一切の非がない形で正式に破棄された。エルザは、長年彼女を縛り付けていた重荷から、晴れて自由の身となったのだ。


◇◇◇


 それから一年後。

 エルザは、素晴らしいパートナーと出会い、新しい一歩を踏み出していた。


 相手は、若くしてその優れた商才を発揮し、家業を大きく発展させている同格の侯爵家令息、アルベルトだ。あの式典の日、毅然としてジュリアンに言い返したエルザに、恋に落ちたと言うのだ。


 ジュリアンのこともあり、最初は手探りで彼の素性を確かめた。そんな、ともすれば不誠実だととられない態度すら、「慎重で素晴らしいですね。きっと商売も向いていますよ」と褒めてくれた。 

 褒められ慣れていなかったエルザは、自分でも恥ずかしいと思いながらも、段々と彼に惹かれてしまった。


 二人が祝言を上げるのに、それほど時間はかからなかった。


「エルザ、今度の新しい領地間交易のルートについて、少し相談に乗ってもらえますか?」


 テラスの円卓で、アルベルトは地図を広げながら、エルザに穏やかな笑みを向けた。

 エルザは喜んで、と地図に目を落とす。彼は交易でとるべきルートに悩んでいることを打ち明けた。


 この地域は、過去に水利の調査で足を運んだことがある。現地の民に聞くと、地域によって治安に大きな差があるということだった。


「私は、北回りのルートの方が安全で、長期的にはコストを抑えられると考えています。ですが、アルベルト様の考えも伺いたいです」


「安全面から僕も北回りに賛成します。ただ、冬場の降雪のリスクを考えると、南回りの予備ルートも確保しておいた方が良いかもしれない。エルザはどう思いますか?」


「確かに、念には念を。では、基本は北回りで、冬期は南回りに切り替える方針が良さそうですか。その場合、隊列を守る傭兵を用いる場合のコストも計算する必要がありますね」


「そうですね。よく検討しておきます。……こうしてエルザと話し合って決められて嬉しいです。貴方は僕が気付かないところまで本当によく考えてくれますね」


 アルベルトはエルザの手を優しく包み込み、愛おしそうに目を細めた。


「ありがとう、エルザ」

「私こそ、ありがとうございます、アルベルト様」


 何かを決める、ということには大きな責任が伴う。

 アルベルトが決める責任を分け合ってくれることが、エルザは何よりも嬉しかった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。




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― 新着の感想 ―
最後も彼に選ばせて上げましょう。廃嫡か毒盃か。
これ、ジュリアンの性格見抜いてリードしてもらうためにジュリアンの親が頼み込んだ縁談だったのでは。バカ息子が自ら台無しににしたけど。
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