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陽炎にうだる

作者: 僕(語り部)
掲載日:2026/06/03

 



 二両編成の錆び付いた車両から降りた克樹は、顔に突き刺さる強烈な陽射しを億劫そうに片手で遮った。

 長時間、冷房の効きすぎた車内に揺られていた身体は、一歩外へ出た瞬間に茹だるような熱気に包まれ、じわり、と皮膚の裏から汗が滲み出してくる。

 耳の奥へ容赦なく絡みつくアブラゼミの喧騒と、山頂へ向かって駆け上る風が、青々と茂る草木をざわめかせていた。その息苦しいほどの青臭さが、否応なしに自分が故郷へ帰ってきたのだと実感させる。

 自動改札も駅員も、境界を区切るフェンスすら存在しない無人のホームで、克樹は左腕の腕時計に視線を落とした。

 時刻は十三時。姉の車が迎えに来るまで、もう少し時間がある。

 克樹は、使い古した革の財布から、くたびれた一本のミサンガを取り出した。それを右手首にあてがい、ほどけないよう念入りに括り付ける。成長した骨格には少し小さすぎるようで、編み込まれた糸は余裕なく手首の皮膚を締め付けた。

 しっかりと結ばれた赤茶けた糸の感触を確かめるように、克樹は何度か手首を回した。それから、ゆっくりと歩き出す。

 駅の出入り口にぽつんと佇む、古びた木製の運賃箱。そこに、克樹は慣れた手つきで切符を放り込んだ。


 克樹が高校の卒業と同時にこの街を旅立ってから、はや十年。駅の待合室の様子は、あの頃と何も変わっていなかった。

 年季の入った焦げ茶色のささくれ立った柱とベンチ。本当に動いているのか甚だ疑問に思えるほど埃をかぶった自動販売機に、昼間だというのに煤けた光を灯している丸蛍光灯。

 かつて待合室の入り口に吊るされていた、夏になると決まって涼やかな音を立てていたはずのガラスの風鈴は――、今はもう、どこを探しても見当たらなかった。錆びた釘だけが、所在なげにぽつんと残されている。

 西日に晒される壁に打ち付けられた、黄ばんだ時刻表。朝に二本、昼に一本、夜に二本。一日にたった五回しかこの場所を訪れない電車の運行予定が掠れたまま放置されていた。

 克樹はベンチの端に深く腰を下ろして、背負ってきたリュックサックを隣に置いた。冷房も何もない待合室は暑くてたまらないが、直射日光を遮る日陰であるだけ、いくらかマシに思えた。

 どこか物憂げな表情のまま、克樹は自身の右手首に巻いたミサンガをそっと指先でなぞる。

 昔、近くの神社で幼馴染の少女と交換したものだった。

 絹のように綺麗で、繊細な黒髪を揺らしていた少女――翔子。その生々しい思い出が、熱気に混ざって胸の奥に蘇ってくる。

 ふぅ、と重い息を漏らした克樹の耳に、じゃり、じゃり、と車が乾いた土の上を進む音が届いた。どうやら、迎えが来たようだ。

 よっこらせ、と克樹は重いリュックサックを掴んで立ち上がった。




 実家に、克樹の部屋はもう残っていなかった。

 数年前に姉が離婚し、幼い甥を連れてこの家に身を寄せたことで、かつて克樹が使っていた二階の部屋は甥の子供部屋へと様変わりしていた。そのため、今回の数日間の滞在で克樹に与えられたのは、一階の薄暗い客間だった。

 十年ぶりに足を踏み入れた実家は、その内側もガラリと雰囲気を変えていた。

 居間のソファも、台所のダイニングテーブルも、それなりに現代的なものへ新調されている。着実に老いていく両親の佇まいと、甥の成長に合わせて不自然に新しくなっていく家財のコントラストはどこか奇妙なミスマッチさを放っていたが、新しい家族を迎え入れるということはそういうことなのだろう、と克樹は自分を納得させた。

 両親はまだ裏の畑で作業があるらしく、家族全員で落ち着いて顔を合わせられるのは夜になってからだという。克樹は重いリュックサックを客間の畳の上に下ろすと、手持ち無沙汰な時間を利用して、久しぶりに故郷の街を散策してみることにした。

 玄関でスニーカーに足を通し、踵を床にトントンと打ち付けて馴染ませる。

 ガラガラ、と小気味よい音を立てて木製の引き戸を開け放ち、外の熱気の中へと一歩を踏み出す。その瞬間、

「いってきまーす」

 と、十年前と変わらない声音が、自身の口から自然と滑り落ちていた。

 気恥ずかしさと、確かな愛おしさ。やっぱりここは実家なのだなと胸の内で呟きながら、克樹はゆっくりと歩き出した。


 家を出てしばらく歩くと、視界いっぱいに緑が広がる。

 盛夏の田んぼでは、克樹の膝丈ほどにまで逞しく育った稲が、見渡す限りの青田となって、山頂へ向かって吹き上げる熱い風にざわざわと波打っている。

 あぜ道には、強い陽射しを吸い上げて伸びきったネコジャラシが頭を垂れ、足元にはちいさなツユクサが、その名の通り露を孕んだような瑞々しい青い花をひっそりと咲かせていた。

 遮るもののない一本道を、陽射しを浴びてじりじりと進む。

 田んぼの脇にある小さな畑には、大きな葉の隙間から、黒光りするような深い紫色のナスや、今まさに真っ赤に熟れようとしているトマトの実が、重そうに首をもたげていた。

 しばらく進むと、周囲の緑に埋もれるようにして建つ、一軒の古びた木造の建物が見えてきた。

 トタンの屋根は赤茶色に錆び付き、軒先には色褪せた「たばこ」の看板が傾いている。

 この村を出るまで毎日のように通っていた、村に一軒きりの駄菓子屋だった。当時は引き違いのガラス戸の向こうに、アイスの詰まったクーラーボックスや、色とりどりの駄菓子が入ったプラスチックの円筒が並んでいるのが見えたものだったが、今は重々しい灰色のシャッターによって、その光景は完全に遮られてしまっている。

 当時からすでに、経営していたのは八十を迎える老夫婦だった。あれから十年。克樹は閉ざされたシャッターを見上げながら、胸の奥に一抹の寂しさをにじませた。かつて子供たちの笑い声が溢れていた場所は、いまや熱風の中に静まり返っている。

 そこからさらに数百メートルほど歩を進めた先に、見慣れないコンビニエンスストアが建っていた。

 平屋の四角い店舗に対して、その何倍もの面積を誇るアスファルトの駐車場が広々と広がっている。照り返す陽射しの中で、数台の自動車佇んでいた。

 克樹は誘われるように、ふらりとその敷地へ足を踏み入れた。

 自動ドアが開いた瞬間、克樹を歓迎するように、キンキンに冷やされた乾いた空気が肌を打つ。外気温と室温の差に軽い眩暈を覚えながら、歩みを進める。

 ふと、飲料コーナーの棚に視線が止まった。

 白い光に照らされたショーケースの片隅に、懐かしいガラスの瓶ラムネが並んでいる。

 幼少の頃、幾度となく手を伸ばした硬質な輪郭。克樹は、何かに導かれるようにそれを手に取り、レジへと運んだ。


 じりじりとアスファルトが陽炎を揺らす駐車場に出て、克樹はラムネの口を塞ぐプラスチックのキャップを親指で押し込んだ。

 鈍い音を立ててガラス玉が透明な炭酸の中へと落ちる。それと同時に、ぷしゅー、と白い泡が少量吹きこぼれ、克樹の指先を濡らした。

 昔はこんなに溢れさせたりしなかったのにな、と、自分の不器用になった大人の手を少しだけ恨めしく思いながら、一口ラムネを喉に流し込む。舌の上に、懐かしい人工的な甘みと、微かなレモンとライムの風味が広がっていった。

 ガラス瓶の重みを左手に感じながら、歩を進めていると視界の先に見慣れた河川敷が姿を現した。

 克樹は、夏の日差しを吸って青々と生い茂る、芝と雑草の急斜面を滑るようにして下りていく。

 草を踏みしめるたびに、青臭い匂いが立ち上り、虫の羽音が耳元をかすめる。

 斜面を下りきると、大小さまざまな石が転がる、野ざらしの河原に足が着く。

 すぐ脇を流れる川のせせらぎが、周囲のセミの声を吸い込むようにして低く響いていた。

 今でもこの村の子供たちの遊び場になっているのだろう、一部の地面だけは不思議なほど雑草が低く均され、ぽっかりとした空白を作っていた。


「もー! 遅いよお!」


 不意に、すぐ背後から、涼やかな鈴の音を転がしたような声が響いた。

 克樹がその声に誘われるようにして振り返ると、そこには、絹のように滑らかな黒髪を胸元まで伸ばした可憐な少女――翔子が、少し唇を尖らせて立っていた。夏の眩しい光をその身に浴びて、彼女の細い輪郭がかすかにきらめいている。

 昔から翔子は、約束の集合時間よりも必ず早く来ていた。克樹が時計の針通りにやってきても、決まって今みたいに「遅い!」と一喝するのだ。

 自分は楽しみで仕方がなくて早く来てしまうのに、いつも通りの歩調で悠々とやってくる克樹のことが、どうにも恨めしくて堪らないといった風だった。


「またラムネ買ったの? かーくんはラムネがほんと好きだよね?」


 翔子はワンピース型の白いスカートの裾を膝下で揺らしながら、ローファーのつま先でじゃりと河原の小石を蹴ると、弾むような足取りで近づいてくる。

 克樹は懐かしむように目を細めた。そのまま背を向けて、川沿いをゆっくりと歩き出す。翔子の気配が克樹の右側一歩後ろに続く。

 未だに容赦なく降り注ぐ陽射しの束に、克樹はラムネ瓶を掲げた。まだ半分以上残ってる炭酸水に光を屈折させて、物憂げにラムネ越しの空を見上げる。本当に嫌になるほどの陽射しに、克樹は右手で拳を作った。



 十数分ほど川沿いを歩いたところで、コンクリートで舗装された道路へと突き当たった。

 村と山とを繋ぐその一本道は、容赦のない夏の日差しを照り返しながら、斜面に沿ってのたうつように蛇行し、やがて深い原生林の中へと消えていく。さらにその先、濃緑の山肌を見上げるように視線を這わせると、山の中腹あたり、鬱蒼と茂る木々の天蓋から、燃赤い鳥居の角が小さく覗いていた。

 幼い頃から、あの山中の神社には幾度となく足を運んでいた。夏には境内一帯が提灯の灯りで満ちる祭りがあったし、小学校の行事で、汗をかきながら境内の落ち葉を掃き集めることもあった。なによりこの村で唯一の社ということもあり、毎年正月の朝には、息を白く弾ませながら家族揃って初詣に行くのが決まりだった。

 克樹は道路沿いに山へ向かい、途中から山へと分け入る、歩行者用の古びた参道へと足を踏み入れた。

 大人が二人、ようやくすれ違える程度しかない細い道幅。そこへ、歪な形をした石階段が数十メートル先の鳥居まで何段も続いている。

 石と石のわずかな継ぎ目からは、踏み荒らされることのない夏草が青々と生い茂り、左右の木陰からは、小さな虫たちが、小道の結界を侵すようにせわしなく飛び交っていた。一歩上るごとに、踏みしめる土の湿り気と、生命力に満ちた草木の匂いが一際濃くなっていく。


「かーくん、早いよお……っ」


 背後から、息を切らした翔子の情けない声が追いかけてくる。

 昔から一緒にこの山を駆け回っていたというのに、彼女は驚くほど体力がなかった。いつも前を行く克樹の歩調についていくことができず、最終的には克樹のシャツの裾を必死に掴んで、ゼェゼェと肩を揺らしながら膝に手をつくのがお決まりだった。

 幼い当時は、そんな彼女の手を何も考えずに握りしめ、克樹がぐいぐいと引っ張って登ったものだった。それが思春期を迎えて、互いの掌が触れ合うことはなくなっていった訳であったが、すでに二十代の後半を生きている今なら、あの頃の子供じみた自意識なんて捨て去って、もっと自然に、優しく手を差し出せるような気がした。

 克樹は、自身の右手を胸の高さまでゆっくりと持ち上げた。

 ――いまさら、柄じゃないか。

 内心で呆れたように自嘲の笑みを浮かべる。

 ただ、翔子の遅い歩調に合わせるように一歩、また一歩と、静かに石段を刻んでいった。


 石段を登りきった先、神社の境内は驚くほど昔のままの姿で克樹を迎えた。

 赤鳥居から木造の拝殿までは、大小さまざまな平べったい敷石が地面に埋め込まれた参道が真っ直ぐに伸びている。その脇には固く引き戸が閉められいる社務所と、並ぶように古びた絵馬掛所が佇む。

 高校受験の冬、翔子と互いの合格祈願の絵馬を並べて括り付けたことを思い出しながら歩みを進めると、堂々とした木造の神楽殿が見えてくる。そこを起点として、参道と直角に交わるように、ぽっかりと広い土の広場が広がっていた。

 夏祭りの夜には、この神楽殿を舞台の軸に据え、広場の両脇を埋め尽くすようにきらびやかな露店が立ち並ぶ。そして、どこから集まったのかと思うほどの村人たちが、熱気の中でこの狭い境内を練り歩くのだ。


「かーくんの和太鼓叩く姿、ほんっとにかっこよかったよ!」


 克樹がぽつんと佇む無人の神楽殿を見上げていると、翔子が自分のことのように嬉しそうに言った。

 高校二年生の夏、克樹はこの神楽殿の上で、伝統の和太鼓を叩いた。村の若者たちが半年間、手のひらにいくつも肉豆を作りながらみっちりと練習を重ねて披露する太鼓の演奏は、この村の夏祭りにおける最大の華だった。

 神楽殿の上から見下ろした境内の景色は、今でも網膜に焼き付いている。深い闇夜の中、無数の提灯と灯籠の揺れる明かりが境内を厳かに黄金色に染め上げ、耳を圧するような太鼓の重低音が足元の床板を激しく震わせていた。

 演奏が終わった瞬間の神楽殿を取り囲む観衆からの拍手の中、神楽殿の真下の一番前で、自分のことのようにぴょんぴょんと飛び跳ねながら大喜びしていた翔子の姿を、克樹は今でもはっきりと、その熱気ごと覚えている。


 神楽殿を過ぎると、参道はついに終着点に至り、古びた拝殿にたどり着く。

 気の遠くなるような歳月を豪雪と湿気の中で耐え忍んできた年季の入った木造の社だった。

 かつて鮮やかだったであろう朱色の塗装はとうの昔に剥げ落ち、剥き出しになった木肌は雨風に晒されて煤けた灰色に変色している。せり出した茅葺きの屋根には青々とした苔が絨毯のように群生し、軒下の複雑な木組みの隙間には、蜘蛛の巣が白く煤けて絡みついていた。

 その中央に鎮座する大きな賽銭箱もまた、すっかり角が丸く擦り減り、幾千もの参拝客の硬貨を受け止めてきた傷が無数に刻まれている。

 天井から垂れ下がっていた一本の鈴緒は濁った灰色に煤けていた。元々は紅白に染め抜かれていたであろうその麻縄の先端の大きな麻の房はささくれ立って、力なく揺れている。

 克樹は革の財布から小銭を適当に掴むと、賽銭箱へと放り投げて、鈴緒を勢いよく引いた。

 ガラン、ガラン、と、緑青に塗れた真鍮の鈴が、どこか 錆びついた重い音を境内に響かせる。

 そのまま、二礼二拍手一礼。掌を合わせたその短い時間のあいだ、克樹の胸中には、神に乞うような願い事はただの一つも浮かばなかった。


「かーくんは何をお願いしたの?」


 鈴の音の余韻が消えゆく静寂の中で、翔子が下から覗き込むようにして顔を寄せてくる。

 ――言霊、って言ってな。神様へのお願い事は、人に言わずに黙ってた方が叶うんだ。

 毎年の初詣で、決まって願い事を聞き出そうとする翔子に対して、克樹はいつもそんな風にはぐらかしていたな、と思い出す。

 そもそも、今回は祈る言葉そのものが空っぽだったのだから、教える教えないの次元の話ではない。克樹は自嘲気味に小さく唇を綻ばせると、そのまま拝殿に背を向けた。


「えー! かーくんのケチ!」


 不満げに弾んだ翔子の声から、彼女がどんな風に唇を尖らせ、不服そうに頬を膨らませているか、克樹には手に取るように想像ができた。

 当時はただ、ひそかに恋心を抱いていた男が、神仏に向かって「どうか翔子とずっと一緒にいられますように」などと大真面目に祈っている事実を、世界の誰にも知られたくなかっただけだ。何より、隣にいる本人にだけは、絶対に悟られるわけにはいかなかった。

 けれど、言霊なんていう都合のいいものは、最初から存在していなかったのだと、今の克樹は知っている。

 どれほど頑なに口を閉ざし、誰にも明かさず、胸の奥底で大切に願い続けていた願いであっても――叶わないものは、何一つとして叶いはしなかったのだから。



 神社を後にした克樹は、再び山道へと足を踏み入れた。

 登山コースとしてもそれなりに整備されている山道は、幼い頃からこの山を遊び場にしてきた克樹にとっては、何一つの障害もない。息を切らすほどの苦もなく、ただ淡々と坂道を登っていく。

 しばらく木漏れ日の下を歩いた後、克樹は不意に、公に開かれた山道から逸れて、脇に隠された細いけもの道へと身体を滑り込ませた。

 かつて子供の足で何度も通った、高原へと続くショートカットだった。


 人の手が入らなくなって久しいその道は、夏の日差しを吸い上げた草木が克樹の膝丈にまで激しく生い茂り、好き勝手に四方へ伸ばされた枝が容赦なく行く手を阻む。

 克樹はそれらを無言で撥ね除けながら、湿った土の斜面を一歩一歩、足元を確かめるようにして確実によじ登っていった。

 数分間、足を止めることなくその急傾斜を登りきると、それまで頭上を覆っていた木々の天蓋が嘘のように消え去り、目の前が一気に、広々と開けた。

 ――この山の魅力としても知られる広い高原。

 遮るもののない真夏の青空の下、背の低い夏草が一面にじゅうたんのように生い茂り、吹き抜ける涼やかな風にさざ波を立てている。その緑の海のいたるところで、涼しげな薄紫色の九蓋草が長い穂を天に向けて伸ばし、それと競うようにして、鮮やかな黄色の黄苑が、点描画の絵の具を落としたかのように所々で美しく花開いていた。

 克樹はただ夏草を踏みしめて高原を通り抜け、ある一点の場所でぴたりと足を止めた。

 そこには、赤茶けた錆に塗れた鉄の杭が等間隔で地面に突き刺され、その間を、錆びついた重い鎖と、色褪せた黄と黒のトラロープが何重にもなって厳重に繋がれていた。

 風に揺れる鎖の真ん中には、ひび割れたプラスチックの大きな警告札がぶら下がっている。


『ここより先、滑落の危険あり。通行禁止』


 元々は山頂へと至る正規の登山ルートであったはずのその道は今は封鎖されている。

 克樹が高校三年生の夏に起きた、滑落事故。その直後に設置された当時は、まだ真新しく警告を放っていたはずの道具たちも、十年の歳月を経てすっかり色褪せ、いまや見る影もなくボロボロに朽ち果てている。

 当然、完全に廃道と化したその先の斜面は、生い茂る原生林と崩落した土砂に埋もれ、人間の足で登れるような道には到底見えなかった。


「おーい! かーくん! 早くおいでよ!」


 ――そんな、死に絶えた廃道の奥。

 傾斜の厳しい斜面の上で、翔子が白いワンピースというラフな格好で満面の笑顔で手を振っていた。早く、早くと、克樹を呼んでいる。

 克樹は、左手に持っていたラムネの瓶を傍らの夏草の根元にそっと置くと、自分の胸の高さまで張り巡らされた鎖とトラロープの壁へ手をかける。

 躊躇なくよじ登り、身体を向こう側へと翻して、静かに飛び越えた。


 剥き出しの岩肌を掴み、泥に塗れた木の根を掴み、克樹は両手両足を使って道なき道を進んでいく。爪の間に容赦なく土が入り込むのも構わず、ただひたすらに、斜面をよじ登っていった。

 数十メートルほど這い上がったところで、ようやく傾斜が緩やかになり、かつて整備されていた登山道の名残をとどめる土の道が姿を現した。

 次第に、足が早くなっていく。高校三年生のあの、湿気った重い暑さの中、前日の大雨でぬかるんだ山道を、山頂へ向かって一心不乱に進んだあの日のように。

 そして――克樹は、唐突に足を止めた。

 特段、その周囲に目立つものがあるわけではなかった。

 あるのはただ、乱雑に生い茂る夏草と、吹き抜ける風にざわざわと身を震わせる木々のさざめき。そして、日の光を遮り、克樹を上空から圧殺せんばかりに広がる、深緑の天蓋だけだった。静寂の中に、克樹の荒い息遣いだけが、場違いな異物のように響いている。

 克樹の視線は、山道のすぐ傍ら、足元の崖へと向けられていた。

 生い茂る草に隠され、いま立っている角度からでは一見分かりづらいが、その先は垂直に近い急斜面となって、暗い谷底へ落ち込んでいる。

 はるか下方から、ごうごうと、すべてを呑み込むような上流の川の音が、湿った冷気とともに這い上がってきていた。


「かーくん、早いよお……っ」


 あの頃もそうだった。いつも通り、克樹は翔子の前を、自分の歩調のまま先へと進んでいた。慣れた足取りで、ぬかるんだ泥道などものともせずに、背後から聞こえる彼女の弱音をいつものように笑い飛ばして。

 克樹は、ゆっくりとその場で振り返った。

 けれど、声が聞こえたはずの背後には、誰もいなかった。視界に広がるのは、ただ静まり返った剥き出しの自然だけだ。

 ――今も。十年前のあの日も。

 振り返った先に、翔子の姿はなかった。

 克樹は静かに視線を落とし、自身の右手首を見つめた。

 中学生の夏、祭りの露店で、翔子とお揃いで買った古びたミサンガ。山肌を滑落し、激流に呑まれ、消息不明のまま未だに見つかっていない翔子の、これが唯一の遺留品だった。

 あの時、自分を呼び止める翔子の手を、この右手で確かに掴んで離さなかったなら。彼女は今も、ここにいたはずなのに。

 標高1500メートルを超える山中では、16時を回ると、早くも木漏れ日の色が橙色へと染まり始める。

 克樹は深く、肺の底から息を吐き出して、再び崖下を見下ろした。斜面の一面には、十年前に彼女が滑り落ちた痕跡など、微塵も残ってはいなかった。


「かーくん!」


 けれど、翔子の姿と声だけは、十年が経った今でも、克樹の中で鮮烈に色褪せることはなかった。



 克樹が河川敷まで戻ってきたのは、17時半を過ぎた頃だった。

 雲ひとつない晴天の空は、いまや全天を燃やすような茜色に染まり、家々の向こうへと没しようとしていた。そろそろ両親も畑仕事を終えて、古い我が家へ帰ってきている頃だろう。

 克樹が河川敷の砂利を踏みしめながら空を見上げた、その時だった。足元が不意にもつれ、激しく転びそうになる。

 久しぶりにあの山を登った代償だろうか。足が、鉛のように重かった。


「かーくん!」


 克樹が踏みとどまった姿勢から視線を前に向けると、半袖の白いワンピースを揺らし、屈託のない笑顔を浮かべた十七歳の翔子が、河川敷の向こうで手を振っている。

 門限が近づき、この河川敷で一日の終わりを告げる時、「また明日も会えるから」と、無邪気に明日を信じていた彼女が、確かにそこにいた。

 絹糸のような繊細な黒髪の頭頂に、傾いた夕日が一本の滑らかな光の帯を描き出している。まるで天使の頭上に浮かぶ光輪のように、彼女の輪郭を神聖に縁取っていた。


「かーくん、またね!!」


 翔子は細い腕をいっぱいに伸ばして、頭上で手をブンブンと大きく振ってくる。

 けれど、克樹は彼女に手を振り返さなかった。振り返すことは、できなかった。

 カナカナカナ……と、どこか哀悼を捧げるようなヒグラシの輪唱が、小川のせせらぎと共に河川敷を寂しく満たしていく。

 克樹は、左手に中身の空になったラムネ瓶を握りしめ、右手は翔子の行方を探し続けたまま、翔子の陽炎が落陽の光の中に静かに消え入るまで、いつまでも、いつまでもその姿を見つめ続けていた。



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