欲しがる指先
イザベラの口癖が嫌い。
「いいなぁ、それ」」
あの子がそれを言うときの、あの湿度が嫌い。
妹のイザベラは昔から何でもかんでも欲しがる子供だった。私のものも、ちょっと歳の離れていた兄のものも、それから末の妹のものも何もかもをも欲しがった。
幸い、両親は非常に公正な人たちだったから、兄妹のものはなにも取られはしなかったけれど、それでも自分のものをじっとりとした目で見られるのはあまりいい気分ではなかった。
父があれは病気だとため息をつく。セレナ、つまり末の妹もそれに同意するように頷いて、だからイザベラのあの執着のことを、我が家ではイザベラの病気と暗喩するようになった。
彼女は本当になんでも欲しがった。私が家庭教師のマダムから頂いた金縁取りの栞も、お兄様がお父様から受け取った、アルフォンスと刻印の入った万年筆も、セレナとお母様のお揃いのティーコージーも。
今はまだ全て小さなものだ。けれどイザベラの観察力の高さに感嘆すると同時に恐怖を覚えるばかりだった。
いつかにイザベラ本人に聞いてみたことがある。我が家は資産が潤沢と言えるわけではない。それでも子供4人を問題なく養える程度には収入はある。欲しいものが無尽蔵に買えるわけではないけれど、それでも不満に思うほどではなかったから、イザベラの病気が一筋縄ではいかないだろうことは分かっていた。
「ねえイザベラ? どうしてそんなに私たちのものを欲しがるの? 綺麗だから?」
内心違うだろうと思いながらの問いに、イザベラは案の定首を振った。そうだろうなとぼんやり思う。
本当に彼女の欲しいものは、単純に綺麗だから、だけじゃない。
羨ましいから、だ。
私がマダムからいただいた栞は、よく学んでいますねという微笑みと共に与えられたもの。
お兄様がいただいた万年筆は、父の代わりに領地の問題を解決した兄に、これで次代も安泰だという言葉と共に渡されたもの。
セレナのティーコージーは、刺繍がどうしても苦手で落ち込む妹を励ますために、母がセレナと一緒に編んだもの。
イザベラが欲しがるものは物品そのものよりも、相手が思い入れのあるものばかりだ。褒められたり励まされたり、そう言う感情のこもった、見えない価値があるもの。
「違うの、お姉様。……わ、私は、だって、……わたくしはただ……」
イザベラが首を振るたびに彼女の長い髪がチラチラと光る。淡い金の髪。まだ12の彼女はそれでも将来を噂されるくらいには美しかった。
その美しさこそを武器にすれば良いのに、と私なんかは思ってしまうのだけれど。
「イザベラ? ちゃんとお話ししてみなさい。じゃないとあなた、病気を理由に遠くへ追いやられてしまうわよ」
問うても問うてもイザベラは泣くばかり。ろくに話もしない。口から出るのはだってだってだって。
本当にため息しか出てこない。
お父様やセレナはイザベラの欲しがり癖を病気だと言っていたけれど、私からすれば彼女の本当の病気はここだと思う。
彼女は理由を言わない。話さない。誰かがイザベラにとってなにか嫌なことを言ったらただ泣いて、だってだってを繰り返す。
そうやってだれかがもういいよと言うのを待っている。
言えばいいのにと本当に思う。確かに私たちは貴族だから、何かを言うよりも態度で示せと言われて育ったけれど、それはきっとイザベラが飲み込んだ解釈ではないと思うのだ。
正直に言えば、イザベラの気持ちは私も分からなくもない。私だって。
私だってお兄様のように父にお前がいれば安心だって言われたいし、セレナのようにお母様とお揃いの何かが欲しい。いいなと思う。ちょうだいよと手を伸ばしたくはなる。もちろんそんなことはしないし言わないけれど。だってそれは浅ましいもの。その代わりに私は本を開いた。悔しい気持ち、悲しい気持ちをぶつけるように勉学に励んで、その結果が私の手の中にある栞だ。
でも、そういう気持ちってみんなが持っているものじゃないの? だからこの感情には羨ましいって名前がついているんじゃないの?
そう思うと、やっぱりイザベラがなにも言わないのは、ただ泣くばかりなのはどうしても病気に見えてしまうのだ。
それからもやっぱりイザベラは何かを欲しがっては諌められ、泣き、誰かにもういいよと言われ続けていた。その内、誰かの数は段々少なくなっていっていたけれど、それでも相変わらずイザベラは誰かのものを欲しがった。
私の子供時代はそうやって過ぎていった。
ほらね、やっぱり。
貴族の義務の学院に入ることになって、そうしたら私たちの家からは遠すぎるから実家を離れなくてはならなかった。
私はマダムに褒められたのが本当に嬉しかったから、勉強するのが特に苦ではなく、その結果、学院ではどちらかと言うと優等生が多いグループに属した。
そうして一年たって同じように入学してきたイザベラは、やっぱり言葉を尽くさず泣いてばかりだった。それでも、両親やお兄様や妹や、たくさんの人がこの子に首輪をつけたのだろう、学院で聞くイザベラの様子はそこまで酷いものではなかった。
けれど、そのうちイザベラの美しさに酔った信者が生まれ、その信者の言葉に信者が生まれ、やがてそれは学院の流れを変えた。
まずいなと思ったのはその信者の急先鋒がどうも権力に触れ始めたと聞いたときだ。
今、この学院に王族の方はいらっしゃらない。つまり、絶対的な刃を持っていらっしゃる方がいない。
我が国において、王族以下の以下の貴族は上下の格はあるものの、押し並べてみな、王の部下だ。
つまり、王族以外であるならば、どれだけ高い身分のものも、みな、間違える可能性がある。
言い換えれば、みんな間違える権利があるのだ。
そして、同時に発生するのは、王族は間違えないということだ。
ということは、イザベラが間違っていると王族の誰かに言われた途端に、私たち一家は全滅すると言うことだ。
止めなくてはならないと決めたのは、イザベラの信者が城のお茶会への招待状を欲しがっていると聞いた日だった。
「愚か者!」
イザベラの頬を叩くのには、家族に連絡して送ってもらった扇を使った。
基本色は群青で、表面一面に我が家の嫡男の証明である意匠を施してもらった、今しか使ってはならないと固く約束させられた扇だ。
選んだ時間は昼下がり。一番人の行き来の多い場所で、一番人の行き来の多い中庭で妹の頬を扇で打った。
イザベラは私に打たれた衝撃で倒れ、その後に反射のように泣き出した。あたりは妙に静かだが、それでも人の囁く声が聞こえる。
たくさんの信者の輪の中心で微笑んでいたイザベラに一直線に切り込んで、威力自体は考えずに扇を振り上げたから多分そんなに痛くないだろう。だって扇自体が柔らかい。ちょっとでも力を込めたらぐにゃりと曲がってしまいそうなくらいの強度だ。
それが、家族としての最後の愛情だと、この子は気づくだろうか。
「愚か者、愚か者、愚か者!」
転んだ妹をさらに打ち据える。
お願い、早く言って。
お前の周りの信者が我に返るよりも早く、お願いだから言って。
私、本当に勉強しかしてこなかったから運動は苦手なの。長くこんな茶番を続けたらそのうち息が切れて、動きが鈍ってしまう。
お願い、イザベラ。お願いだから、申し訳ございませんと言って。
けれど、打ち続ける扇の間から見えたイザベラの瞳は、妙に笑っていた。
イザベラは可哀想な子なんだと喚いていた信者たちが消えていく。謀反を企んだと判断されたのだ、ある意味当然だろう。
王族との接触を図ったとされる急先鋒であった子息は死刑と判断され、彼が持つ家系もまた二親等までは処罰を受けた。
それでもだいぶ甘い処罰だと言えるだろう。なぜなら、中心に担ぎ上げられたイザベラをいち早く私が処罰したからだ。
あの日、もっとも目撃者が多い中で妹に無体を振るった私は、家のために動いたのだと判断された。
そうだろうなと思う。むしろそうでなければ困る。だって、そのために家族に現状を報告して、打開策を相談して、わざわざあの扇を作ってもらったのだから。
イザベラは、ただの謀反の旗頭として使われただけという評価に収まった。良かった。声を枯らしてまで連呼したあの愚か者の意味を王家は正しく受け取ってくださったらしい。
そうして彼女は我が家の生んだ反乱の種ではなく、愚か者として社交界に知れ渡った。
イザベラはもう貴族としては生きていけないだろう。
そして、父も責任を取る形で引退し、兄へと爵位は継承された。
兄に対して特に大きな咎めがなかったのは、愚か者を打った扇が嫡男の意匠のものだったからだ。だから、あれは表向き、我が家の嫡男である兄と、長女である私が父の許可を取らずに行ったことになっている。そのことと、父の引退とで、ようやく天秤がなんとか釣り合う形になったのだ。
イザベラはなぜ笑っていたのだろう。あの日、私が信者に力づくで止められるまでの間に彼女が口にしたのは
「やめて、お姉様!」だけで申し訳ございませんではなかった。
あの子が一言でも謝罪らしきものを口にしてくれればと思わずにはいられない。あの時謝っていれば、イザベラは信者の数に圧倒されて抗議の声を上げられない、哀れな令嬢になれたのだけれど。
なんであの子は笑ったのだろう。
もうきっと会うことはないのだから、なんとなくそれだけ聞いてみたかった。
「……だって」
まただってだ。いいや、聞き流そう。この子のだってに意味なんてないもの。本当に知りたいにはその奥にあるものだ。
「だって、お姉様。私は可哀想だもの」
「……は?」
思ったよりも低い声が出た。
誰も見送りに来ない、未だ夜の領域の中で、微かに人の動く気配がする。
社会的に死んでしまったイザベラのためにこんな時間に動いている人々の気配だ。それを、この子はなんて?
可哀想? なにが?
「お兄様は優秀で、お姉さまもやっぱり優秀で。妹は愛嬌たっぷりで。私だけ何もないじゃない? 器ばっかり美しくて中は空っぽ。そんなの可哀想でしょう?」
イザベラの口元が歪む。違う、これは多分、笑っている。でもイザベラ、あなたは美しかった。それはあなたの欲しい武器ではなかったの?
私は羨ましかった。あなたの美しさが羨ましかったのに。
「だって。だって、何が悪いの。私はお兄様のようにお父様に見ていてもらえなかった。セレナのようにお母様に愛してもらえなかった! ならせめてそのかけらを欲しがって何が悪いっていうのよ!? だって私、空っぽで可哀想じゃない!」
聞いているうちに眉がよる。やっぱり、私は彼女の湿度が嫌い。
「あなたが欲しがったのはかけらなんてものじゃないわ」
「いいじゃない! 記憶は残るでしょう!?」
愚か者め。
振り抜いた右手は正確に彼女の頬を打った。ああ、やってしまった。けれど、やってはいけないと思いつつ、ずっと私は彼女を打ちのめしたかった。
だって。
あなたのために、どれだけお父様とお母様がご苦労なさったと思っているの。責任をとって隠居すると言った父を、お兄様がどんな目で見ていたと思うの。セレナがティーコージーを差し上げたら何か変わるかしらって、どれだけ考えてきたと思うの。お母様があなたとお揃いの何かがあればと、どのくらいあなたの趣味や嗜好を聞いていたと思うの。
あなたは、それを全て自分は可哀想だという枠の外の出来事だからと切り捨てたのね。
ようやく分かった。
あなたの病気は言葉にしないところじゃない。
「あなたが欲しがったのはね、我が伯爵家の紋章であり、我が一族の総統たる証の印章であり、我が国のため跪く貴族の青い血よ、イザベラ」
可哀想ね、なんて言葉で私の妹が欲しがったものは、存在証明そのものだけだ。
馬鹿馬鹿しい。
馬鹿馬鹿しい!
不幸自慢ならイザベラよりも私の方がきっと可哀想だった。優秀な兄と美しい妹、母にことさら愛される末っ子の間で、両親は愛してくれたけれどそれは満足いくものではなかった。
お兄様が羨ましい。将来が楽しみだと言われるイザベラが羨ましい。お母様に私の可愛いむずかりちゃんと言われるセレナが羨ましい。けれど。
それでも想像はできたわ。兄がどのくらいの期待を背負ったか。あなたがどのくらい将来を匂わせる大人をかわしていたのか、セレナがどのくらい努力していたのか、そんなこと考えたら、いいなあなんて言葉は口にできなかった。
「あなたの本当の病気はその辺だわ」
考えなさいよ。ちゃんと想像なさい。自分のために動いてくれる人が周りにいる意味を。自分の何かで誰かが傷ついてしまう可能性を。
ようやく朝日がぼんやり周りを照らし出し中で、イザベラは相変わらずだってだってと泣くばかり。
「だって、おねえさま……わたし、そういうのが欲しかった」
薄い陽光の中なのに、イザベラの髪も容姿もその瞳の湿度も何変わらずそこにあった。
本当に、……本当に。
わんわん泣くイザベラを見送って家に戻ると、どこかに行くお兄様とばったり会った。
「……行ったか」
「はい。まあ、見事に泣き喚いてはいましたけど」
思うところがあったのか、お兄様が笑う。
「お前、どのくらいここにいたい?」
「……どのくらいって、お兄様」
思わずこちらも笑ってしまった。だってどのくらいって、そんなのあなたが決めることでしょうに。
「そうですねえ……。スペアはいらないと確信するまで、でどうですか?」
「……案外恐ろしいな、お前」
暗に必要になれば追い落とすと宣言したら、兄の顔から笑みが消えた。
けれど、そんなに長くはいないでしょうけど。
「冗談です、お兄様。一回やって懲りました。私、あんなこともうやりたくないですもの」
家の名を背負って毎日過ごすなんて、私には無理だわ。
今度こそ笑うと、兄が苦い笑いを返してくれる。大丈夫、私はあなたのものは取らないわ。
いいなあとは、思うけれども。




